第0話 お話が始まる前のお話 その一
今回からしばらく少年の回想が始まり、主人公の一人称視点に戻ります。
ちなみに時系列はサブタイトルの通り、本編開始以前の時点になります。
「もう8時よ、学校が休みだからっていつまで寝てる気なの?」
僕の目を覚ましたのは、母のその声だった。カーテンの隙間から差し込む朝日が部屋を明るく照らし、顔を上げると、脂で霞む視界の向こうに、ドアを開けて顔を覗かせる母の顔があった。
「ご飯は冷蔵庫の中にあるから。昼は適当に何か作って食べなさい。休みだからってゲームばっかりやってちゃだめよ、来年は受験なんだから」
「はいはい……」
「じゃ、母さんもう行くから。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
右手だけ持ち上げてフラフラと振ると、母さんは顔を引っ込めた。数秒後、階段を下りていく足音が聞こえた。ドアが開き、足音は外へと移動していく。
時計を見ると、すでに朝の8時を回っていた。いつもだったらとっくに家を出ていなければ学校に間に合わない時間だが、今は遅刻の心配はない。昨日から春休みを前倒しする形で、学校は休校になっていた。本来なら春休みは3月の20日当たりから始まるが、壁の日めくりカレンダーの数字は3月16日だった。
昨日は遅くまでレンタルビデオ店で借りてきた映画を見ていたせいか、目が覚めても欠伸が止まらなかった。長くなった春休みに喜ぶあまりその日のうちにハリウッドのアクション映画を10本ほどまとめて借り、オールナイトで映画会だと調子に乗ったのがいけなかった。やはり、いつもの生活リズムを崩すべきではない。
当然のことながら、一階のリビングには誰もいなかった。母さんは今出て行ったばかりだし、父さんは僕がまだ寝ている間に仕事のために家を出た。最近は政府が不要不急の外出を控えるよう呼びかけているが、そんなものを守っている人間なんてほとんどいない。父さんは中堅企業の課長で忙しいし、母さんは銀行のパートリーダーだ。休んだり、誰かに代わってもらえるような立場の人間ではなかった。
母さんの言った通り、朝食は冷蔵庫の中にあった。目玉焼きとサラダを取りだし、テーブルまで運ぶ。生の食パンにジャムを塗りつつテレビを点けると、ここ最近どの番組でも出ずっぱりの男の顔が大写しになった。
彼は確か感染症研究の第一人者だったか。名前は覚えていないものの、チャンネルを回せば必ずと言っていいほどどこかの局の番組に出てはコメントを求められたり解説を行っている。彼だけではなく今や多くのウイルス学者や医療機関の関係者が、ニュースや報道番組に出ることを求められていた。女子アナが世界地図が描かれたフリップを、スタジオの中央に置かれたボードに貼る。そのフリップに描かれた世界地図は、アフリカを中心に赤く染められていた。
『アフリカから広がった反社会性破壊衝動症候群の患者が、ついにお隣韓国でも確認されたそうです。山本先生、このウイルスが日本に上陸する可能性はあるのでしょうか?』
反社会性破壊衝動症候群。長ったらしいその名前は、数日前からアフリカを起点に広がっている暴徒たちの病気を表す言葉だった。
ウイルスに感染した人間は理性を失い、凶暴さを増して暴れまわる。中には人を殺すものもいるらしい――――――。らしいというのは、この病気についてまだ詳しいことがほとんどわかっていないからだ。各地で内戦真っ盛りのアフリカ大陸で、暴動が広まっているなんてことは今まで珍しくもなかったからだ。
その暴動が今までとどうやら事情が異なるようだとわかったのが10日ほど前。そしてそれがウイルスに起因するものだとわかったのが5日前だ。中東ではイスラム過激派の台頭によるテロと内戦が、欧米では移民と住民の衝突による暴動が拡大していたため、発生している暴動がウイルス感染によるものなのかそうでないのかの区別が難しかったらしい。
インターネットの動画投稿サイトで一度、感染者とされる人物たちによる暴行の映像を見た。スマートフォンで撮影されたらしい映像はブレまくりの上、画質も荒く男が女性に馬乗りになって殴りつけているくらいのことしかわからなかったが。それでも似たような映像が動画サイトにいくつも投稿されていて、中には人が殺される瞬間を捉えたものもあったらしい。僕も怖いもの見たさで検索したが、その時にはすでに削除されてしまっていた。
結局、今でも僕は外国で何が起きているのかわからないままでいた。それは僕に限らず父さんと母さん、そしてこの国の多くの人々も同じだろう。つい先日政府が感染拡大の阻止のため空港や港湾での検疫強化と大規模な集会の自粛、そして学校の休校を決めたばかりだ。
ひどい結果になるのが目に見えていた期末テストが、延期されることはなかった。その代わりテスト期間終了後は直ちに休校になることが決まり、僕はこうして暇を持て余している。
『今回の政府の対策は少し大げさすぎやしませんかね。新型インフルエンザやエボラの時だって散々騒いだ挙句、大したことは起きなかったわけでしょ? 検疫強化くらいならまだしも、外国の飛行機の乗り入れを制限したり、自衛隊を治安出動させるのは逆に国民の不安を煽るだけなんじゃないですか?』
スタジオに居並ぶコメンテーターの一人が、不愉快そうな顔で言う。画面が切り替わり、駐屯地から出発していく自衛隊の車両の映像が流れる。政府が自衛隊の治安出動を決めたのは、昨日の夜だった。
これから大都市圏に自衛隊を派遣して、治安の維持にあたらせるらしい。欧米では反社会性破壊衝動症候群患者らの暴動に対して軍隊までも投入されているらしいが、未だに鎮圧できていないとのことだった。すでに主要な空港では検疫の強化が行われ、ウイルスの感染が拡大している地域からの航空機の乗り入れは禁止されていた。
対策が後手後手に回ってしまった外国を見て、予防措置的に自衛隊を各地に配置して、万が一暴動が発生した祭に素早く鎮圧するというのが政府の考えらしいが、戦後初の自衛隊の治安出動に反対する人は多い。「軍国主義の復活だ!」と国会や自衛隊の基地の周りでプラカードを掲げて行進する人々の姿が、テレビに映し出される。
『私はそうは思いませんね。むしろここは、鎖国するくらいの勢いで対応策を練らないとだめだと思いますよ』
『鎖国ですか?』
『まあ鎖国とまではいかずとも、日本は周りを海で囲まれていますからね。患者がやってくるとしたら船か飛行機を使うしかないわけです。移動手段の発達によって海外旅行はすぐにどこへでも行けるようになりましたが、逆を言えばこのような時に感染症の患者がすぐに世界各国へ広がってしまう可能性もあるわけです。現に大陸とは海を隔てているイギリスでも暴動の発生は確認されています。アメリカはメキシコとの国境を封鎖していますが、やはり大都市圏での暴動が報告されていますね。もっともこれは以前から続く黒人の差別問題や貧困を原因とした暴動である可能性も捨てきれていませんが』
『すでに日本に患者が来ている可能性はあるのでしょうか?』
『わかりませんが、可能性は高いと思われます。しかしこのウイルスにはまだまだ分かっていないことが多く、潜伏期間がどれくらいなのかすらはっきりしていません。数時間で発症するものならば飛行機や船での移動中に発症しますが、逆に数日から数週間もかかるものであれば知らない間に日本中で感染が拡大することになります。欧米の事例だと、潜伏期間はそこまで長くないように思われます』
『それでは、私たちが行える対策というのは?』
『まず第一にパニックを避けること、次になるべく外に出ないことですね。政府も不要不急の外出はしないように呼びかけていますし、各地で集会の制限や休校などの措置も取られています。国民の皆様には冷静な行動を心掛けていただきたいと思います』
不要不急の外出は避けろ、か。それは無理な話だ。
現に父さんも母さんも仕事のために外出しているし、窓から外を見れば駅へ向かうサラリーマンたちの姿が道路にある。欧米での暴動の拡大で株価は急降下、円が買われユーロが売られて一晩で十円単位の為替レートの変動が起きている。父さんの会社は外国との取引も多く、そのせいで何日か前から激務が続いていた。昨日だっていつもより遅く帰ってきて、今日は早く出て行った。母さんの務める銀行にも、不安に思った人々が預金を引き出しに殺到しているらしい。
それに買い物だってしなければならない。感染防止のための休校なのに、外を遊び歩いている馬鹿たちもいる。僕も昨日遊びに誘われたが、映画を見るために断った。
テレビはいつの間にかお天気コーナーに代わり、現在の渋谷の映像が流れる。渋谷を代表するスクランブル交差点を歩く人々は、いつもテレビで見るのと変わらないくらい多かった。不安に思っている人がいたとしても、大人は外に出て働くしかないのだ。
ま、どうせ大したことにはならないさ。僕は自分にそう言い聞かせると、昨日たっぷり借りてきたDVDを一枚、プレイヤーにセットする。どうせ数週間後からは高校三年生で、受験勉強が始まり休む暇もなくなる。その前に降って湧いたこの休暇を、目いっぱい楽しまなければ。
数秒のロード時間の後、ドラムのリズムと共に、画面にでかでかと20の数字を象った有名な映画会社のロゴが表示される。やがて映画の本編が始まると、ヨーロッパで広がる感染症のことも、将来への不安もすべて頭の中から吹っ飛んでいた。
ご意見、ご感想お待ちしてます。