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黒い光  作者: 棚瀬孝之
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第1章

私は友人との待ち合わせまでの時間を潰すため、大学の図書館へ行こうと決めた。今日も講義はあるはずであったが、何限目に、どこで、何の授業があるのかを把握していない私には、図書館にしか居場所がなかった。私は、コートに読みかけの文庫本と学生証、そして昨日女子学生から奪い取った財布を突っ込むと、家を出、自転車にまたがって真っ直ぐ大学へと向かった。自転車をこぎ出すと、冷たい風が正面から吹き付けた。顔は冷たさのあまり感覚を失ったが、同時に胸が高鳴るのを確かに感じた。風の冷たさは、今まさに歓喜の境地に至らんとする人間に課せられた試練のように、厳しさと優しさを兼ね備えているように思われた。胸の高鳴りの原因は、友人との久々の再会だけにあるのでないのは明らかだった。私は、自転車をこぐ度に、コートのポケットに入った財布が膝に当たるのを思うと、それが赤い心臓のグロテスクな鼓動のように感じられた。



雑踏の中に赤いコートが閃いた。それは人混みを縫うようによろよろと歩くのではなく、迷いなく、真っ直ぐ向かってきた。その自信に満ちた赤いコートは段々と私の方に近づいてくると、やがて私の目の前で立ち止まった。そして、ヒールのために私と同じ高さの目線の彼女は、力強い視線を私の目に注ぎながら、やや低めの、小さいがよく通る声でこう言った。

「相変わらずね、原くん。正直言って、少しは変わったのかと期待したんだけれど。私が馬鹿だったようね」

この日私が会うことにしていた友人西綾奈は、私を見るや否や毒を吐いた。とはいえ、彼女の毒舌は主として会話に詰まらないために繰り出す計算された冗談か、照れ隠しをごまかすための単なるカムフラージュであることを私は知っていた。そのため、私の耳は彼女の可愛げのない挨拶をそのようなものと受け止めることができたのだった。しかし、不覚にも私の目は、彼女の顔に釘付けとなった。日本人にしてはやや高い鼻、やや薄情な印象すら与える唇と引き締まった口元、そして、奥二重に三白眼の鋭い眼。彼女は有り体に言えば美しい顔をしていた。久々に整った顔立ちの女性を見た私の眼は、素直に喜びを感じ彼女を捉えて逃すまいとしているかのようであった。私の眼がこの美しい顔立ちの友人を捉えているという事実は、やがて私自身にある種の説明し難い罪悪感を生じさせた。私は彼女を美しいと感じて良いのだろうか。私にそのような資格があるのだろうか。

 私は心に微かな葛藤を抱えながらも、彼女を近くの喫茶店にいざなうことにした。

「相変わらずなのはお互い様だろう。とにかく、積もる話は座ってからにしよう。俺は人混みが何よりも嫌いなんだ」

 あらかじめ待ち合わせ場所近くにある喫茶店を探しておいた私は、彼女を伴ってM喫茶店に向かった。

 店内は良くいえば落ち着いた雰囲気、悪くいえば寂れた雰囲気で、客は私たち以外に常連らしい中年男性が1人カウンター席にいるだけだった。私はマスターに指を二本立て、二人組の客であることを無言で伝えると、私たちは四人掛けのテーブル席に着いた。そして私たちは向かい合うようにして腰掛けた。座ったまま首を回して、照明や壁紙、壁に掛けられた安物の絵画など店の内装を一通り見終わった私は、前にいる綾奈にそれとなく目をやった。

 そのとき私は、見たくなかったものを見てしまったのだった。赤いコートを脱いで隣に置いたバッグの上に柔らかく畳んで置いた彼女の左手に、銀色の指輪が煌めいたのを私は見逃さなかった。 今日はそもそも3年振りの再会ということもあったうえ、何より私には胸が高鳴るようなとっておきの話題があった。しかし、たった今見たばかりの指輪の件は、胸の高鳴りをすっかり鎮静化してしまった。そして、今度は別の興奮が生まれてきた。気付いた指輪の話題は是非とも今尋ねなければならないと思われた。それは何故か?それが端的に世間的に重大な事柄だからであろうか。否。今日彼女と私との間で何かが起きなければならない!このような希望が、悪魔的で同時に輝かしい夢がたった今、私の中に芽生えてきたからである。

 彼女と出会ってからここまでの間に目まぐるしい色合いの変化を見せた私の心は、こうしてある作戦を編み出した。私は努めて自然に聞こえるよう、声色を調え抑揚をつけて、かつ普通であれば冗談と受け取られるような一言を添えて言い放った。

「綾奈、結婚してるのか?びっくりしたな。どうして連絡一つよこさなかったんだよ。あれだけ俺に気があるような態度をとっていたじゃないか。何て仕打ちなんだ、俺に無断で勝手に結婚しちちゃうなんて。お詫びに何かしてもらわないと気が済まないな」

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