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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第二部:変革のお話
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第八八話 堕ちるお話

 家を数件回ったところで、第一回目の遠征は終わりになった。初めて見る惨い死体の連続に、亜樹たちが耐えられなくなったからだ。三人とも終いには胃液しか出なくなるほど吐き、そのせいで既にふらふらになっている。これ以上連れまわしても意味はないと判断した少年は、一旦車を停めた村の外れまで戻ることにした。


 人口が700人で一世帯当たり二人と考えても、単純に計算すれば三五〇戸の民家がこの村にあることになる。過疎化が進んでいるせいで一世帯当たり一人というのも珍しくないだろうから、実際の民家の数はもっと多いだろう。この辺りは村の中心部から離れているせいで住宅の数は少ないが、さらに進んで行けば民家はもっとあるに違いない。


 少年はこの村を、万一の時の一時的なシェルターとして利用することを考えていた。一時的な、というのは、長期間滞在できる状態ではないと考えたからだ。いくら過疎化が進んだ村とはいえ、学院の敷地に比べれば広すぎる。もしも感染者や暴徒が村に侵入しても、気づくのは困難だろう。それに電気やガスも通っていない。川が通っているから水の心配はないし、多くの家は古く風呂は昔ながらの薪を燃やして沸かす方式だ。

 

 それでも、この村には長期間滞在できるほどの食料はなさそうだった。田畑は管理されなくなって久しく荒れ果てているし、住民たちが慌てて逃げる際に持ち出していったのか、食料もほとんど残されていない。素人の集まりが荒れて雑草だらけの畑を近代的な農機具も無しに耕し、作物を育てようとしたところで、収穫は微々たるものだろう。


 村にいくつかあるであろうスーパーや商店は、中心部まで行かなければ存在しない。人が多かった場所には当然感染者もいるし、実際に今日も少年は感染者を一体処理した。あと何体この村に感染者がいるかわからないのであれば、ここに住み続けることは出来ない。


 安全が確認された民家には、目印を残していく。感染者にドアを開けられるような知能はなく、入り口さえ塞いでしまえば感染者が家屋に浸入することはない。無論、この村が感染者に襲われた時にドアが破られた家もいくつかあったが、その場合は玄関の胸の高さにガムテープを張って目印にする。もしも感染者がふらっとやって来て家の中に入ろうとしても、張り巡らされたテープを気にすることはない。もしも玄関に張っておいたテープが無くなっていれば、家の中に感染者がいるという目印になる。


 車も一台、乗って帰ることにした。現状、学院にある車は少年が乗って来たワゴン車だけであり、万が一の際に学院を離れることになっても、全員は乗れない。それに車が何台かあった方が色々と捗るだろうという裕子の主張には、少年も同意見だった。


 しかし半年以上も放置されていたせいか、動きそうにない車が大半だった。そもそも新しい車なんか見当たらず、どれも購入から十年は経過しているのではないかと思うような古いモデルばかりだ。最初に訪れた民家にあった軽トラも表面には錆が浮き、タイヤが劣化してしまったのかパンクを起こしていた。ずっと動いていなかった上に寒い期間が続いたためか、バッテリーも上がってしまっている。

 それにせっかく車を見つけても、肝心のキーが見つからないということもあった。流石にキーなしでエンジンを始動させる方法は誰も知らず、キーがあった車を選んで乗るしかなかった。


 それでも田舎暮らしには車が必要ということで、一つの家に一台は車が置いてあった。その中から程度の良い乗用車を一台選び出し、整備道具を載せたワゴン車に乗って戻ってくる。乗用車は7人乗りのミニバンで、無理矢理詰め込めば10人は乗れるだろう。

 無論、放置されていたためバッテリーは上がりきっていた。それ以外に特に問題はなく、オイル漏れなども起きてはいない。少年と裕子は自動車教習所の教本を片手に、ワゴン車のバッテリーとミニバンのバッテリーをブースターケーブルで繋ぐ。


「じゃあ先生、キーを回してください」


 ミニバンの運転席に乗り込んだ裕子がキーを回す。セルモーターが回り、何度か試すとようやくエンジンがかかった。ブースターケーブルを外し、ワゴン車の中に放り込む。村の中心まで行けばガソリンスタンドがあるらしいので、そこで給油と予備のバッテリーや電解液なども確保しておく必要があるなと少年は思った。


 ワゴン車には少年だけが乗って帰り、後の三人はミニバンに乗ってもらう予定だった。やはり他の人間を同じ車に乗せていると、どうも落ち着かない。可能性は低いとはいえ、武器を奪われたらと思うと安心できなかった。ミニバンの燃料は十分だし、エンジンがかかっている分には今のところバッテリー切れの心配もない。裕子たちが少年の提案に同意し、荷物を持って立ち上がったその時、一体の感染者がふらふらと道路の向こうから姿を現した。


 薄手のシャツに身を包んだ女の感染者は、どうやら車のエンジン音につられてここまで来てしまったらしい。素早く身を低くした少年は、家の陰で休んでいた亜樹と礼に動かないよう指示を出した。感染者はまだ少年たちの姿を目視していないせいか大人しいが、姿を見せればあっという間に咆哮を上げて仲間を呼び寄せようとするだろう。


「さて先生、出番ですよ」

「出番って……」

「さっきは僕が感染者を倒した、今度は先生の番だ」


 そう言って少年は、裕子に鉈を差し出した。農家を漁っている時に見つけた鉈は、刃こぼれもなく頑丈に作られている。少なくともバールよりは威力があるだろう。


「このまま逃げることって出来ないの? 姿を見せずに車に乗り込めば……」

「無理ですよ。今はまだ僕らが見つかっていないから奴も大人しいけど、車が動き出せば奴は必ず僕らの存在に気づきます。そうなった場合、他にもいるかもしれない感染者を呼び寄せて、あいつは走って学院まで追ってきますよ? それでもいいなら今すぐ車に乗って帰ってもいいですけど」


 感染者は音に釣られて寄って来るが、それだけでは咆哮を上げたりしない。人間を見つけたり、もしくは人間が動かしているものを見つけた途端に吼えて仲間を呼び寄せるのだ。もしも見つからないようにこっそり車に乗り込んだとしても、走り出した瞬間に感染者は車の中に人が乗っていることに気づく。


「さあ、早く奴を倒してきてくださいよ先生。それとも先生は、危険で嫌なことは全て僕に押し付けて、自分たちは安全な場所でのほほんと過ごしたいとでも思ってるんですか?」

「そんなこと、思ってるわけないじゃない」

「じゃあ早くやって来てください。先生がやらなきゃ、あの二人が殺されるかもしれませんよ?」


 そう言って少年は、民家の陰で蹲る亜樹たちを指差した。今はまだ見つかっていないが、もしも感染者がこちらに向かってきたら、体力を消耗した二人は逃げ切れるかどうか怪しい。

 それでも鉈を取ろうとしない裕子に、少年はいい加減頭にきた。


「やれよ、先生。あんたより年下の僕だってやりたくもない殺しを何度もやって来たんだ。大人のあんたが今さら嫌ですやりたくありませんなんて言っても通用しないんだよ。先生は生徒を守りたいんだろう? だったらやれよ。やらなきゃやられるんだよ。あんたが戦わなきゃ、生徒が殺されるんだぞ」


 豹変した少年に裕子は怯えたような顔を見せたが、少年は迷わず裕子の手に鉈を押し付けた。裕子は少年の顔と鉈を交互に見比べ、ようやく決心がついたらしい。鉈を取って立ち上がった裕子に、少年は言った。


「万が一の時は援護します。倒す時は背中から、感染者の目を見ずに」

「わかったわ……やってみる」


 裕子は足元に落ちていた小石を拾うと、感染者の目掛けて放り投げた。弧を描いて飛翔する小石は感染者の頭上を越え、その背後に落下した。アスファルトに小石がぶつかる音は意外と大きく響き、感染者がばっと背後を振り返る。その隙に裕子は車の陰から飛び出すと、手近な電柱の陰に隠れた。まだ、見つかってはいない。


 もう一個小石を、今度は田んぼの方へと投げる。道路を見回していた感染者は物音がした田んぼの方へと勢いよく走って行き、首を左右に振って周囲を見回した。完全に、背中はがら空きだった。

 手にした鉈に目を落とす。背後から鉈を首筋に振り下ろして倒す。それだけでいい。なのに身体は石になったかのように動かない。


 いや、やらなければいけないんだ。裕子はそう自分に言い聞かせた。

 世界は変わってしまったのだ。以前なら容認できなかった暴力も、今は自分の身や生徒の安全を守るためには容赦なく行使しなければならない。110番を押しても警察は来ないし、法律も自分たちを守ってはくれない。少年の言う通り、やらなければやられるだけだ。


 そして目の前にいるのは、理性も感情も失った感染者だ。彼らには話し合いは通じないし、人間を殺すことに何のためらいもない。そして誰かを殺したとしても、良心の呵責に苛まれることも後悔することもないだろう。感染者は人間を餌としか見ていない。他の野生動物と同じように、ただ単に生きるために食うだけだ。そこには何の感情も存在していない。


 ならば自分たちも、弱肉強食の自然の定理に身を置くしかないのだ。人道や倫理がどうのこうの言っていられる時代はとっくに終わった。生きるためには、襲い掛かってくる脅威を全て排除しなければならない。教え子たちを守るためにも、自分が生き延びるためにも、そうしなければならないのだ。


 

 足音を立てないように気をつけつつ、裕子は感染者に背後から近づいていく。緊張で心臓が、文字通り口から飛び出るのではないかと思うほど激しく拍動していた。

 意を決して、足を一歩前に踏み出す。踏みつけられた雑草が音を立て、それに気づいた感染者が振り返りかけた。だがその時には、既に手にした鉈を思いきり感染者の首筋目掛けて振り下ろしていた。


 しかし勢いが弱かったのか、鉈は感染者の首筋を抉り、血を噴き出させるだけに留まった。それでも突然背後からの一撃を食らった感染者はその場に倒れ込み、裕子はトドメをさそうと両手で握った鉈を振りかぶる。しかし、感染者と目が合ってしまった。


 血走った眼は、明らかに裕子のことを敵として捉えているようにしか見えなかった。それでも裕子は突然、この人は一体どんな人間だったのだろうと思ってしまった。

 全員が感染者として生まれてきたわけではないのだ。この人も感染する前は、きっと普通に暮らしていたに違いない。家族を持ち、日々の出来事に一喜一憂する、どこにでもいる普通の人。歳も自分と、さほど変わらないだろう。OLか、もしかしたら自分と同じように教師をしていたのかもしれない。


 この人はなぜ、感染者になってしまったんだろう。この人は自分が感染した時、何を思ったのだろう? 本当に人間としての感情は残っていないのだろうか? もしかしたら衝動を抑えきれないだけであって、本当は人間を襲いたくなんてないんじゃないか?


 目の前の感染者を倒さなければならないのに、裕子の手は止まってしまっていた。その隙に感染者はバネ仕掛けのように勢いよく上半身を起こすと、裕子の足に手を伸ばす。女の感染者が自分を食らおうとしているのはわかっていたが、それでも裕子の身体は言うことを聞かなかった。



 突然、どん、というくぐもった銃声と共に、感染者の額に穴が開いた。指が入りそうな穴から血が流れ出し、白目を剥いた感染者が裕子に手を伸ばした姿勢のまま、仰向けに倒れる。

 振り返ると、銃口から硝煙を立ち上らせる短機関銃を構えた少年が、こちらに歩いてくるところだった。少年が手にした短機関銃、その銃口に取り付けられた減音器代わりのペットボトルは、底の部分が大きく裂けていた。どうやら、助けてもらったらしい。一瞬のうちに様々な思考に満たされた頭で、裕子はぼんやりとそんなことを思った。


 少年はたった今自分が撃ち殺した感染者の死体をブーツの爪先で軽く蹴り、完全に死んだことを確認した。そして呆けたままの裕子を一瞥し、「だから目を見るなと」と言った。

 彼が感染者に注ぐのは物を見るような冷たい視線であり、裕子を見る目には明らかに失望の意志が混じっていた。私も戦い続けたら、彼のようになるのだろうか。裕子は車に向かって歩き出した少年の背中を眺めることしか出来なかった。

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