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プロローグ1――激情に染まる空

 それは遠い日の思い出――

 もはや忘却の彼方へと追いやりたくなる出来事。だが、それは確かに過去で起こった悲劇だった。ゆえに神奈川県にある久世(くぜ)市で暮らす、優夜の耳にはいまでも染み付いている。飛来するミサイルが空を引き裂く甲高い音、遠くから腹の底に響くような爆音、鳴りやまないサイレン、そして生き地獄と化した絶望の世界が――


「急げ、優夜」

「真由、あと少しだから頑張ってぇっ!」


 やや息を切らせた父の声と、うわずった母の声。それらをかき消す獣じみた雄叫びとともに、巨大な怪物が飛来する。上空に舞い降りたのは醜悪にねじくれた角を生やし、四枚の翼を動かす漆黒の悪魔だった。それは凄まじいスピードで飛び回り、浴びせられる砲火を避けて、四枚の翼から炎を迸らせた。優夜は一瞬、その光に目を灼かれる。

 彼らは避難のために港を目指していた。優夜たち一家が住んでいたモーレ市という街は、ロシア連邦と隣接する小国・アーヴィング共和国にとって重要な研究施設や軍事基地が集中しているため、歴史に残る数多の戦場みたいに酷く悪化していた。数百にも及ぶ巨大な悪魔の群れ、そしてミサイルや不可思議な雷撃が飛び交う空には、すでに幾筋もの黒煙が立ち上がっている。林を抜ける道を走り続ける優夜の目に、木々を透かして港が見えた。港には脱出用の艦艇が横付けされ、軍の人間が避難民を誘導している。あと少しだ――と優夜は安堵しかける。

 いまにも泣き出しそうな顔で母に手を引かれ、走っていた真由が、その時ふいに声を上げて立ち止まりかけた。


「ああん! 真由の携帯っ!」


 肩掛けのピンクのバックから白い携帯電話が飛び出し、道からそれて斜面を転がり落ちていく。


「そんなのはいいから!」


 拾いに行こうとする真由を、母は強めの口調で言いながら引き戻す。だが真由はなおも忘れ切れずに、斜面の下方を目で追う。ねだってやっと買ってもらった携帯電話を、妹はとても気に入っていた。母に使用時間を決められ、同級生の友人とやり取りするのが短くなっても、片時も手放そうとしないほどに。それを知っていた優夜は、転がり落ちる携帯電話を追って斜面を駆け下りた。父から呼び止める言葉が投げかけられるが、自分なら身軽だし、拾ってすぐ追いつける。

 白色の携帯電話は木の根に当たるとそこで止まった。優夜が腰をかがめ、それを拾い上げた瞬間、耳をつんざく轟音が全身を殴りつけた。

 世界が回った。

 気がついた時、優夜は斜面の一番下まで転がり落ち、港そばのアスファルトに叩きつけられていた。

 優夜は唖然として周囲を見回した。まるで背景がすげ替えられた舞台の如く、辺りは一瞬にして様相が変わっていた。斜面は大きく抉られて赤茶げた土が露出し、太い木々らも倒れ、あるのは炭化してプスプスと煙を上げている。それが二十キロ離れた街の上空から一人の男が投擲した魔槍の余波によるものだと、港にいた優夜らは想像すらしていなかった。当惑しながら起き上がった彼に、避難民の誘導に当たっていた軍人が駆け寄り、体を震わせながら声をかけてくる。だが核兵器に比肩する衝撃をまともに食らった耳には、その声も技術加工したような歪なものでしか届かない。呆然とした優夜は、軍人に肩を抱えられ、その場から引き離されそうになって初めて我に返った。

 真由は……両親は!?

 優夜はその時になって、自分が目にしているものの意味に気づいた。さっきまで彼と家族が懸命に辿っていた道路は、余波により大きく切り取られ、黒くなり砕けていくアスファルトの下から、いまもパラパラと土砂が崩れ落ちている。木々が爆風になぎ倒され、大きく抉られた山道の中腹より下――そこが、ついさっきまで優夜自身がいた場所だった。魔槍が山に直撃する直前に、道から離れていた優夜だけが、斜面の下まで吹き飛ばされたのだ。

 全身の血が一気に冷たくなったように感じた。優夜は軍人の手を振り払い、よろよろと不安定な足どりで駆け出す。


「父さん……母さん……!? それに真由は……!?」


 抉られた地点を中心に見るが動くものの影はない。優夜は積み重なった土砂の向こうに、力なく倒れている頭を見つけて声を上げる。


「真由!」


 妹の姿を求めて駆け寄った優夜は、しかしそこで愕然と立ちつくす。見覚えのある服の襟元から、うつ伏せになった頭が覗いている。だが、それだけだ。

 妹の手足に続くはずの体は途中で断ち切られ、その先には何もない。胸と呼べる部分すら残っていない。

 優夜はブリキの人形のように視線を前に向ける。すると、抉られた大地のあちこちに、掘り返された土塊の一部のように転がるものらが目に入った。無造作に地に投げ出された物体――焼け焦げた衣服の残骸をまとわりつかせ、ねじ切れた形で横たわるそれらが、家族の変わり果てた死体だと理解するのに十数秒かかった。ついさっきまで自分に触れ、話し、動いていた大切な者たちが、一瞬にして物言わぬ肉塊と化していた。優夜は痺れたように小さな頭の傍に座り込む。

 まるで自分に助けを求めているような妹の頭に、彼は震えながら手を伸ばしかける。そこで、自分がまだ白い携帯電話を固く握り締めていたことに気づいた。喉元に抑えきれない何かが込み上げ、溢れ出した。それを感情で例えるなら慟哭だった。絶望、暗然、悲痛、怨嗟、痛哭、憤り――およそ考えうる限りの失意の念。

 彼のちっぽけな体を内側から食い破るその激情は暴走し、天を仰いで獣のように激しく吠える。

 その凄絶さは並の人間では辿り着けぬ激情であり、実際に優夜の周りにいた人々は戦慄し、その身と心を硬直させるほどだった。

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