第1章
彼女は、端正な顔立ちが織りなす精緻なアラベスクのような、美しい微笑みを私に投げかけていた。私は、テーブルの上で軽く組まれている彼女の手を見た。彼女の指にはめられた指輪は、彼女の表情とは対照的に力無く淡い光沢を放っていた。そして、私はコートの中に収められている分厚い革財布に手を触れた。
「いや、金はあるんだ。俺の方こそ、綾奈の顔を見られて俺の眼が喜んでいるよ。むしろ、俺の眼が『お礼におごらせてくれ』と言っているようだから、今回は俺が眼を代表してお金を払うさ」
「何だか今日はやけにストレートな物言いね。何か企んでるの?おだてたって無駄よ。仮にも私は既婚者。最低限の節度は私だって守るわ。でもお金はあるのね。安心したわ。アルバイトか何かで稼いでるの?卒業こそまだだけど、原くんにも私と同じ立派な学歴があるんだし、働き口には困らないでしょう?」
私は言いたい欲求に駆られた。『実は俺、昨日強盗したんだ』と。『俺の拳が、路上の人間から悪に抵抗する力を完全に奪ったんだ。弱りゆく人間を、まさに目撃したんだ。その証拠が、まさにこの財布なのさ』と。こう言えば、間違いなく彼女は私の手に落ちるだろう。目が眩み、私から放たれる美のオーラに酔いしれるだろう。しかし、ここで私はぐっとこらえた。今は何もこんな手段を用いるまでもないではないか。誰も知らない神的存在が私に力を、美を与えてくれているではないか。美が化体し結晶化したこの財布を、財布にまつわる話をたやすく人目にさらすことはあるまい。私は昨日、行為に出た。それだけで充分なはずである。私には美が備わっているのだ。そう思えば、段々と自信がみなぎってきた。際限なく滔々と湧き起こる泉のように、今の私は、口にする言葉だけで彼女を思いのままに翻弄することができるという自信が満ち溢れてくるのを感じた。
「綾奈、実は君は俺に気があったんだろう?俺は白状する。あぁ綾奈のことは今も大切に思っているさ。いつも率直な物言いの君は、見た目だけじゃなくきっと内面も美しいんだろう。さて、俺は素直に君に対する気持ちを打ち明けた。そろそろ君の気持ちもさらさないか?」
私は、自分の言葉に力が込められているのを感じとった。美の力。死が生を征服するときに発する光。私は自分の言葉を自分で聞き、これに守られていると遂に確信した。
「さっき、結婚してからは美人だと言われてないと言ったね。そんなことを赤裸々に漏らすのは、君もまだ俺に気があるからだろう?綾奈、君は心の奥底で芸術家を求めているんだ。その無意識の欲望が言葉の形になって現れたんだ。違うか?そうだろう?」
こう言い終わった私は、彼女の顔から目をそらし、彼女の細い指にはめられたプラチナの指輪を見た。それはまるで、光を失った指輪は彼女の指を締め付けている錆びた鉄鎖のようであった。
そして、遂に、彼女は私の待ち望んだ言葉を言った。
「人からものを奪う瞬間の人間の心って、あなたの言うようにやっぱり美しいのね。あなたの目を見れば分かるわ。そうだわ。私も気分転換が必要よね。どう?今日、私とその感動を共有させてくれるかしら」