第二話 稲妻が轟く路地
優夜は、怪物に食われつつあった。
友明とかすみの二人と別れてから、わずか五分のこと。
これは不気味だと直感した。
◆
全身にある感覚が、今すぐこの場から離れるべきだと警戒音を発している。
これは普通じゃない。どう見たって普通じゃない。
「あれ? 変だな、静かすぎる……」
いや、静かどころか人の気配が住宅街から完全に消えている。どこを見ても、人っ子一人見当たらない。
奇妙どころか、異常な状態だ。いくら久世市が地方都市だとしても、それなりの人口はいる。夏に向かって日が長くなっていく時期だ。細い路地だとはいえ、夜七時を回ったくらいの時間で人が一人も出歩かないという事態はどう考えても不可解だった。
「……なにか、街ぐるみでイベントを催しているわけじゃないよな? そんな情報耳にしてないし」
冗談とも本気ともつかない口調で呟き、優夜は少し緊張しながら歩を進めた。予想外な事態ではあるが、今のところ自分に害悪があるわけではない。それに、なにかの偶然だという可能性もまだ消えていない。もう少し進めば、誰かと出会うかもしれない。
そう楽観して進んでいたのだが、とても甘い目論見だと知ってしまう。
いくら進んでも他の人間に出会わない。それどころか、物音一つ聞こえてこないのだ。そんな常識とかけ離れた世界であるため、徐々に戸惑いが大きくなっていき、最終的に異常な光景の中に優夜は孤立していく。
すると、微弱ながらも物音が聞こえてきた。でもそれは物が砕かれ壊れる音、肉食獣じみた雄叫び、誰かの発狂したような悲痛な声に、激しく燃え上がる炎――といった平穏から外れたものが、路地の先にあった。
「………………」
優夜は戸惑いや不安感を抑えながら、自分を取り巻くこれらの状況を、冷静に判断しようとする。
近くで凄惨な出来事が起こっている――常識的に考えれば、警察や消防に通報するべきだと理解していた。でも優夜の足は自然とその場所に向かって速度を上げた。あそこに行けばこの異常な光景の答えが分かるかもしれない、そう思って優夜は進んでいったのだ。
そして――優夜は見た。
怪物だ。
目の前に怪物がいる。
暗闇で黄色に光る剣呑な双眸に、体の全てが硬そうな黒い皮膚。そして両手足の先には鋭く研ぎ澄まされた獣の爪と、頭に闘牛の倍はある太い二本の角が邪悪な生物を連想させる。
それは伝承や創作物上の存在でありながら、優夜が三年前に目撃した≪醜悪な悪魔ら≫と酷似していた。
住宅街の路地、夜空と半月を背に傲然と立ち、今現在中年警官の喉笛に食らいつき殺していた。
それを最初に視界へと入れた優夜は、
「は?」
と、ただそれだけしか言えなかった。
常人が取る当然の反応として、悪趣味な夢だと思い込もうとする。その現実逃避が生命を失った中年警官を無造作に捨てられたことにより、現実へと無理矢理引き戻される。
「あ、ああああああああぁっ……この、クソ悪魔がっ!」
悪魔はその場にいたまま舌を舐めたあと、叫びつつも怒りを見せる優夜の表情を爛々と輝く眼光で見据えた。
……どうして、こうなった?
優夜は自問する。
誰もが抱く好奇心によって来ただけなのに、何の予感も予兆もなく、唐突に遭遇した。先程まで生きていたであろう中年警官はこの悪魔の標的になってしまった。
……何なんだよ、この理不尽さは。
憎しみを内包し、周囲を観察する。
すぐ側に懐中電灯が転がっていた。その近くには俯せに倒れ真っ赤に染まる中年警官。さらに腰の辺りをよく見ると、短い棒が目に止まった。
「……お前ハ、魂ヲ食った方が美味そうダ」
低く押し殺した声に獰猛な獣の本能が滲み出し、悪魔は嬉しそうにズラリと並ぶ牙を見せる。そして優夜の元へと一歩、二歩と踏み込み、腰を沈めて飛びかかる体勢になった。
優夜が大きく息を吸い、吐き出すと同時に動いた。
手先まで転がってきていた懐中電灯を掴み、中年警官の体に寄り添う。腰のホルスターから棒を引き抜いた。長さ二十センチほどしかないが、思いっきり腕を振るとあっさり棒は伸びていく。 特殊警棒。警察官や警備員が使う特殊警戒用具だ。
優夜が警棒を伸ばすのと、悪魔が察知して口を開くのはほぼ同時だった。
「ハハッ、愚かしい奴だ!」
悪魔が嘲笑う。そしてすぐに飛びかかってきたところを狙い、優夜は懐中電灯の光を手前に向ける。
「グッ……」
悪魔が眩しさに目を背けた瞬間に、地面を踏み込み優夜は全力で腕を振るう。
鈍く思い手応えに肩まで痺れた。
「がああッ!」と呻くような悲鳴が聞こえてくる。
頭上を悪魔が飛び越えていき、アスファルトに着地した。
攻めに転じるかどころか、その場に跪く。脛を押さえて動きを止めたのだ。
「ウウウ、痛い……痛ミが、まだ感じるのかっ……」 フルスイングで放った一撃は悪魔の脛を直撃したらしい。
しかし、一時的に動きを止めたに過ぎない、と判断した優夜は特殊警棒に目を落とした。
瞬間、ゾッとする。
特殊警棒が真ん中からへし折れひん曲がっていた。
役に立たなくなった警棒を捨てる。肩まで届く痺れはまだ残っていた。優夜は警官から先程の警棒と一緒に、抜いておいた武器をブレザーの中に隠して走り出す。
しかし、背後に冷たいものが伝わった。
優夜は悪魔の方へと嫌な汗とともに振り向く。
「痛イ……。ああ、痛い、なア」
脛を撫でつつ、悪魔はもう立ち上がってこちらを見る。おぞましい牙が目に入った。
「捕食サレるのに足掻くナよ。無駄二疲れルじゃないか」
「…………」
優夜は足を止め、余裕のある素振りで悪魔と再び相対した。
それを気にすることなく悪魔は、優夜に向かってジリジリ近づいていく。
「なぁ、悪魔って霊的な存在じゃなかったっけ?」
「残念ダが、俺は“本来の悪魔”じゃなく複数種の動物遺伝子ヲ組み込ンだ“元・人間”だ」
「じゃあ、今は聖なる力以外でも効果があるのか?」
「……アア、そうだ。今懐に入れているタだの拳銃でも傷を負わセラれる。恐ラク、殺すコともな」
悪魔だと思い込んでいた目の前のこいつは、悪魔ではなく動物の力を移植された怪人のようだった。
しかし、それで優夜が敵対しなくなる理由へ変化するはずがない。
何故なら優夜は誰よりも「平穏な日常を壊す存在」を否定し、深く憎悪しているからだ。
「ずいぶん余裕だな」
「何セ見てカラ回避するノハ簡単だからな。……それよりも」
顔をズイッと近づけ、悪魔もとい怪人は優夜の顔を睨みつけた。
獣臭さと血の臭いに優夜は顔をしかめる。
「お前……妙に戦い馴れしてイルな。シカし、そんナ動きでハ――」
ドンッと地面が踏み砕かれた音が響く。
次に優夜が見たのは、黒獣の巨大な拳。異常と呼ぶに相応しいそれが、優夜の知覚を超える速度で頭部に叩き込まれた。脳みそが派手に揺れ、神経が混乱を起こし、意識が途絶える。近くのコンクリート壁に激突してから優夜は意識を取り戻し、倒れないように体を支えた。
「……がっ…く…ぐぅ……」
視界が安定しない。体にとてつもない重たさと痛み。遅れて吐き気が喉元まで押し上げる。
迂闊だった。異臭に反応して、敵にこんな接近を許すなんて。
多数の動物遺伝子。そしてそれを十全で使える筋力。
この怪人は人間を同じ生き物と見ていない。畜生に成り下がった元・人間だ。
「ハハッ、まだ死なないのか!」
楽しげに笑いながら怪人は優夜に迫ると、巨腕で腹部を掴み持ち上げる。体が飛散しないようにしているが、それでも万力以上の圧力と痛みで優夜は苦しむ。だが切れ切れながらも優夜は言葉を発する。
「この程度で……人間が、死ぬわけないだろが、……人生の敗北者であるお前が、人間を舐めるなよっ……」
もっとも、今の優夜に余計なことを考える余裕はなかった。大柄ではないとはいえ、男子高校生を片手で軽々と持ち上げる怪人の腕力は異常だ。
このままでは彼の体はザクロのように握りつぶされるだろう。
ゆえに優夜は振りほどこうと、怪人の腹部を思いっきり蹴り上げた。だが、それでも相手は微動だにしない。それどころか壁を蹴ったような、硬い反動が返ってきたことを思うと、脛への一撃で苦しんでいたのは演技だと確信した。
「すグに終わル。苦しまナいよう二、魂を食ってヤる」
右腕で優夜を掴んだまま、獣の声を幾重にも重ねて横一線にぱっくりと、
口を開けた。
それに食い殺される、と直感した優夜はすぐさま隠していた拳銃を取り、空になるまで頭に向けて銃弾を連射する。
が、放たれた銃弾は全てひしゃげ傷を負わすことさえなかった。
日本に移住する十三歳まで射撃技術を磨こうと、常人の外れにいる存在に対しては意味がない。
抵抗する行動がなくなるのを察知した怪人は、優夜の体に圧力を強めていく。気概まで削がれてしまっては優夜も声が出ない。
そしてミシミシと音を立てるは自分の体。優夜は半ば死を覚悟した。
だが、その覚悟は不要に終わる。突然横殴りの衝撃と共に優夜の体は宙を舞い、地面に叩きつけられる。
彼が投げ出されたと気づくには、少し時間がかかった。倒れたまま周囲を見回して状況を把握しようと努める。目の前には巨大な黒い影がそびえている。無論、今まで優夜を捕らえていた怪人の姿だ。しかし怪人の太い腕、そこには稲妻のようにバチバチと鳴る矢が数本刺さっていた。
「グッ……だ、誰ダ!?」
「まさか人目につく路地に現れるとは、思いませんでしたよ」
怪人を小馬鹿にする言葉が、路地の奥から聞こえてきた。それに優夜は目を向けると「えっ?」、と声を洩らした。相手も驚いたように目を見開く。
「星乃さんっ?」
「桜木くんっ? どうしてキミが……」
お互い、固まってしまった。優夜の後ろに現れたのは、同じ学校に通うクラスメイトの女子生徒である。星乃涼花という名の落ち着いた雰囲気の少女だ。普段は流している長い黒髪を今はポニーテールに纏まり。目元は刃物のように鋭い切れ長に変わり、その迫力からまるで歴戦の強者を前にしたような錯覚を感じた。
そんな容姿になったクラスメイトの少女だからこそ、その服装の奇妙さが浮き彫りになる。
彼女が着ているのは修道服だった。
飾り気もない白い修道服。ご丁寧なことに手袋やブーツを身に着けており、肌が露出しているのは顔のみだった。とはいえ、腰に剣を下げている辺り戦闘において相応しい格好である。
「どうしてって、それはこっちの台詞なんだけど」
優夜は見つめながら星乃にそう返し、怪人の方を見た。
「それより今は、あっちを何とかしないと」
「分かってます。アレは私に任せて下さい」
「任せてって……」
言葉を優夜が続けるよりも先に、走り出すと彼女の掌から角のように青白い花火が散った瞬間、槍のごとく真っ直ぐに雷が怪人へと襲いかかった。
避ける、なんて出来るはずがない。青白く光る雷撃の槍なのだ。動物遺伝子を組み込まれようと人間である限り、対処するのは無理である。
怪人に当たった雷撃の槍は、怪人の体内で暴れるのみならず、ズドン! という爆発音を轟かせ四方八方へと飛び散って路地全体へと花火を撒き散らす。
「むっ……」
爆煙の広がる箇所を見つめながら、手を伸ばしたままの彼女が悔しそうに唸った。
その後ろで、優夜は呆然と座り込む。
倒した……んだよな? 怪人の姿はなく、爆煙はいつの間にか消え、辺りは静寂が支配していた。自分の知る日常へと落ち着きを取り戻した路地……ただ、星乃の掌から溢れる青い粒子のせいで、今まで目に映っていた光景が現実であることを示していた。
星乃が振り返る。明らかにご機嫌斜めだ。目の端がキッとつり上がっている。放課後に呼び出され、職員室で目を合わせた時とはまるで違う。
少し間をおいて、星乃はしっかりとした足取りで優夜の方へと歩いてきた。すぐ目の前で足を止める。何を言うわけでもなく視線を向ける。
やっぱり可愛らしい、と思った。職員室で会ったように、異性に好かれるような容姿をしている。整った鼻、女の子らしい膨らんだ唇。そして透き通るような白い肌。
「え、えっと……」
無言に堪えられず優夜は口を開く。すると彼女の視線が少しだけ鋭くなった。
「なんというか、あ、ありがとな……」
もうちょっと気の利いた感謝の言葉をかけたかったが、ただのクラスメイトに過ぎないので、つい出たのがそんな台詞である。
星乃の肩がわずかにピクッと動く。
「星乃さんが俺を助けてくれた……んだよね?」
少し心配になって答えが決まっている事実確認をした。
「――桜木くん」
優夜の質問を無視して、星乃は名前を呼ぶ。そして冷たくなっている顔のまま、彼女は非情な言葉を投げかける。
「桜木くん。残念だけど、キミには我々退魔師の機密を守るために――殺さないといけないの」
「……は?」
そして彼女は腰に下げていた剣を掴み、素早く鞘から引き抜いた。
◆
ヤバい。状況を整理しきれないけど、危険だ。逃げないと……。
優夜の警告音が極限まで高まった。
異常な出来事とか、異様な光景とか、そんなものはどうでもいい。すぐにこの場から、いや、この少女――星乃涼花から逃げ出すべきだ。
優夜の本能はそう叫んでいる。絶叫している。
だが、優夜は動くことができなかった。
圧倒的に実力差がある強大なものを前にすると、動きが鈍くなってしまうのだ。
それは蛙だろうと、人間だろうと全く同じこと。
蛇に睨まれた蛙という諺の真なる意味を彼は今、もう一度知った。再度体感してしまった。
結局、剣が鞘から抜かれきるまでに優夜が動けたのは、立ち上がるまでだ。
それでも時間が僅かばかりあった。なので優夜は目の前に立つ少女を、注意深く観察する。
なんというか身に纏っている雰囲気が常人離れしている。まるで幾度の困難を打破してきた達人のようであり、立ち姿、呼吸法、剣技法、それら全てが清冽で、鮮烈で息を飲んでしまう。
しかし彼女が言った先ほどの言葉を思い返すと、優夜の精神は混乱の域に達した。
『桜木くん。残念だけど、キミには我々退魔師の機密を守るために――殺さないといけないの』
知っている人間に対してそんな判断を下せるんだ?
「正直、私のこの姿が見られるということは、桜木くんが私の同類であるか、敵であるかのどちらかだと思うのだけど……」
星乃は無遠慮な視線を優夜に這わせてきた。それこそ、頭の天辺から爪先まで。
その鋭い目つきは、とても同級生の少女のものとは思えない。
「でも見たところ、どうもそういう霊的な濁りはない。だから、私には桜木くんが何者か分からない。なので、キミの立場を確認させてもらいたいの」
口調は静かで抑えめだったが、有無を言わさぬ強さが秘められていた。
「ふざけてんのかっっ!」
優夜は思わず大声を上げて突っ込んだ。
この同級生はアレか? 廚二病の奴か? おかしい奴か? 危ない奴か? 近づいちゃいけない奴か?
ザッと後ろへ優夜は一歩退いた。
大声を出したおかげか体は神経を伝わって問題なく動くようになっている。
しかし、
優夜がその場で回れ右しようとした瞬間に、彼女の手に握っていた剣が視認できない速度で動いた。
気がついた時には剣の刃先が、優夜の首筋に押し当てられていた。
「なっ!?」
小さな驚きを上げて優夜の体が固まった。
殺さないといけないのという彼女の言葉が嘘でないのなら、致命傷を与える武器だと推測。
そして首の真横を通る恐怖心から、まさにこれが真剣であると主張するかのように銀色に煌めいた。
優夜の脳裏に、理不尽――という文字がちらついた。
祖国を失い、両親も妹も殺され、そして自分もここで終わるのか?
こんなところで、わけも分からないまま剣で斬り殺されるのか、俺は――?
優夜の中に、じわじわと感情が溢れ出す。
――いやだ!
それは、納得できない今までに対する怒り。
「他人の人生をそんなに壊したいのか!? お前はっ!」
優夜の声は理性を忘れて叫ぶ。
「ふむ。もしかしてと思ったけど、私の霊装が視えている。いよいよもって分からない。分からないといえば、張っておいた偽形の壁を軽く無視して、ここまで入り込んできたというのも分からないのだけど」
剣を首に押し当てたまま、彼女はそんなことを呟いた。
そんなことを言われたら、開き直った。いや、冷静に度胸が据わったのか。
どちらである優夜は彼女を睨みつけ、下っ腹に力を込めて言った。
「俺を殺すってのなら、その理由を教えろ。視えるとか視えないとか、同類とか敵とか、何のことだ!? それにさっき稲妻みたいな力を当てられた怪人はどうなったんだ!?」
「……ふむ、そうね」
彼女は真面目に首肯した。
「桜木くんも、何も知らないまま死んでいくのは本意ではないでしょう。なら説明してあげるわ。まぁ、説明したところで納得も理解も出来なさそうだけどね。それでも、何も知らないまま死ぬより多少ましかもしれないわね」
優夜が怒鳴った。
「ましじゃねぇよっ」
度胸が据わったというより、自棄になっただけかもしれない。
星乃がわずかに口の端を上げる。
「あら、動かないほうがいいわよ。私が斬る前に自ら命を絶つつもりなら、それでも構わないけど」
「……くそっ」
首筋に押しつけられている剣の冷たさを感じて、優夜の動きが止まる。
「意外と繊細なのね」
と言って彼女は軽く笑った。
「これから死ぬかもしれないのに、そんなことを気にしても意味はないんじゃないの?」
「意味がないわけじゃ……」
「まぁ、立ち話も嫌だから、近くの公園まで行って話しましょうか」
剣がぴたぴたと優夜の首筋を叩いた。
その冷たさが、改めて恐怖感を煽る。
優夜は壊れた首振り人形のように、首をかくかくと縦に振ることしか出来なかった。