第2章
彼女は私の気の利いた一言を聞くと、わざとらしくうっとりとしてみせた。彼女は、こうすることで、私が寡黙だか然るべき場面では他人に気配りできる「できる男」であり、自分はそのような「できる男」に好かれるほどに魅力ある女なのだと思い込みたいのだった。私にはおよそ納得しかねるが、これが女性のコケットリーというものなのだろう。私はメニューを見て注文を決めてからもしばらくメニューを眺め、未だに決めかねている優柔不断な男を演じた。そうすれば、彼女はしばらくの間満足げな笑みを湛えながら、黙って私を見て黙っていてくれるに違いないと思ったのだった。
私は数年前から生活費を賄うため塾講師のアルバイトを始めた。そして、ある夏の講習会期間中に開催された完全1対1の個別指導プログラムに申し込んだある高校生がいた。有名大学への進学率の高いいわゆる進学校に通う女の子であったが、不幸にも『エリート講師が教える偏差値を20アップさせる勉強法』なる看板文句につられてやって来たのだった。
彼女は、私の指導を受けるや私ことを気に入ったようで、短期間の講習であったが信頼関係を築き、そして打ち解けた。塾の方針によって講師と生徒との連絡先の交換やプライベートな接触は禁じられていたが、そのような規則の合理性に疑問のあった私は、純粋な反抗心から規則を破りたいと思うようになったこと、他方で彼女は私との関係継続を望んでいたことから、私と彼女は講師と生徒という関係から脱却し、男と女として交際するようになったのである。
このように、私たちは互いに全く異なった理由から関係を持つようになったが、根っからのオプティミストである彼女は、相思相愛の関係であると信じていた。時を経ても決して輝きを失わないロマンチックなおとぎ話に自分自身を嵌め込むことで、彼女は不老不死の姫君、久遠の存在となったのだった。
彼女は飽きもせず私を見つめていた。不意に、私は彼女に綾奈と過ごしたあの日の夜を具に思い出した。彼女の意識の奥に秘められた崩壊への欲望とそこにつけ込んだ私の言葉の魔力――そして私との間で美の世界を共有するために犯した過ち――これらが幾何学的に絡み合い、織りなす絢爛たる物語、あの真に美しい喪失の物語を、目の前の無垢な18歳に対して語ることができたならば、きっとまたここに美が生まれるだろうに。しかし、私にはこれを慎まなければならない理由があった。私はこの日出掛ける前からすでに決心していた。真実は、私の口から語られるよりも、人伝に噂話として語られるほうが甘い魅惑の果実となるに違いなかった。光が最も輝きを増すのは、光と対照的な存在である闇の中においてであるように、美は醜悪な存在によって美たらしめられるのである。