118.処刑人
その日の夜は雨が降っていて、歩くとパシャパシャと足音で水の音が鳴る。
人通りなどほとんどなく、静かな夜の町がそこにあるだけだ。
「はっ、はっ――」
そんな中、呼吸を荒くして走る男の姿があった。
左肩を抑えるようにしながら、後方をちらりと確認して、路地裏へと身を潜める。
懐からハンカチを取り出すと、肩の部分に当てた。
じわりと、出血が広がっていく――決して浅くない傷を、男は負っていた。
「くそっ、どうして俺が――」
「どうしてなんて、分かりきったことを言うねぇ……『裏切り者』」
「……!?」
バッと男が声のする方向を見る――二階建ての建物の屋上に、その女性の姿はあった。
雨に濡れた黒髪。露出度の高い黒い服は雨を弾いている――皮でできているのだろう。
手に持っているのは、先端が丸みを帯びた剣だ。
「……っ、メルベル・ロックフィールズ……!」
苦々しい表情で、男は女性――メルベルの名を口にする。
メルベルもまた、男に名を呼ばれてひらひらと手を振って見せた。
「はぁい、ここまで逃げたのは褒めてあげる。やっぱり、訓練されたスパイっていうのも中々やるね」
「スパイだと……!? どこにそんな証拠が――」
バサッと、メルベルが男の言葉を遮って、何枚かの紙を投げる。
男の目には――そこに記載されているものが何なのか理解できた。
男はこの国の人間ではなく、他国からのスパイとして潜入し、そして国内でもそれなりの地位に就いていたのだ。
しかし、どれほど見繕ったとしても――スパイである以上、いずれはその情報を外部に漏らすために連絡を取らなければらない。
長く続く雌伏の時――ようやく、男は握った情報を持って逃げ出そうとした時であった。……メルベルに襲われたのは。
「何故だ……」
「んん?」
「何故、ロックフィールズ家はこのようなことを請け負っている……! 王位継承戦に参加しているにも拘わらず、やっていることは処刑人まがいではないか!」
「処刑人まがい? あはは、おかしなこと言うねぇ? まがいじゃなくて、本物の処刑人さ。まあ、それを知っているのも限られた人間しかいないけどね。ロックフィールズ家は――代々祖国の敵となる者を秘密裏に処刑してきた。この剣だって、処刑をするために作られた剣なんだよ?」
メルベルが持つ剣――それは、『処刑人の剣』。
剣先が丸みを帯びているのは、その剣の役割が『斬首』にあるからだ。
本来にはそれ以外の用途はない……しかし、メルベルはそれを戦闘に用いていた。
そして、その実力は――王国でも五本の指に数えられる。
《英雄》と呼ばれるに相応しい女は、誰よりも英雄からかけ離れた処刑という行為を生業としている。
「……っ」
メルベルに交渉は無理だ――そう悟った男は、逃げる方法を何とか模索した。
追いつかれているが、まだ殺されていない。姿さえ隠せればまだチャンスはある。
そう考えて、男は逃げ出そうと立ち上がり、
「ご、ごめんなさい」
「は――ぐぎやあああああああっ!」
少女のか細い声が聞こえたかと思えば、次に感じたのは右足への激痛。
見れば、足が潰されている。それは比喩などではなく――少女が振り下ろした『フレイル』によって、簡単に男の足は潰されたのだ。
棘のついた鉄球は突き刺さり、痛みのあまり男はのたうち回ろうとする。
だが、貫通した針が地面に突き刺さり、男は逃げることもできなかった。
「あーあ……だからあたしに殺されとけばよかったんだ。ウイはあたしと違って残酷な子だよ?」
「そ、そんなこと、ないです」
「だったら一発で頭を潰せばよかったじゃないか」
「そ、それは……聞き出すこととか、あるかと思って」
少女――ウイは俯き加減に答える。
前髪で両目が隠れて、その表情を窺うことはできない。
革製のメイド服に身を包んだ彼女は、メルベルと同じように露出度の高い服を身につけている。
(くそ、が……! だが、油断を、しやがって……っ)
足を潰された以上――もう逃げることはできないだろう。
だが、せめて一矢を報いるのならば。目の前に現れたもう一人の処刑人を、せめてこの手で葬る。
男はそう決意して、『切り札』を使った。
「し、ねぇっ! 処刑人がっ!」
「……え?」
鈍い音が周囲に響く。
ウイの胸元を貫いたのは、男が魔力で作り出した剣――《装魔術》だ。
長い時間は作り出せないが、男にとってはそれが奥の手である。
発動までが早く、近距離であればどんな相手でも殺すことができる。本当であれば、メルベルにいよいよ追い詰められた時に使うつもりであった。
「こふ」
口元から血を噴き出し、ウイが自身の胸元を確認する。
男の作り出した装魔術に触れると、そのまま脱力して倒れ伏す。
「はっ、ははは……この足の礼だ」
「……」
「なんだ……? メルベル・ロックフィールズ、その表情は。まさか、怒っているのか? 仲間を殺されて……? だとしたら、ははっ、傑作だな。一矢報いることができて――」
「違うよ。全然違う。あんたはやっちまったなぁって」
「は、何を――」
メルベルの言葉の意味を、男はすぐに理解することになった。
視界の端に捉えたのは、鮮血に染まったまま、ゆっくりと立ち上がる少女。
「嘘だろ」
呆然と、男は立ち上がった少女――ウイを見据えた。
両目は前髪で見えないが、男を見下ろしているのは分かる。
ジャラリと、鎖の音を鳴らしながら、フレイルを持ち上げた。
太い針が抜かれる痛みが足を走る――だが、それ以上に目の前の光景が信じられず、ただ男は呆然としていた。
確実に死んだはずの少女が目の前に立っているのだから。
「ひ、一つだけ、訂正させてくださいね」
フレイルを振りかぶり、ウイが言い放つ。
「わ、わたしは――拷問官なので」
そうして――男は再び同じ痛みを味わうことになった。
お久しぶりの更新でございます。
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