第5章
疲れ冷え切った体に勢い良くビールを摂取したことで、いつにも増して頭がぼうっとなるのが早いように思われた。アルコールが体を駆け巡る感覚、とくに眼の奥やこめかみの辺りが熱を発し、これ以上飲むと眼からビールが零れ落ちるのではないかと錯覚させるような感覚に囚われた。私はビールの缶を口元に運び、体内に流し込みながらソファーに向かって歩いた。そして腰深くソファーにかけ、何も考えないひと時を満喫しようとした。この無為な時間――貴重な時がただ流れ過ぎ去ってゆく。川に溺れる人間が濁流に逆らえず下流へ物理的にも観念的にも遥か彼方へ押し流されてゆくのを止めず、岸辺でただ拱手傍観するような頽廃的な時間の経過――今の私には全てが喪失の美の意識に結びついた。そして私は例の財布を、綾奈を、恋人を順に脳裡に描き、互いに無関係なはずのこれらは、実はどこかで結節しているのだという夢想に耽った。
すると、突然前触れもなくガタンといって玄関のドアが開き、何者かが押し入って来た。冷たい外気がそろそろと我が家の床を侵すようにして足下に流れ込んできた。やがて外の空気の雪解け水に似た香りが立ち込め、ソファーに悠然と腰掛ける私の鼻腔を優雅に満たした。こうしたシナリオは、私の頭はすでに予期していたようであった。一人平穏に暮らす人間の家の玄関ドアが、こうして真夜中に無造作に開け放たれ、ドア枠に切り取られた黒い四角形の中から、極寒の暗闇の世界から、美を解せぬある哀れな男が無粋な鬼の形相で現れ、私の静謐な世界に干渉してくるであろうことはどうやら知っていたようであった。私は故に、全く動揺することがなかったのだった。
私は、殆ど空になってもはや単なるゴミと化したビール缶を指先でつまむようにして持ちながら、肩越しに玄関の方を見やると、彼の容貌や姿態を確かめることもなく、予期された来客に対し、薄く線の細い不気味な青白い仮面が湛えるような微笑をそっと投げかけた。




