哲学とは言語遊戯に過ぎないのか?
哲学とは言語をもってする
思想遊戯とも言うべきものである。
言語はモノ自体のシンボルでもあり、
その影でもある。
言語というシンボルを駆使してもの自体を探る。
それが哲学。
言語なくして哲学は成立しないし、
モノ自体を表すワードがなければ
新造語しなければならないだろう。
とはいえ言語は危ういツールであり、
不確実なものでもあるから
勢い
哲学とは不鮮明なおぼろな
もの自体(実相)の探求に終わるしかない宿命にある。
宗教の場合は
そこに秘跡とか、聖言とか、心眼という
いわゆる宗教的な神秘体験が加わるので
よりもの自体への接近は
即物的?である。
ただしそれによって
体験した神秘的な悟達の境地が
狂的な、たんなる幻覚だったかどうかは確かめようもないが、、、。
言語という限定的なツールを使って
世界本質を探究する
それが哲学の理知性でもあり、また限界でもある。
それを越えようとすると
言語を捨てなければならないだろう。
それはつまり
以心伝心、教外別伝、月を指す指。川を渡り終わった後のもう不要になった筏に過ぎなくなる。
つまり宗教になってしまうということだ。
まあ、別に宗教で結構だが、
あえて哲学という範囲にとどまるつもりならば
言語の枠に拘束されるしかないだろう。
それは
言語では語りうることしか語れないということでもある。
言語を越えるようなことについては
哲学は黙るしかないのである。
まあ言ってみれば
哲学とは
言語遊戯である。
言語をもてあそび
盛んに新語・造語を繰り出して
何とかもの自体に迫ろうとする
悪あがき?でしかないのだ。
しょせん無理だ。
言語なんてちゃちなツールでは。
世界の実相やら
モノ自体を説明しうるなんて
どだい、無理な話であるから。
だからそれをわかっていたビットゲンシュタインは
『語ることができないことについては沈黙しなさい」といったのだ。
語りうる物事についてだけの考察が哲学の限界と確定したのだ。
これは正しい、
しかし彼、ヴィトゲンシュタインは、
『論理哲学論考』を書き上げて
これで哲学は終わったと、言ってさっさと哲学をやめて
スイスの田舎の小学校教師に転身してしまったのである。
確かにこれ以上哲学をやりようがないというか、
語りえないことについては沈黙するしかないのであるから
哲学はこれで終わりだ。
と言って
はたしてこの奇人哲学者が
小学校教師で収まりきるのかという疑問が残る。
はたして彼は再び大学に舞い戻って
哲学を再開するが
心理的な葛藤にいつもさいなまれていたそうだ。
「俺はこんなところでこんな哲学ごっこをしていていいのだろうか?』という。
確かに彼にとっては
「論理哲学論考」で
もう哲学は終わっていたはずなのだから。
もしそれを越えたいのなら
彼は神秘家とか、宗教家にならざるを得なかっただろう。
しかしそんな選択肢は彼にはありえなかったので、
葛藤していたのだろう。
私事で恐縮だが
この私も
哲学の限界を痛感して
言語による世界究明に限界を感じ、懊悩していたころ、
ある日ふと立ち寄った古本屋で、いかにも怪しそうな
『転生の秘密』といういかがわしい題名の本に出会い
それをふと買って読んでみて
世界とは、言語だけで探究など,所詮無理と悟り、
より広い、輪廻転生の、心霊学の世界に
旅だったというわけである。
言語を捨てたわけではないが
言語を粗雑な霊界ツールとして
下時意識に訴えるときだけ使うという
そういう使い方を今はしているわけである。
言語とは所詮、月を指す指でしかありえないし、
扉をたたくための、瓦片に過ぎまい。
その役目が終われば捨て去るしかないような、ツールに過ぎないのだ。
言語信奉主義である哲学の限界もその辺にあるのだろう。
哲学書を後生大事に崇め奉って
解釈学的に1000回読んでみたって無益である。
哲学書なんて
たとえば川を渡るための急ごしらえの筏に過ぎないのだから
川を渡り終わったなら捨て去るしかない代物なのだよ。
世界の秘密を知ることが目的であり、
哲学書を翻訳することが目的なのではない。
そのためには
言語の限界を超えて
神秘の啓示に触れることだって
厭うまい。
世界の秘密を知りたい、
モノ自体に触れたい、
人間とは何だったのか知りたい。
宇宙の真理とは何なのか知りたい、
そのために言語以上のツールがあるなら
たとえ少しぐらい
怪しげでも厭わない。
それが私が
哲学を捨てて
宗教というか
心霊学に近づいていった理由である。
そして今私はおこがましいかもしれないが
その実相の真理の一端に触れえたと自負して
大安心の境地を
多少とも会得しえたのである。