第八四話 試練を与えるお話
幸いなことに、襲われた二人に大した怪我は無かった。犬達が群がっていた二年生の柴田という女子も、厚着のおかげで重傷を負うことなく済んだ。出血はしたが、命に別状はない。狂犬病が怖いところだが、それは経過を観察しなければわからないことだった。
しかし野犬が襲ってきたことで、生徒たちは恐怖のどん底に落とされた。二人が襲われている間、ある生徒は寮の自室に立て籠もり、ある生徒はもう繋がることのない電話で必死に110番を呼び出そうとしていた。ほとんどの生徒が――――――教師の裕子も含めて――――――パニックに陥っていた。今まで人間にも感染者にも襲われたことがなかったのだから、当然のことだった
野犬たちが逃げた後、生徒たちは半狂乱で学校の守りを固めた。学校を囲むフェンスには板を打ち付け、さらに外部からの侵入を防ぐべくバリケードを築いた。使われていない机や椅子は全て外に放り出され、フェンスの前に積み重ねられた。
作業は日が沈むまで続けられた。夜になり、手元が暗くなったために作業は中止されたが、予定の半分も終わっていない。もしも感染者たちが押し寄せてきたら、あの貧弱なフェンスはあっという間になぎ倒されてしまうだろう。
その夜、少年は自動小銃を手に校舎の屋上にいた。昼間散々銃声を響かせてしまったことで、感染者にここの存在が察知されていないか確かめるためだった。もしも近くに感染者がいれば、森というカーテンがあっても音を頼りにここまでやって来てもおかしくはない。が、夜になっても姿を現さないということは、感染者は近くにいなかったということなのだろう。
ライフルなどの強力な銃火器の携行も許可された――――――というより、裕子に頼みこまれた。今までこっそりリュックに散弾銃を隠して校舎内を出歩いていたことも、不問に処された。よっぽど野犬の襲撃に危機感を抱いたらしく、生徒たちは常に武器を持ち歩くようになった。
とはいっても、あるのはバットや鉄パイプ、そして弓道用の和弓くらい。銃火器なんて一丁も持っていない。裕子は銃を貸してくれないかと頼んできたが、当然断った。銃なんて強力な武器を渡したら、何をされるかわからない。それに練習もしたことがない人間が銃を撃ったところで当たるわけがないし、最悪暴発させて自分や仲間を殺してしまうのがオチだ。
その代わりに、万が一感染者や野犬がやってきたら倒してくれとも言われた。そのせいで少年はこうやって屋上に陣取り、外を眺めているというわけだ。
野犬たちがやって来た後、再び天候は悪化し始めた。雪がちらつくようになり、弱いとはいえ風も吹いている。並んだ太陽光パネルの合間に学校の備品であるテントを張っているおかげで雪で真っ白にならずに済んでいるものの、気温はかなり下がっている。とはいえ厚着をしている上に身体中にカイロを貼ってるので、寒さはそれほど気にならなかった。
足音が聞こえてきたので、少年は塔屋の方を振り返った。ドアが開き、両手に何かを持った裕子が姿を現す。
「ライトは点けないでください、外に誰かいたら見つかります」
ポケットから懐中電灯を取り出し、足元を照らそうとした裕子に少年は鋭い口調で言った。他に光源が無い暗闇の中で、ライトの灯りはかなり目立つ。学院は森の中にあるので遠くからでは視認できないだろうが、それでも用心に越したことはない。
「ごめんなさい、うっかりして……」
「気をつけてください、生き延びたいのなら油断はしない方がいい。次があるとは限らないんですから」
「そうね、気をつけるわ。……お腹減ってるでしょ? 夕ご飯を持ってきたんだけど」
裕子が持つ盆の上には、おにぎりと湯気の立つ熱いスープが注がれた小さな鍋があった。「大丈夫、毒なんて入ってないわよ」と、少年の心を見透かしたように裕子が言う。裕子の言う通り今までは毒などを警戒して、食料は自分で調達したものしか食べていなかった。もっとも、彼女たちには「余計に食糧を消費させるのは心苦しいから」と説明しておいたが。
断ろうかとも思ったが、この期に及んで毒を入れるような真似はしていないだろう。しかし油断をするわけにもいかないので、少年は三つ並んだおにぎりのうち、適当に一つを指差して裕子に毒見するよう言った。同様にスープにも口をつけるよう頼む。拒否すれば……その時はその時だ。
「もう、警戒するのはわかるけど、少しは私たちを信用してほしいものね」
そう愚痴をこぼしつつも、裕子は少年に言われた通りおにぎりを頬張り、スープを飲んだ。どうやら、毒は入っていないらしい。小腹も空いていたので、少年は彼女が持ってきた夕食を頂くことにした。
おにぎりと言っても、精米済みのコメはほとんどが期限を迎える前に生徒たちに食べられていたので、残っているのはパックされたレトルトのものだけだ。
暗視装置で外を見張りながらおにぎりを食べ、熱いスープを飲む。若い女性と二人っきりという思春期男子なら誰もが望みそうなシチュエーションだったが、少年は何も感じなかった。今の彼の心は、サボテンすら枯れ果ててしまう砂漠よりも乾いている。
「その……昼間はありがとう。柴田さんと佐久間さんを助けてくれて。あなたがいなかったら、きっとあの二人は死んでた。私たちだけじゃどうしようもなかったもの」
「別に、礼を言われるほどのことじゃありません」
「亜樹さんはあなたが平気で他人を見捨てる人だと言っていたんだけど、どうしてあの二人を助けてくれたの? あなたの話が本当なら、自分が生き延びるなら他人を見捨てても心は痛まないんでしょ?」
「それは襲ってきたのが犬だったからですよ。あれが感染者なら、とっくに僕は逃げている」
相手が強いと判断すれば、逃げてくれるだけ犬の方がマシだ。それに狂犬病や口内の雑菌の恐れがあるものの、犬に咬まれても(程度はさておき)怪我をするだけだ。だが感染者は周りで何体同類が殺されようが、ひたすら人間を食い殺そうと襲ってくる。威嚇は通用しない。その点では、感染者は犬にも劣っている。
「でも、私たちを助けるために銃を使った。銃弾は中々手に入らないのに、どうでもいい他人を助けるためにそれを使った。どうしてなのか、訊いていい?」
「いやだと言ったら?」
「その時は、諦めるしかないわね」
少年は何も答えなかった。というよりも、答えられなかった。
なぜ彼女たちを助けようと思ったのか、自分でもわからなかったのだ。確かに犬だから撃退するのは容易だ、という気持ちはあった。だが助ける理由にはならない。本当に他人がどうなってもいいのなら、犬が入って来れない校舎や車に立て籠もるか、あるいはここを離れていれば良かっただけの話だ。犬達が二人を食い殺して満腹になって帰るまで待てばいい。
だが自分の中の天秤は「放っておく」ではなく「犬達を追い払う」の方に傾いた。なぜ? そのことを考えようとして、止めた。これ以上考えたら、自分を構成する最も重要な要素――――――ルールが犯されてしまうような気がしたからだ。
ルールは絶対だ。だが今回はそのルールに反しかねない行動を取ってしまった。その理由を考えるのは止め、少年は黙り込んだ。その少年に、裕子が続ける。
「あのね、お願いがあるの。よかったらここに残って、私たちと一緒にいてくれない?」
「仲間になれ、と?」
「つまり、そういうことね」
「お断りします。僕が決めたルールは知っているでしょう? それに、あなたたちと一緒にいることのメリットよりも、デメリットの方が大きい。僕は感染者や暴漢たちに立ち向かうための武力を提供できる、だけど先生たちは僕に何を提供してくれるんです?」
電気が使えて風呂にも入れて、農業をするための温室もある。ちゃんとした生活が出来るだけの設備もある。しかし一緒に生徒たちがいるのならば、この小百合女学院の価値はぐっと下がる。
食料はまだあるが、それも保って一カ月がせいぜいだ。ソーラーパネルや風車は、壊れても修理できる人間も部品もない。発電機の燃料は、フルに動かせばあっという間に尽きてしまう。温室で栽培される野菜だって、10人以上で分け合えば一人あたりの分量はたかが知れている。なにより、生徒たちには戦った経験がない。
ここに留まることになったら、11人を少年一人で守ることになるのは明らかだ。銃を与え、訓練を施したところで、多少はマシになるだけで自分が戦力の中核になることは間違いないだろう。武器を失い、代わりに11人を守る義務が与えられる――――――どう考えてもメリットの方が少ない。
「確かに、私たちがあなたに提供できるものはほとんどない。でも、私たちはあなたに頼るしかないの。私たちは今まで襲われなかったのを言い訳にして、ずっとこの学院に引きこもっていた。だけど、いつまでも現実から目を逸らし続けることは出来ないって、今日の一件で皆わかったのよ」
今まではほとんど形だけだったバリケードが、大急ぎで補強され増設されていることからも、彼女たちが今の状況に危機感を抱いたことは明らかだろう。だからといって、一朝一夕に彼女たちが戦える人間になるわけではない。それまで感染者などとの戦闘は、実質自分ひとりに押し付けられることになる。少年はそう考えた。
生徒たちがどんな事情を抱え、何を考えようがどうでもいいことだ。問題は彼女たちが自分の役に立つか、あるいはデメリットを上回るメリットとなるものを持っているか。それだけなのだ。
「図々しい話だってことはわかってるわ。でも、今は他に頼れる人はいないの。だからお願い、私たちを助けて。もちろんあなたに全て頼るわけじゃない。私たちも、出来ることなら何でもするから」
「ん? 今何でもするって言いましたよね? じゃあとりあえず、犬の真似してくださいよ」
「えっ……」
裕子は「何を言っているのかわからない」とでも言いたげな顔をしたが、少年は続けた。
「犬ですよ、四つん這いになるんですよ。早くしてくださいよ。何でもするんでしょう? ならこれくらいのことは簡単ですよね?」
「確かに、そうだけど……」
「それとも何でもするって言葉、あれは嘘なんですか? なら嘘つきと一緒にいることは出来ませんね、いつ裏切られるかどうかわからない」
「……言う通りにすれば、仲間になってくれるっていうの?」
裕子は少年に、軽蔑と屈辱の入り混じった目を向けた。そして唇を噛み、冷たい屋上に膝をつく。両手もつこうとしたところで、「冗談ですよ」と少年は言った。
「だけど今のこの世界じゃ、犬のように屈辱的な扱いを受けるよりも酷いことが多々あるんです。先生はさっき何でもするって言いましたけど、その『何でも』の中には自分の教え子を殺すことも含まれてるんですか?」
その問いに、裕子は目を見開いた。今度こそ、彼女は絶句した。
「もしも大切な生徒が感染して、頭がパーになって人間の形をした野獣と化して、他の生徒を襲い始めたら、その時は先生が自分の手でそいつを殺せますか? 『そんなことは起きない』、なんて能天気な答えは返さないでくださいよ。僕だって父さんと母さんを殺したんだ」
「……」
「まあ、今すぐに覚悟が決まるとは思ってませんけどね。僕は明日か明後日にでも外に出て、近くの村で物資調達を兼ねた偵察をするつもりです。それについて来て僕の指示通りに動いてくれたのなら、この学院に留まってもいい」
親を殺し、仲間を殺し、赤ん坊まで間接的に死に追いやった。今まで僕は何度も苦痛を味わい、身を引き裂かれるような思いをして生き延びてきた。なのにここの人間は今日の今日までのうのうと生きてきた。
それが羨ましい。ずるい、許せない。そんな気持ちが自分の中にあることを、少年は自覚していた。
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