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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第二部:変革のお話
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第八九話 後悔なんて、あるわけないお話

 どうやら、裕子たちは試験に合格したらしかった。感染者を倒し損ねるという痛恨のミスを犯したものの、そのこと自体について少年が責めたり文句を言ってきたりすることはなかった。村で入手したミニバンに乗って学院に帰った後、少年が出て行ったりする気配はない。


「とりあえず、仮免ってところですかね」


 その言葉を最後に、少年は銃を抱えて宛がわれた寮の一室へと戻っていく。今日一日だけでは判断できなかったということだろう。しかし彼が今すぐ出て行くと言わなかったことに、裕子は安堵していた。




 村で見つけられた食料は微々たるものだったが、少なくなってきていた調味料が手に入ったのはありがたかった。夕食は久しぶりに一杯だけだがご飯がお代わりできるようになったが、村に行った裕子たちに食欲は無かった。礼は他の女生徒に話しかけられても上の空だったし、亜樹にいたっては夕食に手を付けることもなく自室で寝込んでしまっている。


 あんな光景を目にすれば、食欲が失せるのも当然だった。村がどんな風になっていたか、そしてそこで何を見て来たか裕子は生徒たちに語ったが、村に行っていない彼女たちには実感が湧かないようだった。

 少年は今後もあの村に行くと言っている。その度に、新しい生徒を連れて行って外の世界の実情を見せつけるつもりなのだろう。それが正しいのか間違っているのかは、今の裕子にはまだわからない。ただ理解できているのは、世界が本当に変わってしまったということだけだった。


 裕子は薄暗い職員室で一人、自分の椅子に座って窓の外を眺めていた。また、雪が降り出している。といっても粉雪程度であり、積もることもなく明日の朝には綺麗さっぱり溶けているだろう。

 電気の節約のため、職員室の灯りは裕子の机の上に置かれた蝋燭の炎だけだった。オレンジ色の炎が揺れ、遮光カーテンを閉め切った室内に裕子の影を映し出す。小さなオレンジ色の光に照らし出される教務日誌には、まだ何も書かれていなかった。



 突然、職員室の入り口に人の気配を感じた裕子は顔を上げた。薄暗い部屋の中、ライフルを担いだ少年の顔が幽霊のように浮かび上がる。いきなり現れた少年に、裕子は心臓が止まるのではないかと思うほど驚いた。


「先生、こんな時間にこんなところで何やってるんです? もう寝ている時間では?」

「あなたこそ……って、あなたは見張りだったわね。ご苦労様」


 時計の短針はとっくに12を指していたが、眠れる気分ではなかった。少年は今まで屋上で見張りに立っていたのだろう。溶けた雪で、帽子やジャンパーの肩が濡れている。野犬の襲撃があってからは、常に誰か一人が校舎の屋上で見張りに立つことになっていた。


「日誌を書こうとしてたんだけど、中々上手くいかなくて……」

「日誌? 毎日書いてるんですか?」

「ええ、ずっと。この学院に私たちだけしかいなくなってからも、ずっと」


 今年度の数字が表紙に描かれた教務日誌は、既に四分の三のページが埋まっている。残すところ、あと3か月分しかない。しかし来年の4月になっても、新しい教務日誌が裕子に配布されることはないだろう。


「教務日誌って、いつも先生が持ってたあれですよね? 朝の出欠確認とかで開いてる……」

「そうよ。他にも連絡事項とか、その日にあったことを書き留めたりとか」

「それをずっと? 3月から?」


 3月が終わるまでは、去年の教務日誌を使っていた。4月に入ってからは、倉庫にあった今年度用のものを見つけて来て使っている。出欠確認のページには、学院に残った10人の生徒の名前しか記載されていない。そしてそれらは3月からずっと、出席を意味する○印しかつけられていなかった。


「ええ。あなたは無駄なことをって、言うかもしれないけど」

「まあ、そうですね。他の人の習慣をとやかく言うつもりはありませんが。そういえば気になっていたんですが、何でこの学院には先生しか大人がいないんですか? 他にも用務員とか警備員とかがいたはずじゃ? まさか若い先生一人に全部責任を押し付けて、他の人は全員帰ったってことはないですよね?」


 少年が不思議に思うのも当然のことだった。いくら非常時で各生徒を自宅に帰す措置が取られたところで、学院には必ず誰かが残っていなければならない。教師になりたての裕子一人にその役目が押し付けられるはずもないし、これだけの規模の私立校だと必ず警備員や用務員もいる。裕子は笑って答えた。


「それが、帰っちゃったのよ。私一人を残して、他の先生も用務員の人たちも皆」

「逃げた、ってことですか?」

「そう言いたくはないけど、そうなるわね。日本で感染が広まってからも何日かは、何人か用務員や警備員の人もいたの。他にも先生が一人、私よりもベテランの。でもある朝気が付くと、全員いなくなってた。駐車場にあったはずの車は、一台も無くなってた」

「置いて行かれたんですか?」

「そうね。あの人たちにだって家族はいるし、こんな状況だから自分の家に帰って親しい人たちの安否を確認したいって気持ちはわかるわ。いくら給料をもらっているとはいえ、こんな状況で仕事を続けろとも言えないし。だから、私はあの人たちを責められない。そりゃ、車を持ってかれたのには苦労したけど」


 おそらく残っていた用務員やもう一人の教師が裕子に声を掛けなかったのは、足手まといになると判断したからだろう。学院に残されていた車はどれも教師や用務員の自家用車であり、学院に残った生徒全員を乗せられるわけではなかった。あの時学院に残っていたのは裕子を含めて6人だが、裕子は朝になるまで他の大人たちが学院を出て行ったことに気づかなかった。


 そんな計画があることは聞かされていなかったし、もし知っていたら絶対に抗議しただろう。だから彼らは裕子を置いていったのだ。

 ある意味出て行った人々は、裕子たちよりも事態の深刻さに気付いていたのだろう。何とかなると楽観視していた裕子たちと違って、既に世界は変わってしまったことを理解していた。この先給料が払われることはないだろうし、家族の安否も確認できない。だったら生徒たちのことを置いて家族に会いに行こうとするのは、当然のことだった。


「でも、本当のことを言えば私も一緒に連れて行ってもらいたかった。だって私はまだ教師二年目なのよ? それが10人の生徒の命を預かれって……そんなこと出来るわけないじゃない。時分のことをどうにかするのに精いっぱいなのに、他の子の面倒まで見きれないわよ」

「後悔、してるんですか?」

「正直に言えば、ね。でも私は逃げ出すわけにはいかなかった。私までいなくなったら、生徒たちは誰も頼る人間がいなくなってしまう。だから私はこうやって、今もこの学院で教師を続けているの」


 無論、今までこのことを生徒たちに話したことはない。生徒たちは当初他の大人がいなくなったことに不安になっていたものの、裕子が残っていたことで落ち着くことが出来た。生徒たちは皆、裕子が自分の意志でここに残り、自分たちを守ってくれているのだと信じている。


「本当はそんなわけないのにね。他の人の命と自分の命だったら、自分の方を優先するに決まってるじゃない。でも皆は知らないの。私が素晴らしい先生だと思ってる。自分の命や家族も顧みず、生徒のために尽くす先生だと思ってる。本当は逃げ出したかったのに。実家に帰って家族と一緒にどこか安全な場所に逃げたかったのに」

「自分の命を優先するのは、間違ってないと僕は思いますけど」

「そうね。でも、そのことを言ったら生徒たちはもっと不安になるわ。だから私は『いい先生』を演じ続けなければならない。この日誌をつけているのだってそのためよ。もしも万が一の事態があったとして、生徒たちが皆死んでしまっても、私は皆を守るために努力したって言い訳の証明をするために」


 無論、このことも生徒たちには秘密だった。こうやって自分の本音を吐き出すのは、実に9か月ぶりのことだった。

 裕子は他の大人たちがいなくなってから、自分の本音を隠して生きなければならなかった。自分を尊敬の眼差しで見てくる生徒たちと、自分の本音に板挟みになっていた。こうやって正直に本音を言えるのは、多分目の前の少年が自分の生徒ではないからだろう。過酷な外の世界を生き延び、人間の汚い部分を目の当たりにし続けてきた彼ならば、自分の気持ちも理解してくれるのではないかと思ったからだ。


「あの時、学院を出て行っていればこんな思いは抱かずに済んだかもしれない。自分を偽らずに生きられたかもしれない。後悔してるわ、あなただってそうでしょ? あの時ああしておけばって、思うことはいっぱい……」

「後悔なんて、あるわけないじゃないですか。もしも間違った選択をしていれば、僕は死んでいたはずだ。でも今もこうやって生きているってことは、僕がやってきた全ては正しい選択だったんですよ。先生が学院に残ったのだって、正しい選択だ。外に出て行ったところで家族に会える保証も、それどころか生きて家族の元に辿り着ける可能性すら低い。だから先生がここに残ったのは正しい選択であって、それを後悔すべきじゃない。現にこうやって生き延びることが出来ている」

「あなたは、何も後悔していることはないの?」


 少年は頷いたが、裕子は嘘だと直感した。自分の選択を後悔しない人間はいない。

 少年の言う通り、学院に残ったのは正しいことだったのかもしれない。学院には食料の備蓄や発電設備があり、外部と隔離されているおかげで感染者に襲われたこともない。だが、正しい選択をしてもこうやって色々と思うことはある。少年は自分がやってきたことは全て正しかったと言ったが、それでも裕子は彼が嘘をついていることに気づいた。


 手が届かないブドウを酸っぱいものだと思い込んで、ブドウを諦めた自分を正当化した狐のように、彼も自分の生存を大義名分に掲げ、全てを正当化しようとしているのだ。選択を誤らない人間などいない。

 だが彼は生き延びるために、全てを正当化するしかなかった。そうしなければ心が壊れてしまうから。生き延びるためには、多くの大切なものを捨ててこなければならなかったから。そしてその捨ててしまったものの中には、倫理観や禁忌といったものも含まれているのだろう。

 その重みに押しつぶされてしまわないように、残酷な決断でも正しいものだと少年は正当化しようとしているのだ。




 そして少年も、後悔という単語に心を乱されていた。

 今最優先の目標は、自己の生存。それを達成するためならば、あらゆる手段が正当化される。物を盗むことも、人を傷つけることも、無抵抗の相手を殺すことだって正しい選択となる。

 しかし最初からそうすべきだと思っていたわけではなかった。昔は少年にだって人並みの……いや、ヒーローに憧れる彼には人並み以上の正義感や倫理観というものがあった。だが生きるために、それらを捨て去るしかなかっただけのことだ。

 

 それを後悔することはない。だが気を抜くと、考えてしまうのだ。自分がやってきたこと、今やっていること、そしてこれからやろうとしていることは、本当に正しいことなのかと。

 その度に少年は思う。僕が生きている以上、僕がやってきたことは全て正しいことなのだ。間違った選択の先に待っているものは死であり、多くの人々が間違った選択をした結果死んだ。だから生きている僕がやったことは、全て正しいのだ。


 

 少年は窓へと目を向けた。カーテンに遮られた窓の向こうでは、今も粉雪が舞っているのだろう。そして全てが終わってしまったあの日の夜も、今のように粉雪が舞っていた。

 後悔――――――心の奥底に仕舞いこんだはずの記憶が、ふと顔を覗かせる。思えば最初の選択肢を突き付けられたのも、あの夜のことだった。少年の思惟は肉体を離れ、全てが終わり、全てが始まってしまった9ヶ月前のあの夜へと記憶を遡っていく。

御意見、ご感想お待ちしてます。


なお次回からはしばらく主人公の回想が始まり、その間主人公の一人称視点に戻る予定です。

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