第1章
「いきなり何なの。そんな思わせぶりなこと、した覚えないけど?それに、何年も留年してまだ大学生のあなたと、とっくに卒業して働いてる私と、住む世界が違うじゃない。私もいい年だし結婚ぐらいするわ」
内容こそ至極もっともで辛辣でさえあったが、口調にはどこか我が儘な子どもをあやすような女性らしい温かみが含まれていた。私は頬杖をつきながら、彼女の口元をチラとうかがった。引き締まった理知的な口角は緩やかな曲線を描き、微かに上がっているように見えた。『私の咄嗟の策略は案外上手くいくのではないか。いや、もしかしたらもう彼女は気づいているかもしれない。』思考を巡らせていると、幸いにも彼女自ら、私の策略に関わる重大な話題を振ってきた。
「そういえば、原くん、今交際してる人いるんじゃなかったの?どうなの、上手くいってる?もしかして、ダメだったからさっきみたいなこと言ったの?ねぇどうなの?早く教えなさいよ」
「心配いらないよ。今も仲睦まじくやってるさ。ただ…」
私は、彼女の注意を最大限惹きつけるため、意味あり気に言葉を詰まらせた。彼女の目をさっと盗み見た。彼女は目を丸く見開いて私の次の言葉を待っていた。それは、単なる驚きの表情ではなかった。
「ただ、何よ」
「ただ、あの人には少し魅力が欠けていてね、内面において。あの人の心には芸術がない。走り回る仔猫や仔犬を見て『かわいいね』なんて言うんだ。古代から日本人が仔猫や仔犬を歌に詠んだことがあったか?美とは、散るもの消え行くものだ。病に伏し余命僅かの犬のほうが美しいに決まってるだろう。俺には理解しかねるな、彼女のセンスは。ま、それはおくとして、残念なことに、彼女は外面においても魅力が欠けているんだ。せめて見た目だけでも綾奈と変わってくれたならまだ我慢できるんだが。全く、あの人は、俺の美的感覚にそぐわない。あぁ彼女とは上手くやってるよ。ただし、彼女と会うときは、目を閉じ耳を塞ぐ必要があるだけさ」
「原くん、まだ美的なんとかなんて言ってるのね。周りから嫌われるでしょう?そんなこと考えなければいいじゃない。我が儘言ってたら、そりゃあ誰とも上手くいかないわ。でも原くん、私のこと美人だって認めたわね。結婚してからは夫からも言われたことなかったし、何だか気分が良くなったわ。今日は私におごらせてくれない?それに、お金ないでしょ?貧乏学生なんだから」