その十四 アステカの巡礼
メキシコの伝説
アステカの巡礼
この伝説は約束の地に着く前にアステカ族が直面した数々の逆境を語っています。
アストラン(アステカ人:メシカ人の神話上の出発の地とされているところ)から、メキシコ合衆国の北東にあり、シナロア州・クリアカンという都市になる前に呼ばれた名前ですが、ウエイコルアカンまで一年かかったと云われています。
この都市に三年滞在しました。
この場所で、国の守護神であるウィツィロポチトリの像を製作しました。
この土で入念に作った像は巡礼の全ての期間で随伴されました。
運搬用に、「神の席」という意味で、テオイシパリと呼ばれたイグサの椅子が作られました。
肩に担いで運ぶのは神官で、四人居ましたが、彼らは「神の僕」という意味の「テオトラカマカスケ」という名前で呼ばれました。
クリアカンから、「七つの洞穴の場所」という意味のチコモストク(ナワトル語族では人類が出現した起源の地とされる)を通過し、メシカ族だけを残し、他の六部族は前進を続けました。
この分離は、彼らの言によれば、神が発せられた命令に従ったということです。
もちろん、偶像はメシカ族に残されました。
年末までチコモストクに滞在した後、コアトリカマックに向かいました。
そこで、その場所に現われた神秘的な二つの包みに従って、部族は二つの集団に分かれました。
一つの集団が着き、最初にそれらを発見しました。
それらの一つには、貴重な石が入っており、争いがありました。
というのは、神への贈り物としてそれを捧げようと皆が自分のものにしたかったのです。
もう一つの包みを開けると、丸太が二本入っているだけでした。
もちろん、ちょっと見て、それを取るに足らないものと見ました。
しかし、賢人で慎重なウイツィトンが告げることには、火を出すためには、その丸太のほうが宝石よりも値打ちがあり、部族が生き延びるためにはずっと役に立つということで、皆も納得しました。
そして、宝石を持った者たちは前進して行きました。
メキシコ盆地に着いて、トラテロルコという都市をつくりました。
丸太を持った者たちはメシカ族でした。
この物語を持つことが出来るという真実性とは別に、多くの場合最も大切なことはその対象の有用性であり、その美しさではないということを気にかけ、ありがたく思うことは大事なことです。
コアトリカマックに滞在すること三年で、名前は知られておりませんが、他のところに行きました。
そこから、アウアカトラン、アパンコ、チマルコ、そして、イピオルコミックと移動して行きました。
全部で約20年かかりました。
1196年にトラン(トゥーラ)という有名な都市に着いたと推定されています。
それぞれの場所で、着くとすぐに、神に捧げる祭壇を建立しました。
巡礼の時が来て、その場所を離れなければならない時は、世話をする人を付けて、老人と病人はそこに残されました。
または、個人的に、もう年老いて疲れてしまった者はその場所で定住することを選びました。
トゥーラでは、九年滞在し、別のところでもう11年滞在し、1216年にメキシコ盆地と考えられる都市スンパンゴに着きました。
この場所の首長は、トチパネカトルという名前でしたが、彼らを快く迎えました。
彼らの世話をして、快適に宿泊出来る場所を示しました。
この統治者はメシカ族の長に、息子のイルイカトルと結婚させるために貴族の娘が欲しいと頼みました。
メシカ人はこの頼みに応えなければならないと思い、トラカパンツィンを彼に与え、この娘は名高い若者と結婚しました。
彼の子孫から、メキシコの王家が出たのです。
スンパンゴで七年滞在した後、この名高い若者、イルイカトルと一緒にティサヨカンに行きました。
そこで、若い娘はウイツィリウイトルという名の息子を産みました。
この同じ時期に、別のメシカの娘をクアウティトランの支配者であるショチアツィンに嫁がせました。
ティサヨカンから彼らはいろいろな場所に移動しました。
エカテペック、トルテプラン、チマルパン、クアティトラン、ウエツァチトラン、テクパヨカン、テペヤカ、そして、パンティトランといったところに行きました。
それらは全て、テスココ湖の小川にある場所です。
メキシコ盆地に着いてから、メシカ族は、この部族が平和にやって来たことを見、どこにでも定住しても宜しいとする自由を与えたショロトル王によって承認されました。
しかし、テペヤカックにいた時、そこに隣接していたテナユカンの支配者であるテナンカカルツィンによって妨害され、たいそういじめられ、しかたなく、テスココ湖の西の小川のところにあった丘であるチャプルテペックに避難せざるを得なくなりました。
1245年にチャプルテペックに行った時は、ノポルツィンが治めていました。
この地で苦しめられた迫害は、シャルトカンとしては特別で、そこに滞在した17年後により安全なところを探しに行かざるを得なくしました。
湖の一つの端にあった幾つかの小島を見つけました。
そこはアココルコという名の場所でしたが、伝承によれば、52年間不安定な状態ながら滞在して暮らしました。
漁労と様々な種類の昆虫、沼の植物の根を食べて生計を保ちました。
衣服は湖に一杯生えているアモシトリと呼ばれる植物で作りました。
家は葦で作りました。
そこからあまり遠くないところに、クルウワカンという領主が居て、メシカ族が年貢を払わずにそこで暮らしていることを不満に思っていました。
その土地は自分の領地であると思っていたので、戦争を仕掛けました。
メシカ族は負けて、捕虜となり、ティサパンに連れて行かれ、数年の間奴隷として居住させられました。
ある戦いに参加した後、メシカ族は自由の身となり奴隷となる前に住んでいたところに戻って来ました。
すぐに、守護神を祭る祭壇を建設しました。
神のために特別な奉納の必要があることから、領主クルウワカンに授けて戴くよう乞いました。
これはかなえられ、神官によって送られてきました。
神官はそれを汚い布に包んで運んで来て、メシカ族の祭壇に置きました。
それをするや否や、さっさと引き上げて行きました。
メキシコ族はその奉納を見たくて、その包みを解きました。
それは、しかるべき期間まで守ろうと決めた本当の侮辱以外の何ものでもありませんでした。
その後、メシカ族は捕虜の状態から脱しました。
クルウワカンの北の方、後になってメシカルツィンコという名になりましたが、その当時はアカツィントランと命名されたところに行きました。
メシカルツィンコという名前はメキシコという言葉と同じ意味を持っています。
この場所はあまり快適な場所のようには思えなかったので、彼らはイシュタカルコに行きました。
少しずつ、メキシコという場所に近づいて来ました。
そこに二年滞在した後、クルウワカンの捕虜となって21年目にとうとう彼らの都市を建設すべき湖の場所に着きました。
彼らの神々は彼らに、蛇を咥えてノパルサボテンの上に止まっている鷲を見つけたところこそ定住すべき場所であると告げておりました。
まさに、そこでした。
彼らはその場所に、ノパルサボテン、即ち地の木であり、石の中から生まれしもの、そしてその上には一羽の鷲を見たのです。
これが彼らの神々が与えたもうた印であり、ついに彼らの巡礼の旅は終わり、彼らの都市を建設することとなったのです。
- 完 -