第八七話 遠慮なくやるお話
胃の中身が空になるのではないかと思う勢いで、その後もしばらく亜樹は吐いた。こんなことなら朝食を抜いておけばよかったと本気で思う。口の中が胃液で酸っぱい。
裕子は軒先にへたり込んで放心状態だ。礼はどうにかいつものペースを取り戻そうとしているようだが、それでも顔は引き攣ったままだ。この中で平然としているのは、少年ただ一人だった。
亜樹も死体くらいなら見たことがある。中学生の時に母が病気で死んだ時、そして親戚の葬式に呼ばれた時にも死体なら見た。だけど今見たあれは、それらと同じように扱うことは出来なかった。
何せ死んだ人間が腐り、白骨になるまでそのまま放置されていたのだ。誰にも弔われることなく、ずっとこの場所に。尊厳も何もない、あれではただの物と同じではないか。あんなの、人間の死に方じゃない。死んだ人間はもっと丁重に取り扱われ、埋葬されるべきであって、あんな場所にずっとほったらかしにされていいものではない。
「あれは春先に死んだ奴だな、服が春用のだ。パンデミックの後も、この村はしばらく無事だったんだろう」
そう言って玄関から出てきた少年が手にするリュックは、中身が膨らんでいるように見えた。顔を上げた亜樹に「これ、持ってて」と、少年がリュックを押し付ける。中に入っていたのは缶詰や水のボトル、そして救急箱が丸々一つ。
「……よく墓漁りなんて出来るね」
皮肉のつもりか、礼が言う。しかし少年はその言葉に顔色一つ変えることなく、「慣れてるから」と答えた。
「……先に一言くらい、教えてくれてもいいじゃない。台所にあるのが死体だって。そうすれば私たちだって、心の準備が出来たのに」
「心の準備? そんなもんしてどうするんですか? いいですか、今は外に死体がゴロゴロ転がってるような状況なんです。感染者に殺されてそのまま放置され、犬に食われ、蛆に集られ、カラスに啄まれてバラバラになった挙句腐ったような死体がそこらじゅうにある街だって珍しくない。大体、生きている人間より死んだ人間の方が多いんだ。それなのに一々死体如きで心の準備を必要としているんじゃ、いつまで経っても動けませんよ」
少年が裕子に向けて放った言葉に、流石に亜樹も頭にきた。
「あんた、流石に今のはやり過ぎじゃないの? 確かにあんたの言う通り、今じゃあっちこっちに死体が転がっているのが当たり前の光景なのかもしれない。だけど先生の言う通り、心の準備だって必要だと私は思う。世界がこうなってしまったんだって、覚悟を決めることが……」
「覚悟? 違うね。時間を与えればあんたらは、死体のことを考えないようにするだけだっただろう。なんで死体がここにあるのか、どうしてこんな状態になるまで放置されていたのか、肝心なことも考えず、ただただ死体に怯えるだけだ。見たくないものは見ない、考えたくないことは考えない、そうするのが人間だ。僕が猶予を与えたところで、目を逸らすだけだっただろう。あんたらが学院の外の現状を見たいというから連れてきたんだ、これが今の世界だよ。文句があるなら僕にではなく、世界に叫んでくれ」
痛いところを突かれたような気がした。もしも少年が事前に「ここに腐乱死体がある」と言っていたのならば、亜樹はその死体を見ないように、もし見てもショックを受けないように別のことを意識することで精一杯だっただろう。人が殺されたという事実や、その死体を誰も弔ってくれないほど混乱した社会になってしまったのだということを、ついぞ考えなかったに違いない。
確かに少年の言っていることは正しい。もしも本当に死体があちこちに放置されているのが珍しくないのであれば、この先自分たちは多くの死体を見ることになるだろう。その度にぎゃーぎゃー騒ぐわけにはいかないし、目を逸らし続けることも出来ない。
「もう死体なんて日常を彩るトッピングみたいなもんだ。電柱や信号と変わらない、どこにでもあるモノ。そう、モノだ。元人間じゃない、ただ異臭を放つ肉の塊とでも考えればいい」
「そんな言い方、しなくてもいいでしょう――――――!」
「じゃあどうするんです先生。一つ一つ死体を埋葬していきますか? お坊さんでも呼んで葬式でもやるつもりですか? もっとも、今も生きてるお坊さんがいるとは思えませんけど。それが出来ないのであれば、死体を死んだ人間として取り扱うのは止めた方がいい。一々これは人間だったものだと考えていたら、頭がおかしくなりますよ」
母が死んだ時は、葬式を出せた。だけどこの社会状況じゃ、それも叶わないだろう。葬儀を待つ死者の列があったら、それこそ地平線の向こうまで延々と続いているに違いない。
確かに彼の言っていることは正しい。社会がこうなってしまった以上、もう昔のように死んだ人間を扱うことは出来ない。だけど亜樹はそれでも、こんなの間違ってると大声で叫びたかった。
少年の言葉は皆の反感を買うものだったが、それが正しかったとすぐに亜樹は身を以って知ることになった。一通り家を調べ終え、皆が立ち直るのを待って少年は次の家へと向かう。隣の家は数十メートル離れた田んぼに囲まれた場所にあり、亜樹たちは農業用水が供給されず乾いたままの田んぼを横断して次の家へと向かう。
水が引いた田んぼは、他と同じように雑草で覆われている。生い茂る雑草を踏み分けながら進んでいると、靴の裏からぱきりと何かが割れる乾いた音がした。立ち止まって足元を見た亜樹は、文字通り心臓が飛び出るのではないかという思いを味わった。
亜樹が踏みつけたのは、人間の頭蓋骨だった。土と雑草に半ば埋もれ、仰向けになった頭蓋骨の右半分が粉々に砕けている。靴底をかろうじて逃れたもう左半分の空洞と化した眼窩が、まっすぐ亜樹の顔を向いていた。
「どうした、止まるな」
「ほっ、ほほほほほねほねほね……」
「死体如きで一々大騒ぎするなとさっき言ったはずだけど。大方野犬か何かがここに持ってきて、それから捨てていったんだろ」
何度も言わせるなとばかりに、少年は面倒くさそうな顔をしている。
頭蓋骨以外の部位は、少なくとも周囲には見当たらなかった。もしかしたら残りは土の下にでも埋もれているのかもしれないが、確かめる度胸は既に亜樹にはなかった。頭蓋骨を踏み砕いてしまった嫌な感触と音が、今も残っている。
裕子は今にも気絶しそうな様子だった。礼も顔が引き攣り、いつもの飄々とした笑顔はどこかへ行ってしまっている。何もかも投げ出して、今すぐ帰りたい気分だった。偵察隊に志願などするんじゃなかった、心からそう思った。
この人は男だったのか、それとも女だったのか。骨になってしまった今では、それすらわからない。大きさから見て子供ではなさそうだが……。
この人の遺体はどうしてこんなところにあるのだろう。少年の言う通りどこか別の場所で殺されて、野犬か何かがここまで持ってきてしまったのか。それともこの場所で感染者に殺されて、他の部分は地面の下に埋もれてしまっているのではないか。そんなことを考えだすと、亜樹は自分がやったことがいかに恐ろしいことなのか実感した。
何せ遺体を踏みつけ、損壊させてしまったのだ。丁重に扱わなければならないはずの遺体を。この人が生きていたら、どう思うだろうか。いや、そもそもこの人は一体どんな人物だったのか。死ぬ時は何を思ったのだろうか――――――。
「考えるなって言っただろ」
気が付くと、目の前に少年が立っていた。そんなことに気づけないほど、亜樹は深く考え込んでしまっていたのだ。
確かに、彼の言う通りだった。死体を見るたびに一々その人がどんな人間だったのか、どんなふうに死んだのか、最期に何を思ったのか、そんなことを考えていては気が狂ってしまう。
死体は、あちこちに転がっていた。
田んぼに囲まれた家には、死体は無かった。代わりにバケツ一杯分はぶちまけたのではないかと思うほどの血の痕と、内側から何かが飛び出していったような大きく割れた窓ガラスがあった。
その奥の家では、二つのバラバラ死体があった。死んだ後、さらに野犬や野良猫に食われたらしい。死体は男女の区別がつかないほどに、酷く損傷していた。
何度も吐いたせいで、既に亜樹の胃の中は空っぽだった。当分、肉は食べられないだろう。
礼も嘔吐こそしていなかったが、既に限界が近いようだった。反面、裕子は落ち着きを取り戻し始めているらしい。感覚が麻痺してしまったのかどうかはわからないが、今の亜樹にとっては頼れる人間がいるだけありがたかった。裕子は亜樹と礼を叱咤激励しながら、ずんずん村の奥に突き進んでいく少年の後をついて行く。
4軒目の家が見えてきた頃になって、突然前を歩く少年が立ち止まった。左手を挙げ、『止まれ』とジェスチャーする。
「感染者だ。大きな声は出すな」
感染者、その言葉に亜樹は息を飲んだ。今まで画面を通してでしか見たことがなかった存在、世界をこんな地獄に陥れた元凶が、遂に自分たちの前に現れたのだ。
その場にしゃがみ込むと、生い茂る雑草が亜樹たちの姿を隠してくれた。50メートルほど先に見える、広い庭を持つ日本家屋。扉が開いたままのその玄関から、一つの人影が姿を現した。遠目には、酔っぱらって千鳥足の男にしか見えないが……。
「あれ、本当に感染者なの? 生き残ってる普通の人じゃなくて?」
「こんなクソ寒い時に、半袖で外をふらふら歩き回ってる奴がいるわけないだろ。それに普通の人間なら、足元に転がってる死体をまずは片付ける」
少年の言う通り、軒先をうろうろしているその人影は、真冬だというのに半袖のシャツを着ていた。そして玄関には、地面に突っ伏したまま動かないもう一つの人影。ここからでは下半身しか見えないが、それが死体であることは亜樹にもわかった。
少年が双眼鏡を手渡し、裕子から順番にその人影を観察していく。亜樹の番が来たので、受け取った双眼鏡を覗いた。
こちらに背を向けている分には、普通の人間に見えた。やせ我慢をしているか、あるいは寒さに強い人が鍵を無くして締め出され、玄関先に途方に暮れている。そんな風にも見えるだろう。だが次の瞬間、人影がこちらを振り返る。
その目は真っ赤に染まり、口の端からは血の混じった涎が垂れている。肌も心なしか、青白く見える。普通の人間ではないと、亜樹の直感が告げていた。風に乗って、唸り声が聞こえてくる。
「ちょうどいい機会だ、今から僕が感染者の倒し方を実演してこよう」
そう言って斧をホルダーから引き抜き、立ち上がりかけた少年の腕を裕子が掴む。
「なんです先生? まさかあれを倒すなとか言いませんよね? 生憎僕は、汝の敵を愛せるほど心は広くないんだ」
「そうじゃないの。あれ、本当に普通の人間じゃないのよね?」
「でしょうね。服装から見て、あれが感染したのは夏頃だと思います。逃げる人間を追ってこの村に来たか、それともどこかで咬まれてからここに来て、そして発症したのか。どっちにしろ、あれが普通の人間じゃないのは先生にもわかりますよね?」
寒い中半袖で、足元の死体に目もくれず軒先を徘徊し、血の混じった涎を垂れ流す人間はいないだろう。どこからどう見ても、あれは普通の人間ではない。
「そんなに気になるなら、先生が行って確かめて来たらどうです? もしもあれが感染者だった場合、先生は死にますけど」
「いや、そんなつもりで言ったんじゃ……」
「だったら大人しく僕の言う通りにしてください。もし他にも感染者がいたら、先生たちにも倒すのを手伝ってもらいますから」
亜樹たちが武器を持ってきたのは、単に自衛のためではなかった。感染者を倒すことで、自分たちがお荷物にならないことを証明してみせる。それが今回、少年の偵察に同行した理由でもある。
「後ろから忍び寄って、首に一撃。倒れたところをトドメ。覚えてますよね? じゃ、見ておいてください」
そう言うと少年は今度こそ、道路脇に生い茂る雑草の藪から抜け出し、足音を立てずに民家に向かって歩いていく。敷地を囲む背の低い柵の前まで移動すると、感染者の背後から小石を放り投げた。
放り投げられた石は、感染者の数メートル先にある藪の中に落下した。以外に大きな音が響き、感染者が唸り声と共に藪に走り寄る。そして獲物を探す動物のように首を左右に振って周囲を見回しているところに、背後から少年が近付いていく。
それからは、あっという間にことは済んだ。
まず少年は亜樹たちに言った通り、大きく振りかぶった斧の刃を勢いよく感染者の首筋に振り下ろした。鋼鉄製の鎖をも切断する軍用の斧の刃が深々と感染者の後頭部に突き刺さり、身体から力が抜けて倒れこんだ感染者の頭に、少年がトドメの一撃を振り下ろす。ざくっという、スイカを割るような音が聞こえてきた、ような気がした。
感染者の身体が一度大きく痙攣してから、動かなくなる。その身体の下に、真っ赤な血だまりが広がっていく。
「ね、簡単でしょう?」
戻ってきた少年は、開口一番そう言った。返り血を頬に浴びたその瞳には、やはり何の感情も見いだせなかった。
御意見、ご感想お待ちしてます。