第八五話 お出かけするお話
ぱん、という小さな乾いた破裂音が校庭から聞こえて来て、寮で着替え中だった亜樹はカーテンを開けて外を見た。校庭の中心に停められたワゴン車のすぐ傍で、短機関銃を構えている少年の姿が見えた。その銃口の先、20メートルほど離れた場所には、机の上に並べられた空き缶が置かれている。その内の一つは途中から真っ二つに引き千切られ、大きく破損していた。
再び、銃声が響く。今度はさっきよりも大きく銃声が聞こえたような気がした。机の上に並んだ空き缶は、微動だにしない。弾は外れたようだ。
「あれ、先輩まだいたんですか? もうそろそろ出発の予定じゃ?」
部屋のドアが開き、一緒に暮らしている葵がやって来た。その言葉で亜樹は、慌てて着替えを再開した。制服から動きやすいジャージに着替え、伸ばした髪をゴムで束ねる。練り辛子みたいな色のジャージはダサいということで有名だったが、生憎今はこれ以上に動きやすい服は持っていなかった。
「今撃ってるの、MP5ですね。警察の奴って言ってましたけど」
「銃なしで大丈夫なの? 私たちがいない間に何かあったら……」
「どの道、訓練してなきゃ銃なんて当たりませんよ。それに隊長殿がいなければ、どっちみち私たちは終わりです」
「隊長殿?」
「あの人ですよ」
そう言って葵は外を指差す。校庭の少年は短機関銃から弾倉を外し、机と的代わりの空き缶を片付けはじめていた。
「この前は軍曹殿って言ってたよね?」
「でも今回は隊長でしょう? そっちの方がいいと思って」
「隊長ね……確かに隊長だけどさ」
この学院に留まり続けるか否かを見極めるために、少年は生徒たちを一旦外へ連れ出すことを提案した。元々近くの村を偵察する予定があり、それに生徒たちが同行し、言う通りに行動出来れば滞在延長を考えても良いという。
上から目線のその提案には反発もあったが、選択肢は無かった。野犬ですら銃を持たない生徒たちは対処が困難だったのに、あれが感染者や敵意を持った暴徒たちだったら到底太刀打ちできない。銃を持ち、戦闘経験が豊富な少年には、何としてもいてもらいたいというのが生徒たちの本音だった。
結局、偵察には教師の裕子と亜樹、そして礼がついて来ることになった。他の生徒たちは学院で待機だ。野犬の一件があってからバリケードの強化や武器の作成が行われているものの、また同じことがあったら防ぎきれるかどうかわからない。学院に残る生徒たちに銃を渡してくれないかと裕子は頼んだようだが、少年は断った。訓練してないのなら当たらないので意味がないというのがその理由だったが、本心ではまだ自分たちを信用していないのだろうと亜樹は理解していた。
癪だったが、今は彼の言う通りにするしかない。生殺与奪権を他人、それも同い年の男子に握られているのは気に食わないが、一方で彼がいなければかなりマズイ状況になることもわかっている。今まで学院で平和に暮らしていた亜樹たちは、ロクに戦い方も知らない。外がどうなっているのかも、少年の話でしか知らないのだ。
だから今回の偵察は、生徒たちにとっても転機になるだろう。外の世界の現実をその目で見て、変わってしまった世界で生き延びる術を身に着けなければならないのだ。
亜樹が校庭に向かうと、既に今回の偵察に同行する裕子と礼がやって来ていた。裕子は生徒たちを束ねる教師として、礼は三年生なので選ばれている。佐久間も立候補していたが、三年生が全員いなくなるのはまずいだろうということで、今回は残ることになった。
亜樹も含めて三人とも、各々武器を持ってきていた。といっても少年はやはり銃を貸してくれず、持っているのは学院にあった適当なものばかりだ。亜樹は金属バット、礼は鉄パイプ、裕子はバールと貧弱な装備だが、襲われた時に素手で戦うよりはマシだろう。
そんな亜樹たちとは対照的に、重武装した少年が的の片付けを終えて戻ってきた。チェストリグと呼ばれる弾薬や装備品を携行するための胸掛け式の弾帯を身に着け、レッグホルスターには自動拳銃が収まっている。手には先ほどまで撃っていた短機関銃に、腰にはホルダーに入ったソードオフショットガンが下がっていた。
まるで歩く武器庫だな、と亜樹は思った。それと同時に、これほどの武装をしなければロクに外も出歩けない世界になってしまったのだということを理解する。少年は裕子に車のキーを渡すと、「運転、できますよね」と尋ねた。
「一応私も運転は出来るよ。アメリカに留学してた時、現地で免許は取ったから」
礼が言った。外国では日本よりも免許を取れる年齢が低く、礼のように現地で運転方法を覚え免許を取った人間もいる。「そうか、でも日本じゃまだ運転は出来なかったんだろ」と少年は答え、改めて裕子に車を運転するよう頼んだ。亜樹としても、日本じゃ年齢に引っかかって運転が出来ず腕が鈍っているであろう礼よりも、裕子の運転する車に乗りたいと思った。感染者や暴徒にやられる前に、事故であの世行きという事態は絶対に避けたい。
「わかっていると思うけど、外は危険に満ち溢れている。僕の指示通りに動け、出なきゃ死ぬぞ。指示に従わない奴は、放置していくから。死のうが行方不明になろうが僕には関係ない」
「誰かが感染したら?」
裕子の問いに、少年は無言で拳銃の収まったホルスターを軽く叩くことで答えた。テレビやラジオではウイルスに対して抗体や免疫を持つ人間がいるらしいと言っていたが、そんな奇跡みたいな限りなくゼロに近い幸運を当てにするわけにもいかない。誰か一人でも感染した状態で学院に戻ってくれば、たちまち全員に感染が拡大しかねないことは亜樹にもわかった。インフルエンザや風邪と同じだ。
「感染者は可能な限り回避して進む。他の生存者との接触も避ける、これ以上誰かの面倒を見るのは無理だからな。暴徒に襲われた場合は……まあ想像に任せる」
最後のケースは考えたくない事態だった。こんな状況に陥ってもなお、争う人々がいるなんて信じたくもない。しかし、常に最悪の事態は想定しておかなければならないのだろう。人間同士の戦いになった時、こんな貧弱な武器で立ち向かえるのだろうか?
少年が乗って来たワゴン車の中は様々な段ボール箱やポリタンクが所狭しと積まれていたが、どうにか4人が乗れるスペースはあった。運転席には裕子が、助手席には礼が座り、後部席には亜樹と少年が座る。裕子に運転させるのは、自分が運転していて背後から襲われるのを警戒しているのだろうと亜樹は思った。
運転席の後ろには本来座席が二列あったが、その内の最後尾の列の座席は取り外されていた。床に並べられていた銃火器も、窓際に置かれた急ごしらえのガンラックに立てかけられている。同じく窓際に鎮座する小型の冷蔵庫のようなものは、拳銃や弾薬を収めた金庫だった。
亜樹たちが少年の車の中を見るのは初めてだった。いくら大きなワゴン車とはいえ、こんな狭い場所で何週間も生活は出来ないな、と亜樹は思った。寒いし、窮屈だ。暖かいベッドに広い部屋と、いかに自分たちが恵まれた生活をしていたのかがわかる。
ふと振り返ると、バリケードを構築するためにあちこち走り回っていた生徒たちが、立ち止まってこちらを見ている光景が目に入った。見送り、のつもりなのだろうか。角材を抱えていた葵が、挙手の敬礼をするのが見えた。
私たちはまた、ここに戻って来れるのだろうか。そう思うと急に車を降りたくなったが、そんなことをすれば少年は確実に自分たちを見限るだろうという考えも亜樹の頭に残っていた。彼の協力を取り付けるためにも、何としても自分たちが使える人間であるということを見せつけなければならなかった。
あらかじめ待機していた生徒が、車がやって来るなり門を開けた。裕子がアクセルを踏み込んで校門から道路へ出ると、素早く門扉が閉じられる。いよいよ引き返せなくなった。
「それで、どこに行くの?」
ハンドルを握る裕子がそう尋ねると、少年は運転席と助手席の隙間から地図を突き出した。学院にあった、この地域の大きな縮尺の地図だ。学院の南側にある村に、赤いペンで丸が付けられていた。
「そこに向かってください。村に近付いたらまた指示を出します。他の皆も周囲の警戒を怠らないように。もしも人影を見つけたら、すぐに知らせること」
相手が友好的か非友好的かに関わらず、少年は自分以外の全てを警戒しているようだった。その対象にはこの場にいる亜樹たちも含まれている。引き金にこそ指は掛けていないものの、少年の膝の上には拳銃が置かれていた。もしも不審な動きを見せる者がいたら、運転手である裕子ですら躊躇なく撃ち殺す。そんな雰囲気が漂ってきている。
車は道路を右折し、南に向かって走り出す。土地の権利の問題でやたらと曲がりくねって見通しが悪い道路は、路肩にまだ白いものが残っている。木々に頭上を覆われた道路に直射日光はほとんど当たらず、雪も完全に溶けてはいないのだ。しかしわざわざチェーンを着けるほどの量は残っていない。
ふと、少年が何か作業を始めた。今まで脇に置いてあった短機関銃を手に取ると、弾倉を外してボルトを引きロックする。そして空のペットボトルをリュックから取り出すと、大型の消炎器が取り付けられた銃口をその口に突っ込んだ。
「何やってんの?」
「サプレッサーだ、減音器の代わりだよ。さっきテストしてみた」
「ああ、それで……」
自室を出る前、校庭で短機関銃を撃っていた少年の姿を思い出す。少年は銃口とペットボトルの口を密着させると、ビニールテープで巻いて固定した。ペットボトルの底の中心部には、親指が入りそうな大きさの穴が開いている。
「減音と言っても、たかが知れている。それにペットボトルを使っているから、一発撃ったら御釈迦だ。わざわざ交換する余裕もないし、大量のペットボトルを持ち歩くわけにもいかない。感染者を倒す時は、やっぱりなるべく鈍器や刃物を使うのが望ましい」
それは事前の説明でも聞いていたことだった。感染者は人間と同じく、五感を使って獲物を探している。特に音は重要だ。大きな音は感染者を呼び寄せかねないから、なるべく銃は使いたくないと少年は言っていた。
「そんな知識、どこで仕入れたの? どこかで暗殺でもしてたの?」
「映画だよ、ハリウッドの。まあ大抵はフィクションで役に立たないけど、他は自力で学んだり、人に教わった。教科書には人間の殺し方や武器の扱い方なんて載ってなかったからな」
運転席でハンドルを握る裕子が悲しそうな顔をするのが、ルームミラー越しに見えた。教師である彼女が、そんな話を聞いて喜ぶはずがない。裕子の仕事は役に立たず無意味だったと、少年は言っているようなものだった。
だがそんな技術を身に着けなければ生きていけないのが、今の世の中なのだろう。これまでの常識は全て捨て去り、新しい世界を生き抜くための知識を学んでいかなければならない。少年がそうだったように、これから自分たちもそうなっていくのだろうか。
亜樹がそんなことを思った時、車はやっと森を抜けた。実に半年ぶりに目にする森の外の風景は、なぜだか色あせて見えるような気がした。
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