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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第二部:変革のお話
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第0話 お話が始まる前のお話 その五

 まるで怒鳴り声とも悲鳴ともつかないその咆哮は、かなり近いところから聞こえたような気がした。その咆哮を聞いた途端、街中が停電しているというのに男の顔が真っ青になったのがわかった。


「き、来た……!」

「来たって何が?」


 扉を開けた途端、男が僕らを突き飛ばさんばかりの勢いで入ってきて、そのまま校庭の方へと走り去っていった。すれ違ったその一瞬、男のシャツの袖が引きちぎられ、血が滲む歯型が腕に刻まれている様が懐中電灯の光に照らされる。少なくとも、犬猫の歯型ではなかった。


「おーい、待って、止まって!」


 話を聞く暇もなかった。男の姿は管理棟の影に隠れて見えなくなり、僕と吉岡は無言で顔を見合わせる。校庭の方にいる連中も、今の咆哮を聞いていたのだろうか?

 男の焦りっぷりから、何かが起きていることだけはわかる。彼は殺されると言っていたから、もしかしたらさっきテレビでやっていた暴徒に襲われたのかもしれない。病気に感染し暴れまわる暴徒のせいで、既に多くの死者が出ているとニュースでやっていた。


「とりあえず、先生たちに言っておいた方がいいよな?」

「ああ、門も閉めておいた方がいいと思う」


 外を暴徒がうろついているのなら、門を固く閉じて警察を呼んだ方がいい。今開けたばかりの門を南京錠でロックしようとしたその時、少し離れた道路上で、何かが蠢いているのが見えた。

 懐中電灯で照らすと、誰かに馬乗りになっているスーツ姿のサラリーマンの背中が見えた。圧し掛かられているのはお年寄りなのだろうか? 傍らに杖が転がっている。馬乗りになったサラリーマンはひたすら両手を振りおろし、老人に暴行を加えているようだった。


「おい、何やってる!」


 いくらこんな非常時とはいえ、混乱に乗じて好き放題やろうとしている輩は見逃せない。吉岡が止めるのも聞かずに今閉じたばかりの門から学校の外へ飛び出した僕は、老人に対して狼藉を働くサラリーマンに駆け寄った。まるで老人とキスでもするかのように顔と顔を近づけていたサラリーマンは、僕の制止も聞かない。その肩を掴み、強引にこちらを向かせた僕は、彼の口から何かが垂れ下がっているのを見た。


 真っ赤に染まったホースのようなそれは、一緒に持ち上がった老人の首に繋がっていた。それが人間の気管であることに気付いたのは、老人の首が大きく裂けている様が目に入った時だった。

 既に老人は動いていなかった。時折足が痙攣し、真っ黒な水たまりがその身体の下に広がっている。太陽の下で見たのなら、その水たまりはきっと真っ赤な色をしているだろう。


 肺に繋がったままの気管から、ヒューヒューと空気が漏れる音が聞こえた。


「うわあああっ」


 情けない悲鳴を上げ、反転して飛び出したばかりの学校へと走り出す。背後で何かが倒れるびちゃっという鈍い音と共に、再びさっきの咆哮が轟いた。


「早くこっちに来い!」


 只ならぬ事態を察したのか、吉岡が門のところで僕を手招きしていた。背後から足音が聞こえるが振り返っている余裕はなく、僕はそのまま滑り込むようにして門を通り抜ける。

 すかさず待機していた吉岡が門を閉めると、さっき老人を殺したサラリーマンが勢いよく門扉にぶち当たった。彼の口の周りは真っ赤に染まり、所々に肉片がこびり付いている。何より目を奪われたのは、彼の頬のあたりの肉が、まるで何かに食いちぎられたかのように消失していることだった。

 傷口からは千切れてささくれ立った真っ赤な筋肉と、黄色い脂肪が覗いていた。病院に行かなければならない傷だろうに、サラリーマンはまるで痛みを感じていないようだった。彼は絶叫しながら門扉に体当たりを繰り返すが、その瞳に理性は欠片も見当たらない。その目にあるのは、飢えた獣のような殺気だけだった。


「ど、どうするよ?」

「け、け、警察……」


 今見た光景を思い出し、途端にその場に吐きそうになる。恐怖で歯の根が合わなかった。ズボンが少し、湿っているような気がした。今まで散々グロシーンがある映画は見てきたが、たった今目にした老人の死体は、作り物の死体とは違うリアルさとそれをはるかに超える残酷さを持ち合わせていた。僕が見たのは本物の人間の死体だった。


 人が殺されたのだ、しかも食われて。そして犯人は目の前で今も暴れている。警察を呼ばなければならない事案だが、その警察は今暴動への対処で手いっぱいと来ている。とにかく、大人たちを呼んで来よう。そう僕が考えた時、サラリーマンの体当たりで門が大きく揺れた。蝶番のネジが衝撃で半分抜け落ち、慌てて吉岡が門扉を押さえる。


「痛え、こいつ噛みやがった! こいつは俺が見張ってるから、お前は早く先生たちを呼んで来い!」


 サラリーマンが門扉の隙間から顔を突き出し、押さえる吉岡の手に噛みついた。慌てて引きはがしたおかげで傷は深くならずに済んだが、それでも指先の皮が剥けて血が滲んでいる。

 彼は尚も体当たりを繰り返し、古い門扉は悲鳴のような金属音を立てて大きく揺れている。二人がかりで押さえた方がいいのではないかと思ったが、それでは誰にも今ここで起きている事態を伝えることが出来ない。周囲に人影はなく、僕らのどちらかが走って大人たちに襲われていることを知らせなければならなかった。


「わ、わかった、すぐに先生たちを呼んで戻ってくる」

「なるべく早く頼むぞ、こいつとんでもない力だ」


 とても大丈夫そうには見えなかったが、今はその言葉を信じるしかない。今僕がやるべきことは職員室に行って「頭のいかれた男がいる。一人では手に負えん」と、サスマタやら催涙スプレーやらを装備した先生たちを呼んでくることだ。事態はもはや僕らだけでどうこう出来るレベルを超えていた。


 さっき見た死体が再び頭をよぎり、途端に身体から力が抜けそうになる。酸っぱいものが喉元までこみあげてきたが、我慢した。今はゲロを吐いたり、小便を漏らしている状況じゃない。いや、とっくに漏らしていたが。

 転げるように僕は、職員室目指して駆け出した。やって来た近所の住民たちやボランティアの人間は南側の体育館に集まっているため、北側の管理棟付近に他に人影は見えない。開きっぱなしの渡り廊下のドアをぶち破らんばかりの勢いで開け、職員室目指して教室棟を駆ける。


「先生、大変です! 早く裏門に来てください!」


 そう叫びながら僕は、職員室に飛び込んだ。「ノックをしろ!」と学年主任が怒鳴ったが、それを無視して僕は運よく職員室にいた中谷先生を呼ぶ。


「どうした、何があった?」

「裏門の前で人が殺されて、それでその犯人が学校に入ろうとして暴れてるんです。今は吉岡が門を押さえて――――――」


 その時だった。窓ガラス越しに、校庭から悲鳴が聞こえたのは。


「なんだ!?」


 学年主任が窓を開けると、途端に悲鳴はより大きく聞こえた。悲鳴の数は次々と増えていき、人々のどよめきと怒号が校庭中に広がっていく。

 野球部用の照明で煌々と照らし出されるグラウンド、その教室棟に近い位置にある朝礼台のすぐ脇で、若い女性に掴みかかっている男の姿が見えた。僕はその男が、さっき裏門から入ってきたあの白いシャツを着た大学生くらいの男であることに気付く。男は身を捩って離れようとする女性の両肩を掴むと、乱暴に目の前に引き寄せた。


 強引に唇でも奪うつもりか? こんな状況だというのに場違いにもそんな考えが浮かんだが、次の瞬間男が取った行動は僕の予想だにしないものだった。男は勢いよく、女性の首筋に噛みついたのだ。

 目を見開いた女性が絶叫し、首筋が真っ赤に染まる。慌てて周囲にいた人々が、男と女性を引き離した。まるで獣のように吼えながら暴れる男は両手を振り回し、取り押さえようとしたボランティアの青年の腕に噛みつく。一方女性は首筋を押さえながら倒れこみ、その身体が痙攣し始めた。


「おい、あいつか? お前がさっき言ってた犯人は?」

「違います、あの人も襲われてて、僕たちが裏門から入れたんです」


 あの若い男も、殺されそうになった恐怖で頭がおかしくなったのか? だがそれにしては様子がおかしい。若い男はまるで人間でなくなってしまったかのように暴れまわっている、狂人どころか飢えた獣だ。第一なぜこの場で暴れる必要がある? なぜわざわざ女性に噛みついた?


「とにかく、救護を……」


 何人かの教師が救急箱とサスマタを手に、慌てて職員室を飛び出していった。異常事態の連続に、僕の頭はすっかりパンク寸前だった。次に何をすべきか、そもそも何をしようとしていたのか、全く思い出せない。僕にできることは、ただ茫然とその場に立ち尽くすことだけだった。


 

 職員室を出て行った教師たちがグラウンドに姿を見せた時、今まで痙攣していた女性が突如立ち上がった。介抱していた近所のおばさんがほっとしたような表情を見せ、「もう大丈夫よ」と声をかける。しかし若い女性は立ち上がるなり、そのおばさんに掴みかかった。両手で頭を掴むと、親指を眼窩に突っ込む。おばさんが絶叫し、その両目から赤い液体が流れだした。


「君、やめなさい!」


 そう叫んだ学年主任は、横から勢いよく駆け寄ってきた、さっき男を取り押さえようとして咬まれたボランティアの青年に体当たりを食らってグラウンドの砂利の上を転がった。ボランティアの青年は倒れた学年主任に馬乗りになると、無茶苦茶にその顔を殴りつけ、咬みつく。

 

 暴力行為は今や校庭のあちこちで繰り広げられていた。逃げ惑う人々と、それを追う連中。捕まった人間は殴られ、咬みつかれ、そして殺された。

 さっきまでは多少の不安を抱えつつも平然としていた人々が、今では殺し合いを始めていた。それはまるで、僕らがさっき見たテレビに映っていた、暴徒そのものだった。



 ―――――――今世界中で広がっている暴動、それを引き起こしているのはウイルスに感染している人間だとニュースではやっていた。だがどうやってウイルスが感染しているのかは不明だとも言っていた。

 もしも彼らが自分の意志で殺し合いを始めたのでない限り、今殺し合いをしている人々はウイルスに感染したことになる。彼らはなぜ感染した? 僕はすぐに、暴徒たちの共通点に気付いた。



 裏門の前の道路で老人を貪り食っていたあのサラリーマンの顔には、まるで食いちぎられたかのような傷口があった。そしてさっき女性を襲ったあの若い男の腕には、咬まれた傷口があった。そして男に襲われ、今はそこらじゅうで人々を殺しまわっている若い女性は、男に首筋を咬まれた。若い男を取り押さえようとして咬まれたボランティアの青年も、今は殺し合いに加わっている。


 皆咬まれているのだ。そして咬まれた連中は全員暴徒と化し、その数はどんどん増えている。咬まれることによって感染している可能性は大きい。

 

 途端に僕は重大な事実に気が付き、その場に崩れ落ちそうになった。

 最初に学校内で暴れ始めたあの若い男、暴徒に追われ逃げていた彼を校内に入れたのは、他ならないこの僕だった。



 どうやら僕は、地獄への扉を開いてしまったらしい。

主人公、大いにやらかすの巻。

デッドライジングのババアインパクトよろしく、王道を往くゾンビものならばまず最初に災厄を解き放って安全な場所を地獄に変えてしまうのは直後に殺されるであろうモブか脇役です。しかし以前も書いたようにこの主人公は王道を往く物語ならば脇役的なポジションの人間なので、自ら知らない間に感染者を避難所の中へと招き入れてしまいました。しくじり先生に十分出演できるレベルですね。


というわけで、彼の悪夢である前日譚もあと一話か二話で終わります。その後はまた現在に戻ります。



ご意見、ご感想お待ちしてます。


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