第0話 お話が始まる前のお話 その六
中学校は今や混乱の極みにあった。次々と数を増やしていく暴徒たち――――――もはや感染者と言った方が正しいだろう――――――が、校庭のあちこちで人々を襲っていた。悲鳴と絶叫が空気を震わせ、グラウンドの砂利を鮮血が真っ赤に染め上げていく。校庭に立てられていたテントは逃げ惑う人々になぎ倒され、倒れたポールの下敷きになった者のうめき声は、すぐに悲鳴に変わった。
何人かは開いたままの正門から外へと逃げ出そうとした。しかし次の瞬間、猛スピードで走ってきたワゴン車が彼らの姿をかき消す。道路に飛び出してきた人々を轢いたワゴン車は急カーブを描いて、学校前に立ち並ぶ民家に突っ込んだ。
「逃げろ!」
校門から外へと逃げ出したはずの避難民が、必死なの形相で引き返してきた。すぐに、その理由がわかった。職員室の窓から、学校に向けて走ってくる多くの人影が見えた。そしてそれらは、普通の人間にはとても見えなかった。
この近辺にも感染が広がりつつあるのだ。機転を利かせた避難民が何人か正門を閉めようとしたが、重い門が完全に閉まるまでに外からやって来た感染者が何体か、わずかな隙間からグラウンドへと入り込んだ。門を閉めたことでそれ以上の感染者の侵入は阻止できたが、それは逆に校庭で襲われている人々の逃げ場を奪ったことも意味していた。
外へは逃げられず、校庭は感染者だらけ。逃げ場がない中人々は次々と感染者に捕まり、襲われた。咬まれてそのまま自らも感染者と化し他の人間を襲う者もいれば、全く身動きせずその身体を貪られている者もいる。おそらくウイルスが体内に侵入した時に、致命傷を負っていなければ感染者になるのだろう。逆に死んでいたり、その一歩手前の人間は感染者になることなくそのまま死ぬ。
感染者は痛みもさほど、というか全く感じていないようだった。顔の肉を食いちぎられていようが、感染者はそんなことに全く気付いていないかのように元気に人々を襲っている。もしも痛みを感じているのならば、今頃激痛に苦しみ全く動けないか、あるいはショック死しているだろう。
正門から外へと逃げ出せなかった人々は、てんでばらばらな方向へと走り出した。体育館や、僕らのいる教室棟へ向かって。そしてそれらを追って感染者も学校中に広がり始める。校庭のフェンスをよじ登って外へ逃げようとした人が、足を掴まれ地面に引きずりおろされ、感染者の群れの中へと消える光景が見えた。
「逃げないと……」
だがどこへ? 校庭はこの有様だし、裏門にも感染者がいる。西側にも通用門はあるが、さっき何人かの人々と感染者がそちらへ向かっていた。逃げ場はない。
階下から悲鳴と咆哮、そして何かがなぎ倒される物音が聞こえた。「様子を見てくる、ここを動くんじゃないぞ」と中谷先生が職員室から出ようとしたその時、轟音と共にスライド式のドアが職員室の中へと倒れこんだ。ドアが吹っ飛んだ出入口の向こうで、誰かが床に押し倒されていた。
「助けてぇ……」
さっきグラウンドへと飛び出していった教師の一人だった。化粧の代わりに血で真っ赤に顔が染まった彼女に、小学生くらいの少年が跨っていた。だが彼の様子は、明らかに普通ではない。血走った目を見開き、口の端から血の混じった涎を垂れ流しながら、彼は勢いよく馬乗りになった教師の首へと噛みつく。絶叫が廊下の壁に反響し、小学生の感染者が勢いよく教師の首の肉を食い千切った。
ブチブチという音は、筋肉が引きちぎられる音だろうか。ゴムホースのような太い血管が端からぶら下がる肉の塊を、感染者が咀嚼する。まるで公園の噴水みたいに教師の首から噴き出た鮮血を見て、僕は思わず笑ってしまった。
笑うしかなかった。目の前で繰り広げられる全ての出来事が冗談のように思えた。人間が理性を失い、同じ人間を殺して回っている。そしてこの学校でそんな地獄絵図が繰り広げられる一因を作ってしまったのが、他ならぬこの僕であることは、今まで見たどんなコメディ映画よりも笑える冗談だった。「馬鹿」というタイトルの傑作コメディ映画を、ポップコーンを食べながら家で呑気に見ている。そんな気分だった。全てに現実感がなかった。身体から力が抜け、僕は思わず窓際の壁に背を預け、その場に座り込む。
恐らく大動脈を食い千切られたのだろう、教師は二度と動かなかった。その死体の上に跨り、口の周りを真っ赤にした少年と目が合う。金切声の咆哮を上げながら、手にしたわずかな肉塊を放り捨て、少年が僕に向かって突進してきた。僕はその様子を眺めていることしかできない。身体が動かない。
「危ない!」
横から割って入った中谷先生が、下から掬い上げるようにして少年の胴体を掴んだ。走ってきた少年の勢いを借りて先生は、開いたままの窓からその身体を放り投げる。昔柔道をやっていたという先生は、子供一人を持ち上げるくらい他愛のないことなのだろう。小さな少年の身体が窓の外に消え、続いてドスンと肉の塊をまな板に叩きつけたような音が外から聞こえた。
そこでようやく、自分が殺されかけていたことを思い出す。礼を言おうと顔を上げたが、先生は真っ青な顔で「殺してしまった……」と呟いた。
「なんてことを……」
そう呻く先生に、僕はなんて声をかければいいのかわからなかった。先生が僕を助けてくれたことには感謝しているし、襲われている他者を助けようとして相手に危害を加えるのも緊急避難という権利で認められている。だが僕がどんなに感謝の言葉を述べたところで、それが先生の心に届くことはないだろう。
立ち上がり、ベランダから身を乗り出した僕は、恐る恐る下を覗いた。子供が二階から外へと勢いよく放り出されたのだ、たとえ死んでいなくとも重傷を負っているだろう。
案の定、昇降口前のコンクリートの地面には、さっき教師を殺し、僕に襲いかかってきた子供が両足を変な方向に捻じ曲げ、頭から血を流してうつ伏せに倒れていた。何の受け身も取れずにコンクリートの地面に叩きつけられたのならば、死んでいるかもしれない。
しかしその子供は、まだ生きていた。上半身を起こし、立ち上がろうとして折れた足のせいで再び倒れこむ。痛みなんて、これっぽっちも感じていないようだった。まるで匍匐前進をするように、僕らを襲ってきた子供は両手で地面を這い、手近なところにいる避難民へと向かっていく。
「化け物かよ……」
痛みは感じない、重傷を負っても平気で走り回り、人間を襲う。感染者はもはや人間ではないことを僕は悟った。あれはもう、人間の形をした怪物だ。
「逃げなきゃ……」
あれに立ち向かうのは無理だ。素人が素手で感染者に立ち向かうのは、自分から餌になるようなものだ。格闘技をやっていたとしても、今や校庭を我が物顔で走り回る感染者の群れと戦うのは自殺行為だろう。銃を持った警官や自衛隊員でなければ、感染者を倒すことなんてできない。
僕にできるのは、逃げることだけだ。だが、どこへ逃げればいい?さっき感染者は学校の正門からも侵入してきた。ということは、今やこの辺りにも大勢感染者がいるに違いない。外に出たところで、学校の中にいるよりも遥かに多い数の感染者に襲われるかもしれない。
警察と自衛隊の救助を待っていたら、その前に死ぬだろう。この市に自衛隊の駐屯地や基地はない。それに日本全国で同じような事態が起きているのなら、それらの対応に手いっぱいで救助活動なんか到底行えないだろう。
とにかくまずは感染者たちをやり過ごさないと。そこまで考えたところで、僕は両親の存在を思い出した。
二人は体育館にいると言っていた。慌ててベランダに出ると、感染者の一団が体育館の扉に向かって体当たりを繰り返している様子が見えた。何人かは体育館の扉を閉め、中に立てこもったらしい。しかし感染者たちにそれを気付かれたようだった。
体育館の中に父さんと母さんがいたら。そう思うと胸が締め付けられるような思いがした。今すぐ助けに行きたかったが、僕一人が行ったところで何も出来ない。食い殺されるか、あるいは体育館の扉をぶち破ろうとする一団に加わるかのどちらかだ。僕一人にできることは何もない。
今はどこかに隠れて感染者たちの数が減るのを待ち、それから両親と合流してここから逃げる。思いつく限りでは、それが一番のやり方だった。今はとにかく感染者の見つからない場所に隠れて機会を待つ。隠れられる場所が多いのは、教室棟の隣に位置する管理棟だろう。
「先生、ここを離れましょう。直に奴らが押し寄せてくる、その前にどこかに隠れないと」
しかし中谷先生は床に座り込んだまま、一歩も動かなかった。放心したかのように口は開いたままで、その瞳は虚空に向けられている。感染者になった子供を殺したと勘違いして罪悪感に襲われているのか、それとも非現実的な事態の連続に思考がパンクしてしまったのか。どちらにせよ、ここにとどまり続けるのは危険な行為のように思えた。
先生を立ち上がらせようとその肩を掴んだ時、ドアが吹っ飛んだままの入り口から数体の感染者が職員室内に飛び込んできた。感染者たちの視線は僕と床に座り込んだままの中谷先生を捉えており、僕は思わず先生から手を放して後ずさってしまった。
感染者たちはいっせいに、座り込んで動かない先生に飛びかかった。先生が我に返った時には既に遅く、彼の身体に感染者たちが食らいついていた。
「う、うわあああっ! やめろ、やめろーっ!」
先生の悲鳴は、たちまち感染者たちの荒い吐息と咀嚼音にかき消された。感染者たちは先生の腹にかぶりつき、肉を食い千切った。ひときわ大きな絶叫を上げて蹲った先生の身体が、まとわりつく感染者たちで見えなくなった。
「たすけて、たすけてくれ……!」
自分の恩師が目の前で食い殺されそうになっている。助けなくてはと思った。だけど僕の身体は言うことを聞かなかった。
僕は先生の言葉に応えられなかった。僕が出来たのは感染者たちが先生を食らうのに夢中になっている隙に、反対側の出入り口から脱出することだけだった。
先生の悲鳴を聞いたとき、僕の心にあったのは「戦う」という言葉ではなく、「逃げたい」「死にたくない」という極めて利己的なものだった。目の前で食い殺される先生を見て、ああなりたくないと思った瞬間に身体は勝手に動いていた。
校舎内にも感染者はだいぶ侵入しているらしい。廊下のあちこちに死体が転がり、血の海が広がっていた。背後から、感染者たちが追ってくる足音が迫っていた。僕は死体に躓き、床の血に足を取られて転びながらも必死になって管理棟を目指した。雑然としている管理棟なら、とにかく感染者の目を逃れられる場所はある。
正門の方でパトカーのサイレンの音が聞こえ、続いて数発の銃声が轟いた。今頃になって警察官たちが来たのだろうが、遅すぎた。さらに数発銃声が響き、そして途絶えた。流れ弾を食らったのかサイレンの音が間欠的に流れ、しばらくして完全に沈黙した。
『廊下を走ってはいけません』のポスターを無視し、僕は管理棟内にある使われていない教室を目指した。僕が在籍していた時、その教室は物置として利用されていたが、室内には大きなロッカーや棚くらいしか置かれていなかった。そして当時、その教室のドアのカギはかかっていなかった。
三階の階段を駆け上がり、管理棟の突き当りにその教室はあった。スライド式のドアにはやはりカギはかかっておらず、僕は教室へと飛び込んだ。そして素早く振り返ってドアを閉めようとしたところで、「おーい、待ってくれ! 俺も入れてくれ!」という声を聞いた。
廊下にわずかに顔を突き出すと、こちらに向かって廊下を走る学生服姿の少年がいた。どうやら僕を追いかけてきていたらしい。さっきから聞こえていた足音は感染者のものではなく、彼のものだったようだ。必死になって振り返る余裕もなかった僕は、そのことに全く気付いていなかった。
「早くこっちに……」
最後まで言う前に、少年の背後に数体の感染者が姿を現した。彼もまた、追いかけられていたのだ。ただし人間ではなく、感染者に。
安全な場所を見つけて安堵の表情を見せていた少年は、背後を振り返って「うわあ」と悲鳴を上げた。必死に走って感染者から離れようとするが、感染者たちの走る速さはそれよりも早かった。
僕はドアを閉め、カギをかけた。ドア越しに「待て、閉めるな!」という声が聞こえ、続いて絶叫が聞こえた。少年は感染者に追いつかれつつあり、少年を入れるためにドアを開けたままにしておいては、感染者まで教室に入ってくる恐れがあった。
だから閉めるしかなかった。僕は彼を見捨てたのだ。
一息つく間もなく、轟音と共にドアが震えた。「やめろ、離せこの野郎!」という少年の絶叫と、感染者の唸り声がドアの向こうで聞こえた。あの少年はドアをぶち破ってでも、この教室に入ろうとしているらしい。ドアをぶち破った結果、感染者の侵入も防げなくなる可能性なんてこれっぽっちも頭にないのだろう。そこまで少年は必死なのだ。
ドアを押さえたところで無駄だということはわかっていた。レールの上に乗っているだけのドアは、中学生どころか小学生の本気の体当たりですら外れてしまう。パニックに陥った少年はドアに体当たりを繰り返し、既に扉は半分レールから外れていた。
どこかへ隠れなければ。周囲を見回し、教室の隅に置かれたロッカーが目に入った。すべての教室に備えられているもので、中には清掃用具が入っている。人間一人くらいなら、楽に中に隠れられそうだ。
清掃ロッカーの扉を開けた瞬間、強烈なカビのにおいがあたりに漂った。だが今はそんなことは気にならなかった。並んだ箒や塵取りを押しのけるようにして僕はロッカーの中に入り、扉を閉めた。ちょうど扉の目の高さには換気用のスリットが設けられており、そこから教室内の様子がうかがえる。
直後、ドアが破られる轟音と共に、少年の悲鳴がよりはっきりと聞こえるようになった。倒れこむようにして教室に入った少年の身体に、数体の感染者が群がっている。両手で顔を覆い、床を転がりまわって少年は感染者たちから逃れようとしていた。しかし感染者の腕力は相当なものらしく、すぐに抑え込まれてしまう。
「いやだ、やめろ! 死にたくない、誰か助けてぇえっ!」
その後は、言葉にならない悲鳴とうめき声が続いた。それもしばらくして止み、後はひたすら肉を咀嚼する音と、感染者たちの荒い吐息だけが聞こえた。