第2章 私の恋人
「原くんって、案外性悪だったのね。お互い夫や恋人がいるのに、まるで意に介さないんだもの。でも私も少しあなたの世界を垣間見られた気がするわ」
綾奈はそう言って身支度をし始めた。電気一つ灯されていない部屋で、黒い影の動くのが見えた。その動作に後ろめたさは窺われなかった。まるで今日出会う前から予期していたかのように、彼女は冷静沈着な様子だった。私も起き上がり、支度を始めようとすると、彼女は言った。
「そろそろお暇しようかしら。送ってくれなくていいわ。そんなに遅い時間じゃないし。ねぇ、原くん今淋しそうな顔してるんでしょう?あなたの駄々をこねる子どもみたいな、のろのろした動きを見れば分かるわ」
「馬鹿にするなよ。それより綾奈。俺と『美的感覚』を共有できた礼くらい欲しいもんだな。もっとも、綾奈に俺の『美』を理解できるのか疑問だが」
「確かにね。私は女、あなたは男。仮に同じ経験をしても感じることは別々でしょうね。でも今回は違うわ。だって、私は現にあなたの恋人からあなたを奪ったんですもの。あなたの恋人に幸あれ!じゃあね、原くん」
私は小さく手を上げ、綾奈を見送った。ドアが開き、その隙間から真っ暗な部屋の中に光が差し込んできた。彼女は前にも増して輝きを放ったように思われた。ドアが閉まる寸前、左手の指輪がキラリと光るのが確かに見えた。 私の感じた喜びを彼女が全て理解することはできないはずだった。彼女はほんの一部を、それも本質的部分以外の瑣末な部分のみを味わったに過ぎなかった。しかし、私には大きな収穫があった。それは紛れもなく、昨日から我が身に宿した魔力によって、美しい女性を思いのままに弄ぶことができたということだった。私は恋人の顔を目に浮かべた。彼女は哀れなほど頑なに私のことを信じていた。現在卒業まで56単位を残しながら、なお私が大学を無事に卒業できること、アルバイト先の不良会社からいつかきちんと耳を揃えて残業代を支給されるはずであること、そして一人の女性だけを一途に慕う人間であること。私は、去り際の綾奈の独り言のような一言を思い出した。そして、頭の中で、綾奈のきれいな声で何度も反芻した。『あなたの恋人に幸あれ!』
――3日後
ベッドに寝ころんで三島由紀夫の『鏡子の家』を読んでいると、冬休み前の短縮時間で帰りが早い小学生たちが大声で話しているのが聞こえてきた。
「それは、この前近くで殺人未遂事件があったからだろ?防犯ブザーなんてなくても、犯人もさすがに集団の小学生は襲わないだろうから平気だよな」
「お前はまず狙われないだろ。襲うメリットないじゃん。お金もないし」
「馬鹿だな。ああいう犯人は人の命を奪いたいんだよ。よくあるだろ、『誰でも良かった』ってコメントが」
これを聞いた私は、胸が苦しくなるのを避けられなかった。彼らの会話はいかにも微笑ましいものであった。しかし、それは小学生らしく本質を外して一向に要点を捉えない思考だった。私の意図を理解しない浅はかな考えだった。私は、窓から首を突き出し大声で伝えてやりたい衝動に駆られた。私が某国立大の学生であることを知らないどこかの私立大の学生が、自分たちより格下だと勘違いして話しかけてきたときに感じるのと同じ気持ちだった。それは単なる優越感とは程遠かった。『真実はそれと全く違うんだ。お前は何も分かっちゃいないんだ』私は、心が動物的にしきりにそう叫ぶのを、理性の力によってぐっと奥に押し込めた。しかし、誤解されたままでは私はこの世に存在しないに等しいのだと思い至るや否や、未知の世界に独り放り込まれたときに似た気の遠くなるような疎外感を感じざるをえなかった。