六:悲しいんじゃ、ないの
さっきまでの不機嫌じみた表情は人間から消えている。
奏でられた旋律は、あっという間に人魚を引き込んだ。
強面の人間が出したとは誰も信じそうにないほどの美しさがあった。
穏やかで優しい音がゆっくりと部屋中を泳いでいく。
やさしいゆったりした旋律は人魚にその風景を思い描かせた。
うららかな春の昼下がり、晴れ空の下で何をするでもなく寝ころんで、風のささやきに耳を澄ます。
人魚はふわふわとそんなことを考えながら、人間の奏でる音にききいる。
窓の外にはいたずら妖精たちがこっそりと中をうかがっている。人間の音色に聞き寄せられたのだ。
繊細で消え入りそうな音は静かに部屋を流れ、窓のすきまから外へと漂う。
バイオリンの音を通じて伝わる風景が、人魚にある種の幻を見せた。春の草原に自分は立っていて、そよぐ風を全身にうけとめる。
瞬きも忘れて、目の前の人間をじっと見守っていた。
人間はどこかうれしそうにバイオリンを奏でている。
美しい旋律も手伝って、人魚は自分の胸がきゅっと締めつけられるような感覚をずっと味わっていた。
遠くで聞き耳を立てていた時とは全く違う。
真正面からその音を受け止めるとなると、衝撃や感覚の強さがまるで異なる。
もっと聞いていたい。もっと知りたい。もっといろんな音を、人間に教えてもらいたい。人魚はそう思っていた。
静かに音がやむ。ぱっと演奏を止めた人間は、瞬時に表情が引き締まる。さっきまでのふにゃふにゃした微笑は跡形もない。
ゆるやかに訪れた静寂に、人魚ははっとした。
「……おい」
人間の低い声が聞こえた。
「あ」
「大丈夫か。思い詰めたような顔して。……そんなにひどい演奏だったか」
人間は心配そうに聞く。人魚は必死でぶんぶんと首を横に振った。
「そんなことない! とってもきれいな音だった! ずっと探してた音を近くで聞いてたから……たぶん、心がびっくりしただけさ」
「そうか……何もないなら、いい」
「えっへへ、でもほんとにいい音だったよ。なんかもう、すごいとかきれいとか、そんなんじゃなくて、もっとこう……神秘的っていうのかな? それとも……うーん、この世の音ではない感じ?」
いつも通りのお喋りをしていると、ふいに人間の指が人魚の目尻をこする。
「うん?」
「泣いてんのか」
「……あれ?」
「感動してもらえたなら光栄だが……泣かれると、困る」
「あ、ちがう、ちがう! 悲しいわけじゃないよ! あれー? いつの間に涙が……とまんない」
気がつくと人魚の目からぼろぼろと涙があふれてきた。
決して悲しいわけでも怖いわけでもない。むしろ彼女が今抱いている感情は、前向きなものだ。
ただ単に、人間の音色があまりに美しすぎたのだ。
海では出会うことのなかった音が。人魚には少し強い刺激だったのだ。
人魚の抱いた感情は発散の仕方を知らず、ただ涙になってこぼれてきた。
「……」
「わっ」
人間が何も言わず、人魚を抱きしめた。
「イヤならイヤって言ってくれ。人魚の慰め方は知らねえんだ」
「イヤじゃないよ。イヤじゃなくて、うれしい」
「……ならいい」
人魚は声も出さず、少しだけの間静かに泣いていた。