第0話 お話が始まる前のお話 その三
二年前まで僕が通っていた第二中学校は街全体が停電しているにも関わらず、校舎の窓からは煌々と光が漏れていた。広いグラウンドの隅にある野球部用の照明灯が点灯し、テントを外へ運び出している人々の姿が見えた。二階にある職員室では、複数の人影が慌ただしく走り回っている。
家の近くにあるにも関わらず、最後に中学校の近くを通ったのは半年以上前のことだ。中学校生活を思い出してなんだか懐かしくなったが、今はそんな感傷に浸っている場合ではない。校門は開け放たれ、僕と同じように不安に思ってやってきたらしい何人かの近隣住民が、中学校の敷地へと足を踏み入れている。
校門の脇には懐かしい顔があった。僕の中学三年次の担任、中谷先生だ。でっぷりと突き出た腹と薄くなった頭を散々からかわれていたが、尊敬されもしていた良い先生だ、と僕は思う。担当は英語で、いつも赤点すれすれだった僕の英語の成績改善に尽力してくれた先生だった。
「先生!」
「おう、久しぶりじゃないか。元気にしてたか?」
先生はどうやら僕のことを覚えておいてくれたらしい。とはいえ今は、懐かしい思い出話をしている場合じゃない。険しい表情の先生を見て、僕は挨拶を早々に打ち切った。
「先生、さっきの飛行機見ました? それにニュースでも暴動が発生したって……」
「飛行機の墜落は直接見てはいないが、屋上に上がって煙と炎だけは見えた。暴動のニュースも本当らしい。さっき防災無線で市役所から避難所を開設するように指示があった」
何かのデマであってほしいと願っていたが、そうではなかったようだ。今は事前のマニュアルに従って、避難所の開設作業を行っているらしい。
「直にここにも、不安に思った住民の方々が大勢やってくるだろう。そうだ、お前も手伝ってくれないか? もう何人か卒業生がやってきて、ボランティアで作業をやってくれている。元3年B組の奴らも来てるぞ」
進路はバラバラということもあって、中学卒業後かつての同級生に会うのは年に一回か二回程度しか機会がなかった。駅などで偶然見かけても、じっくり話す機会もなかった。こんな時ではあるが、会えるのならあっておきたい。僕は先生の要請を迷わず承諾した。校庭や体育館でじっとしているよりも、準備を手伝いながら校舎中を回っていた方が情報が集まるだろう。
中学校では着々と避難所の開設準備が進んでいた。教師や集まってきたボランティアが校庭にテントを運びだし、避難してくる住民の名簿を作成している。一方体育館には床に敷くための毛布や、ミネラルウォーターの入ったペットボトルを運ぶ人々の列が続いていた。中には学生服姿の少年少女も何人か混じっており、その中の一人に見覚えがあった。
「吉岡! お前も来てたのか」
「お前、誰だっけ?」
「ひどいな、嘘でも傷つくぞ」
「嘘だよ、お前の顔と名前くらいちゃんと覚えてるさ」
毛布の束を両脇に抱えた少年は、三年次に僕の同級生だった吉岡だった。中学卒業後は別々の高校に行ってしまったため中々会う機会はなく、その間に彼は随分とイメチェンをしていたらしい。ヘルメット見たいか髪型だった黒髪は茶色に染められワックスでツンツンに立てられ、耳にはピアスをしていた。ほとんど別人のような有様だったが、なぜだか僕にはすぐに彼が吉岡だと分かったのだ。
「お前もボランティアか? さっきの飛行機見たか?」
「ああ、見たよ。というか、録画してた」
「マジかよ、見せてくれ」
僕がスマートフォンを差し出し映像を再生すると、吉岡は険しい顔で画面を見つめた。周りにいた他の住民やボランティアも集まってきて、飛行機が墜落し爆発炎上するその瞬間を食い入るように見つめている。
「やっぱあの飛行機の墜落って……」
「わからない。僕は家が停電したし暴動も起きたってニュースを聞いて、何か情報がないかと思ってここに来たんだ」
「そうか。俺はたまたま家に帰る途中でここを通りかかって、只ならぬ様子だったもんで手伝いに来た。テレビは確か、職員室にあったな。これを運んだ後で見に行かないか?」
今は一刻も早く情報を得たいところだったが、吉岡の言う通りにした。どうせ僕が急ごうと急ぐまいと、事態は何も変わらないのだ。それにもう少し時間が経った方が、より正確な情報が集まっているかもしれない。
電力が復旧する見込みはまだ経っていないようだ。そもそも飛行機が墜落する際に、街全体に電力を供給する送電線を切断した上に、その後の爆発に巻き込まれて鉄塔も倒壊したらしい。停電が解消されるのは、大分先のことになるだろう。こういった場合は余所の地域から電力を分けてもらうとかなんとかと聞いたことがあるが、それにしたって今すぐ何とかなるものでもないはずだ。
中学校には続々と近所の住民たちが集まってきていた。毛布や椅子を体育館へと運び、一段落したところで職員室に向かう。途中、近所に住むかつての同級生たちと何度かすれ違った。しかし彼らは皆僕の知らない僕と同じくらいの年齢の少年少女たちと話しており、とても間に割って入れるような雰囲気ではなかった。中学を卒業した後、彼らも僕と同じように新しい友人を作っているのだ。今の彼らにとって僕は昔在籍していたクラスの一員という立場でしかない。
こういった時、市外の高校を選んでしまった者は辛い。僕が進学した高校には、中学時代の同級生は一人もいなかった。僕が高校で新しい友人関係を作り上げている間に、中学時代の友人とはどんどん疎遠になっていった。
そもそも、地元の高校に進学しなかったのがいけないのだ。塾の講師や親に進められるがまま、調子に乗って前期課程で自分の実力より上の高校の入学試験を受けたら、たまたま受かってしまった。結果同級生のほとんどが地元の高校に進学する中、僕は一人で市外の進学校へと通う羽目になってしまった。おまけに今では中学生の時の頭の良さはどこかへ行ってしまい、テストでは毎回赤点スレスレの成績だ。順位も下から数えた方が早い。
この中学校には、高校の同級生は一人も来ていないだろう。高校の友人は皆市外に住んでいる。これでもしも比較的仲の良かった吉岡がいてくれなかったら、避難所に来ても不安は解消されるどころかますます強くなっていたに違いない。
その後も何人か、中学時代の同級生を見かけた。中にはまだ僕の顔を覚えていた連中もいたらしく、すれ違う時に声をかけてきてくれた。ささやかな同窓会といった感じで、彼らと話している間だけ、僕はさっき見た光景を忘れることが出来た。
「――――――松野は東大目指してるんだってさ。須藤は就職希望らしい。親父さんがリストラに遭ったんだと」
「うわ、高二のこの時期にそれは辛いな」
「高校中退した奴もいるみたいだぜ? 名前は忘れたけど」
倉庫と体育館を往復する間、僕らはそれぞれ自分や友人の近況を語り合った。一応メールアドレスは交換してあったとはいえ、高校に進学すれば自然と中学時代の友人との関係は薄れていく。特に僕は市外の高校へ通っていたから、誰が今どこで何をしているかなんてさっぱりわからない。一方吉岡は同じ高校に進学した友人は多く、彼らとの関係は今でも続いているようだった。
「そうか……皆いろいろと大変なんだな……」
「何他人事みたいに言ってんだ、お前だって来年卒業じゃねえか。お前はどこの大学目指してるんだ?」
「いや、まだ決まってなくて」
別に見栄を張ったり、隠そうとして言った言葉ではなかった。本当に何も決まっていないのか。そもそも進学したいのか、それとも就職するかすらまだ決められていない。まるで霧の中にいるかのように、僕は自分が進むべき道を見つけられていなかった。
両親は進学しろ、学費が安い国立に行けとうるさいが、そもそも何のために大学に行くのかも分からない。勉強のため? 勉強なんて嫌いな僕が? 今じゃ大卒じゃないとまともに就職も出来ないと言われているが、そもそも就職だってどういうことなのか言葉ではわかっていても、理解はできない。僕は自分の将来を、思い描くことが出来ていない。
何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、さっぱりわからない。あるのは「早く決断しなくては」という、真綿で徐々に首を絞められているような閉塞感と焦燥のみだ。
「この時期に『まだ決まってない』はまずいだろ……まあ後で先生に相談してみろよ。こんな時とはいえ、一応俺ら母校に来てるわけだし」
こんな時。その言葉で、我に返った。
今、この世界では何かが変わりつつある。何となくそのことを僕は理解していた。それがいい意味で、なのかはまだ分からない。だが、何かが変わっていることは確かだ。
地球の裏側では暴動が拡大し、日本でもついさっき同様の事態が発生したというニュースが入ってきた。何より、僕の眼前で繰り広げられた飛行機が墜落する光景。ただの事故だと思いたいが、ニュースを聞いている限りそうではないという予感が僕の中で大きくなりつつあった。
職員室には、まだ何人か先生が残っていた。壁際のキャビネットに置かれたラジオのようなものは、自治体が災害情報を伝達するための防災無線の受信機だろう。今はノイズを流している受信機の前では、険しい顔をした女の先生が椅子に座っていた。
見たことのない顔も混じっていたが、僕らの知る顔もあった。学年集会でよく怒っていたことで知られる学年主任が、部屋の片隅の天井近くに設置されたテレビの画面を睨んでいる。誰も、職員室に入ってきた僕らを咎める先生はいない。まるでそんなことを気にしている余裕などないとでも言うかのように。
「失礼しまーす」
挨拶したが、返事はなかった。僕らの知る学年主任だったら「声が小さい」「入室の手順を守っていない」とたちまち説教が始まっているところだろうが、彼は相変わらずテレビの方を向いたままだ。
「まずいだろ、これ……」
そんな声が誰かの口から洩れる。そっと教室に入り、見上げたテレビの画面は真っ赤に染まっていた。
買ってからもう十年以上使っているようだし、テレビが壊れたのか?そう思ったも束の間、画面の右上に「中継」の文字があるのを見て、僕は真っ赤な映像を映し出すテレビが壊れたのではないことを理解した。
『……ご覧ください、現在青山通りは炎に包まれています! 私たちの真下では暴徒たちが人々を襲い、事故を起こした車が道路を塞いでいます! 渋谷駅方面でも火の手が確認できます……」
そこでカメラがズームアウトしていき、ようやく僕は画面を埋め尽くしていた赤いものが、真っ赤に燃える炎であることを知った。画面の中で、何台もの乗用車が燃えている。広い通りのあちこちに事故を起こした車両が転がり、その合間をいくつかの人影が走り回っているのが見えた。カメラマンが緊張しているのか、ピントもあっていないし手振れだらけで鮮明な映像ではない。それでも、誰かが襲われているのだけはわかる。
青山通りや渋谷という単語があったから、映っているのはおそらく東京だろう。あちこちで立ち昇る真っ赤な炎が、東京の空をオレンジ色に染めている。
「他の局はどうなってるんだ?」
教頭の言葉で、学年主任がチャンネルを操作した。別の局に切り替わったはずだが、映っているのは相変わらず炎上する乗用車が並ぶ大通り。同じ場所で撮影しているのかとも思ったが、『現在の福岡市内』というテロップが、画面には表示されていた。
学年主任がチャンネルを操作するたびに、同じような光景が画面に映し出される。しかしそれらが撮影されている場所は、全国各地だった。
東京で、沖縄で、北海道で、大阪で、名古屋で……。そしてそれは日本国内だけではなかった。衛星放送に切り替えると、炎上する韓国のソウルやアメリカのニューヨークの映像が流れた。
やはり世界は変わろうとしている。ただし悪い意味で。そのことを僕は何となくわかり始めていた。
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