第一話 変化が起きる直前
「さ……ぎ……や……」
途切れ途切れの声が一枚壁を挟んだ向こう側のような、やや遠くから聞こえる。しかしそれは何処かで聞いたことがあるような、そんな声。
(ん、詐欺や?)
何故そんな言葉を今するのかが、優夜は言いたい事はまるで分からないでいた。そして、どういう理由か声が上手く出せない。
「さ……ら……ゆ……や」
言葉は徐々に鮮明になっていっているようなので、誰かが近くで話していると優夜は判断するが、やはりその言葉の意味は不明瞭だ。
しかし、耳に入ってくる言葉には心当たりがあった。
赤の他人の声ではなく、ほとんど毎日よく聞いている言葉のようなので、優夜は記憶の中から探すが、該当する人物が不鮮明で焦りが出していたら――
「桜木優夜ぁ!」
「うわっ!」
自分の名前を怒気混じりに叫ばれた時に、優夜はやっと気付いたがもう既に手遅れだった。
聞こえていた声が急に大きくなって意識が覚醒し、視界はぼやけて見え辛いがそれもすぐにクリアになっていく。頬に熱が残り、見ると前で組んだ腕に頬が当たっていたのだろう跡がある。
どうやら授業中に突っ伏して熟睡していたらしい。
頭上に掛かる暗い影。優夜は恐る恐る顔を上げてみると、そこには般若か金剛力士像を連想させる女性が白衣を着て、腕組みをし睨み下ろしていた。
(嘘だろ……)
やってしまった感は否めない。
何故なら優夜が起きてから、周りで男女問わずほとんどの生徒が陰でクスクスと笑っているからだ。
「ほぉ……私の授業で爆睡とは良い度胸だな、桜木よ!?」
無駄に迫力のある声が斧のように振り下ろされた。
その声量と怒気に背筋が凍りつき、優夜の半開きになった唇が無意識の内に、嫌な汗とともにブルブルと小刻みに震え出す。
(よりにもよって、近衛先生の授業で寝てしまうとは……ヤバイな)
優夜はこの後の展開を予想して、口の中にある唾を飲み込んだ。
この城名院学園の二年三組、つまり自分たちの担任教師・近衛葵は「最恐」の二つ名を持ち、女性にしては百八十センチほどもある高長身で、子持ちとは思えないほど麗しい美貌を誇る先生であり、激怒すれば不良すら震え上がらせ、そして推定G以上といわれるその胸で、生徒や教師を問わずほぼ全ての男子生徒を黙らせる女王様なのだから。
彼女はこの学園の現国を教え、剣道部の顧問もしている教員で、“学園の二強”と呼ばれる二人の怪物教師の一人でもある。
当然、その授業で寝るなど学園の生徒であるならば、絶対にやってはならない暗黙の了解。
なので優夜はすぐさま姿勢を正すが、怒りに震える顔と神々の谷間が目前にあるので、とても直視できない。
「いや……これはその、5限目ですし……」
「…………」
食後の昼下がりだからという苦し過ぎる言い訳を優夜は言ってみたものの、近衛は黙って腕組みをしたまま睨み下ろしてくるだけ。
周りの生徒の小さな笑い声も次第に無くなり、息を飲んで状況を見守っている。
的確に優夜は理解した。今さら何をやっても状況は好転しない、と。
「放課後、職員室に一人で来い。いいな?」
それは唸るような低い声、そして「いいな」をわざわざ強調するのに恐ろしさを感じる。
「……はい」
一言だけだが、死刑宣告に等しい言葉であることは最後まで確認するまでもなかった。
だから優夜は、小さな声で情けなく返事をする。
どうやら優夜の運勢は、最悪どころかマイナスに下降しているようだった。
そして、そんな最悪な現国の授業があったせいか、気づけばあっという間に一日は終わってしまっていた。
◆
久世市にある高校で、平均的な偏差値を維持する城名院学園に入学して一年と半月。
教壇にある真ん中の列、一番後ろに座る優夜は黒色のブレザー(冬服)に身を包みながら、頭を机に突っ伏して、聞き取りにくい声でブツブツと呟いていた。
「はぁ〜何故だ……何故今までしたことがない居眠りをしてしまったんだ、俺はよ」
新学期を迎えた爽やかな空気が優夜一人のせいで徐々に汚染されていく。日本に移住して中学校から教師に睨まれる高校生活はしなかったのに、今日居眠りで怒られるという事実に陰気な気持ちになっているらしい。
「いや〜大変だねぇ、放課後の優ちゃんは」
心に突き刺さる言葉が前の席から聞こえてきた。深いため息を吐きながら優夜は顔を向ける。
「やあ。優ちゃん」
周りに挨拶をしながら一人の女子生徒がすぐに優夜のところに来て、空いた前の席に座る。
「………………やあ。トモ」
訂正。一人の美男子生徒がいた。
彼の名前は倉見友明、二年生進級してから最初に話しかけてきた優夜の友達の一人である。
どう考えても女の子だと認識してしまうが、男子制服を着ているので女子ではない。
初めて会った者なら、男装している女子と思考するだろうが、二次元の世界ではないので、その可能性は皆無である。
可愛いが、間違いなく男だ。
「葵先生の授業で寝ちゃうの良くないよ優ちゃん。 だから僕の顔でも見て元気出しちゃえ」
「無理です。不可能です。俺は男を愛でる趣味はありません。染色体を変えてから言ってください。タイかモロッコでも行って」
「男の娘じゃないからいくら手術しても、染色体は変えられないよ?」
どれだけ可愛くても、男の顔などを見て元気が出るわけない。
友明に無茶振りをした後、これから説教が待っているのだと優夜は思い出し、目から光が失われて再び頭は机へ落ちた。
「それでも考えてみてよ。学園きっての容姿と抜群のスタイルをもつ美人教師の個人的呼び出しって、何かあると思わない?」
「…………」
その言葉で、ふと優夜は思春期男子特有の妄想をしてしまう。
場所は人気がなくなった夜の教室。
ガタガタと規則的な音を立てて動く椅子。
その上で平凡な男子生徒を押さえ付けるように跨がり、汗だくになって、大人の色香を充満させながら笑みを見せて腰を振る近衛葵。
「はぁ、はぁぁっ。い、いい! いいぞ、もっと……楽しませろ、あぁ、そこだ! ふぁっ、あっ、あぁぁ……お前のはいいな! こんなに元気なのは、久しぶりで……はぁ、はぁ……っ、最後にすごいの、き、きてぇ〜! ひぁっ、あぁぁ、ああぁぁぁんっ」
優夜は友明に気づかれぬよう、肩を思いっきり落胆させる。
(つい邪な考えをしてしまった。もしバレたら殺されるんだぞ! 俺の思考回路よ!)
“学園の二強”と呼ばれる怪物教師に、いかがわしい方向に思考していったことに対して、優夜は焦りを感じた。
邪な気持ちを払拭し、怪物教師に説教されるか弱い生徒になるべく言う。
「じゃあ俺は帰るから、代わりにトモが行ってもいいぞ?」
「はは。逃げた優ちゃんが、明日の朝に血の雨が降っちゃうから、僕は遠慮しとくよ」
一瞬で引きつったように友明は笑い、心配した口調で話しながら優夜の提案を辞退する。
「二人して何コソコソ言ってんのよ」
突然、疑問を発した方向に視線を隣に動かすと、冷静な雰囲気がある少女が座っていた。
机に置かれたノートパソコンの画面から顔を上げることなく、指先はキーを叩き続ける。どうもこの少女は、他人に対して無関心を貫いているように思えた。
相変わらずの無愛想な態度に呆れつつ、優夜は彼女の顔を見た。そこでようやく、彼女は手を止め、顔を上げた。
「そんなことをしていると近衛先生に言うわよ。風紀が乱れることをしていたってね」
彼女の名前は若月かすみ。友明とは違い中学からの知り合いの一人であり、幼なじみと断言できる。間違っても男でも男の娘ではない。
容姿は、この教室の女子生徒と比べても整った顔立ちをしていて、特に艶のある黒髪に惹かれる美少女だ。
「……なぁ、かすみ。俺は風紀が乱れることは絶対にしないって知ってるよね?」
「どうかしら? 普通っぽい人ほど、危ないから安心できないわね」
優夜は、自分は無害な人間だとかすみに話す。彼女には何度か助けられた事がある為、一応弁解したかったのだ。
かすみは再び画面に視線を落としていたが、優夜の話は聞いているようだった。
ちなみにノートパソコンは学校の備品ではなく、彼女の私物。校則で禁じられてるわけないが、学校に持ってくる私物の範囲を逸脱しているので、以前は何度か近衛先生から注意を受けていた。しかし最終的にはなし崩し的に許される形になったのが現状。裏で何か取引があったらしいのだが、優夜も詳しくは知らない。そんな彼女はクラスで一目置かれているが、変人として収まっている。
いくら話しかけても必要なとき以外返事しない。全く協調性のない女子生徒。力を行使しようとすると、近日中に重度の精神病になる。暇さえあればノートパソコンを触っている危ない女。一度そういう評判が広まると、ほとんど誰も彼女と話さなくなった。
変人に関わる気はない、ということだ。そういう人間に関わって事件に発展した例など、多様にあるからだろう。
幼なじみの優夜から見れば、若月かすみほど模範的な生徒で、穏やかな性格をした人間はいないと思っているのだが。
◆
それから、あっと言う間に悪夢の放課後になってしまっていた。窓の外を見て現実逃避していたためか、時間の経過にまったく実感がなかった。
(ホント、どうしたもんかな……)
ここは第二職員室前。校舎の一番端に位置するそこは放課後に限って頻繁に生徒が出入りするため、その入口の戸が常に全開になっている。 横を通り過ぎる生徒らが怪訝そうな目で見てくるのは少々痛いが、優夜はどうにも一歩が踏み出せず、無視して帰ろうかと思うがそうすると明日という日がもっと恐くなる。
行くも帰るも地獄、ハッキリ言うと逃げ場はないのだが。
「一度、教室に戻ろう」
安全地帯に逃げる、そう決意して振り向いて歩こうとしたときだった。不意に誰かが真後ろに立つ気配がして、同時に何故か本能的な恐怖を感じる。
「……よく来たなぁ、桜木」
嫌な予感っていうのは当たるものだと悲しいぐらいに実感させれられた。優夜より高い身長が真後ろに立っている。
そしてゆったりと肩に手が乗せられる。
「突っ立ってないで中に入れや?」
「……はい」
情けないことに、優夜は授業の時とまったく同じ応答しか出来なかった。般若と化した近衛の前では、ここの生徒は言われるがままに動かないといけない。
だから優夜は近衛に襟を捕まれながら第二職員室に入っていった。
「ったく、あちぃな。七月にならないとエアコン入れないなんてな、教室はいいとしても職員室は入れろってのに」
この先生には羞恥心はないのかと、本気で優夜は疑問に思いつつも、困惑する。この男みたいな口調と美貌が妙にマッチして、その恐しさを倍増させているからだ。
(女王というか、どっちかというと“女番長”って感じだよな……)
近衛葵は事務机の椅子にドカッと足を組んで座ると、白衣を椅子に掛けて扇子で扇ぎだした。白衣の下はキャミソール、胸の谷間を惜しげもななく周囲に平然とさらしている。
通り過ぎる男たち――教員、生徒を問わず――がチラ見をしているのを、優夜はハッキリと把握した。
「さて、どうするか……。罰は何がいい、桜木?」
コンビニ袋からペットボトルのお茶取り出して、それを飲みながら聞いてくる。何も考えずに呼び出したのか、と優夜は少しため息をついた。
「罰を与えられる側に罰を考えさせてどうするんですか。そんなことなら、罰なんてない方がいい、に決まってます」
優夜はありったけの勇気を振り絞って近衛に言ったが、最悪な事態を想像してしまい、中盤から途切れ途切れな声に変わってしまう。
「そりゃあ無理な相談だ」
流石に二強・篠崎、そこまで甘くはない。案の定の返答である。優夜の弱々しい態度に近衛は苦笑しながらお茶を机に置く。
「三学期考査の現国が欠点ギリギリだったくせに、授業中居眠りする奴を罰っしないわけにはいかんだろう?」
近衛は腕を組んでククッと笑っている。まるでインテリの学者みたいな面構えだ。
「よくもまぁそんな頭でこの学園に入れたな」
ほっといて欲しい。勉強は嫌いな方じゃないし、入試の成績は平均点ジャストだった。
期末の成績が悪かったのは、プライベートな部分で勉学に励めなかったのと、この近衛が作るテストが普段通りだと、甘く見ていて勉強不足をしたからだ。
というか今回の近衛の現国は難問が多すぎて、学年平均が満点の半分にも届かず、それで欠点ギリギリを糾弾するなんて勘弁して欲しい。
「ま、この学園に入学するのは簡単か。っと……ん?」
「どうも。なんの話をしてたんですか?」
いつの間にか優夜のすぐ後ろに星乃涼花という女子生徒が立ち、書類が入っている青いファイルを抱え、大きな目をことさらに大きく開けて聞いてくる。最初は近衛を、それから優夜のほうを見つめてきた。
星乃涼花の癖だとは分かっている。彼女は会話の途中、じっと一点を見つめる。それで勘違いをしてしまう男子が――噂によれば噂によれば他校の生徒も含めて――一日に十数名は量産されるという話だ。優夜も分かっている。二年連続同級生になれば、大まかな性格ぐらい分かるが、生徒が簡単に入れない職員室だけあって、優夜と星乃の距離はいままでのどの場面より近い。そんな距離の近さで前屈みになりながら、真っ直ぐ見つめてくるその視線の熱さは意識してしまう。
「いやな、星乃。桜木の成績の低さが、てんでダメでな」
「近衛先生、余計なことは言わないでください」
「なんだと。本当のことだから問題あるまい。星乃、私の話をよく聞いてくれ。桜木は入学のときから……」
「ちょっ、言わないでくださいよ」
優夜が大きい身振りで近衛を制そうとすると、星乃はふふっと小さく笑って、
「話さなくていいですよ、葵先生。桜木くんが言われたくないみたいですから。それに……」星乃は真面目な目をしながら優夜を見た。「誰にだって隠したいところはありますよ」
と小話を少しして、彼女は青いファイルを隣にいる近衛に渡してきた。
「星乃、これは?」
「落合先生がこれを近衛先生にと」
そう言って星乃と呼ばれた彼女は、抱えていたファイルを近衛に渡して去っていった。
近衛はファイルを受け取り、その表情の険しさが増す。そしてファイルを開き――普段から大概だが――さらに険しいその目つきをする。
「おい、桜木」
「は、はい?」
不意をつかれた。その声は授業の時と同じで低く唸っているように聞こえる。
「いや……いい、帰って勉強しろ。中間で三学期の期末と同じ点とったら今度は停学だ。いいな?」
「わ、わかりました」
いきなり停学宣告か。注意はファイルに注がれたまま、近衛は素っ気無く言った。
「ならいい、帰ってよし」
そのまま追い払うように、手をシッシッと振った。
「……失礼しました」
仕方なく職員室を急いで出る。結局、近衛は何の罰も与えないまま解放した。大きな問題なく過ぎたことに優夜は安堵したが、妙な感情も同時に抱くが、今は現国の勉強をした方が良さそうだな、と優夜は気持ちを切り替え放課後の教室へと足を向けた。
◆
優夜は小走りで教室の中へ入った。すると放課後間もないというのに二年三組は無人の空間に変わっていた。
まあ放課後の教室で長居したがる生徒は少数派だろう。学校の部活動に参加していない帰宅部の生徒は皆、各自の教室から離れてプライベートなことを優先すべく、急いで目的に向かって行く。
友明とかすみは学校に残りたがるタイプではないから、教室を出ていったらしい。
「ん?」
学生ズボンのポケットの中が小さく振動する。携帯電話にメールが送られたことを教えるものだ。基本的に校内で携帯電話の使用は厳禁だが、それを律儀に守ろうとするのは生真面目な生徒くらいだろう。優夜は進んで弄り回すような性分ではないが、便利なことは間違いなく、今は放課後と気にせず着信表示が点灯している携帯電話を開き、件の中身を確認する。
それによると、かすみを含めた三人でカラオケに行かないか、という友明からの短いメールだった。
「まあ、息抜きには丁度いいか」
トモは俺みたいな目立たない生徒にも分け隔てなく接するだけで、カラオケの店長などに顔が利くほど交渉上手でもある。ゆえに、一人で出かけるよりかは何かと助かることが多い。加えて、先程近衛先生に説教を受けたばかりで気分は下がっている。それにまだ中間まで時間的余裕はある、問題ないだろうと思えてしまう程度。
なので脳内会議で結論の決まっている議案を強行採決し、簡単に返事をトモに返したあと、優夜は待ち合わせ場所であるカラオケに行くため荷物を手早く詰め、教室を出ていった。
放課後、三人は約束通りカラオケに入って楽しんだ。小遣い節約のために飲み物をこっそり持ち込んで、あとは軽めの食事を友明に値切ってもらい歌いまくった。七割方歌ったのは優夜だったが、それでもそれなりに盛り上がった。
そしてカラオケを出た頃には、、外もすっかり暗くなってきていた。さすがに軽食だけでは延々歌って、消費したカロリーを補えないからお腹が空く。時間も時間だし、今日のところはこれぐらいが潮時だろう。
「じゃ、今日は楽しかったってことで、お開きにしようか」
友明が締めくくると、かすみはそれに賛同する。
「たしかにね。もう時間も時間だから、夜間巡回している先生か警官に補導されそうね」
そのまま三人はようやく帰路についた。歩きながらふと、優夜が呟いた。
「にしても、なんか俺たちの付き合いも早いよな。もう一年経つし」
かすみがその言葉にやや冷めた表情を浮かべて言う。
「倉見君はともかく、あんたとはただの腐れ縁ね」
「すぐそういうことを優ちゃんに言うね、若月さんは」
わざわざ気にするに値しない言葉に突っ込む友明に、優夜は苦笑してしまう。中学から付き合いがあるかすみが、入学時に隣同士だった友明が会話していたところに、関わるようになり一緒に行動するようになった。そこからたまに放課後遊びに行ってから、いまの交友が構築された。
それを思い出した優夜頷いたあと呟く。
「昔からトモは教室の皆から気に入られて、かすみは自分の時間を大切にして可愛いかった」
「そうね。……でも、優夜は危なっかしい性格をしてる」
「ん? そうかな?」
「間違いなくね」
不思議そうな顔で優夜は首をかしげた。顔に垂れかかる前髪は揺れ、黒髪の間に覗く目は、かなり薄いが日本人にしては珍しい血の色を透かしたような深紅だった。
「こう見えても状況を判断しながら行動している方だと思うんだけどな」
「じゃあ、他人との交流が私と差がないのは何故かしら?」
優夜は肩をすくめて反論する。
「そりゃ、こっちから仲良くしようと動く気がないから。友人や知人は自然に作られていくものだよ、かすみ」
「まったく、困った性格をしてるわね」
友明はそこでふと顔を優夜に向けた。
「優ちゃんは優ちゃんで変わっているよね。真面目に勉強しているから、城名院学園じゃなくて、原上高校に行けたんじゃない?」
原上高校は久世市の東部にある進学校で、地元でも名門と呼ばれる高校だった。城名院学園とは偏差値にかなりの隔たりがある。
「買い被りすぎだよ、俺は全体平均を維持できるかどうか。そんな高望みをしても届かないって」
少しだけ皮肉っぽく笑う優夜。実際彼の成績は、平均かそれ以下をウロウロしている。良くなる兆しが見えない、普通らしい少年なのだ。
「いや、でも……」
「と、俺、家あっちだから、ここまでな」
と、優夜は右の道を指差した。友明もそれ以上するのは気が引けたのか、続く言葉を飲み込んだ。
「うん。じゃあね。優ちゃん」
「……また明日、怪我しないで学校に来るのよ、優夜」
そのまま片手を上げて、優夜は右手に折れ曲がって行った。
この日、
この瞬間まで、
彼はこの日常に終わりはないと思っていた。
いや、そこまでの自覚さえ持たず、当然のように無根拠の確信を抱いていた。
いつもと違う出来事があったわけではないし、いつもと違う出来事が起きそうな予兆があったわけでもない。
彼、即ち桜木優夜にとって場所を別にすれば、まったくもっていつもと同じ時刻だった。
しかし、この日だけは、
洒落でも冗談でも比喩でもなく、剣を振るう少女と出逢った瞬間にして。
闇のように深く染まった夜空の下で、彼の日常は、あまりに呆気なく、変わり果てた。
あるいは、正しき非日常へと舞い戻った。