一:魔女のお得意様
――またあの音だ。
人魚は耳を澄ました。
海の底にひっそりと暮らす人魚の少女がいる。
彼女は人魚の仲間たちの中では飛びぬけて地上に焦がれ、好奇心が旺盛だった。
気前の良い海の魔女に頼んで一時的に足を人間の足にしてもらい、元に戻る時間ぎりぎりまで地上を駆け回ること多数。
人魚にとって海は楽園そのものであり、地上は穢れた場所という認識が常識だった。
そんな常識を蹴とばすように、その人魚はいつも地上へ向かう。
今日も今日とて、人魚の少女は海の魔女のところへ行くのであった。
「魔女のお姉さん」
海の暗い洞にこっそりと住んでいる魔女がいる。夜通し魔法の研究をしているせいで、美しいはずの髪は伸び放題で、整った顔を隠してしまう。目の下には隈ができており、美人が台無しだった。
「またおまえか」
「そう、私だお姉さん」
「懲りないね、地上に行く人魚がこの世のどこにいたものか」
「ここにいるでしょ? 私は地上がすきなんだ」
魔女は盛大にため息をつく。
「どうしてそこまで地上に? 海の方が静かでのんびりできていいのに」
「地上は海にないものがたくさんあるからさ。
最近ね、綺麗な音が聞こえるんだ。楽器の音かな? その音がどこから出てるか気になって探してるんだけど、まだ見つからない」
「じゃあ今日も見つからないんじゃないのか? 探しに行くんだろ?」
「うん。今日は見つかるかもしれない! だからねーさん、頼むよ!」
人魚は両手を合わせて魔女に拝み倒す。
「しょうがないね……。ま、報酬はもらってるから文句はないけどさ。というかおまえが一番のお得意様なんだよね、今んとこ」
「ほんと? これからも仲良く頼むよ、魔女ねえさん?」
「おまえ調子いいな。
ほれ、いつもの薬だ。飲んでから二時間は人間の足に変えられる。だからその前に戻って来いよ?」
「わーかってますって、あとでね、姉さん」
人魚は水面まで上がり、浜辺に上がって魔女の薬を飲みほした。薬の代償は、今日は人魚の髪だった。前回は人魚の髪飾り、その前は腕輪。貨幣がないため、常に物々交換でやりとりしている。たまに薬の素材をかき集めて、それを報酬代わりに薬を受け取ったりもする。
人魚は自分の足が人間の足になったのを確かめた。軽くぺちぺち叩くと奇妙な感覚がする。二本足になるのは初めてではないが、この変化までの心地には常に惑っている。
「よーし」
人魚はにっと笑って、あらかじめ用意しておいた人間の服を着こむ。つぎはぎだらけのぼろだが、何も着ないよりはましだろう。
陸に上がり、立ち上がる。温かい砂を裸足で踏みしめ、街の方へと歩いて行った。