第八三話 ドッグ・ソルジャーのお話
その後も時折雪が思い出したように降ったが、トータルとしては晴れている時間の方が多かった。積もった雪は順調に溶け、一部では地面も見えてきた。
雪が融けるのと比例するように、生徒たちの間からは再び少年が危険な人物ではないかという声が上がるようになっていた。確かに彼が小百合女学院に来てから一週間以上が経過し、その間生徒たちに危害を加えるようなことは無かった。女子では難しい力仕事も、頼めば文句も言わずに引き受けてくれた。滞在を認める以上さまざまな手伝いをしてもらうのは当たり前のことだったが、少年が役に立ってくれていたのは事実だった。
彼が役に立つ人間であることは、誰もが認めている。しかし彼の持つ多数の銃火器が、依然として生徒たちの不安をくすぶらせ続けていた。
それに少年が何を考えているのかわからないことも、生徒たちの疑念を晴らせない一因だった。亜樹との一件以降、少年は何を言われても必要最低限の受け答えしかしていない。彼のことについて何かを尋ねても、はぐらかされたり答えが返ってこないことがほとんどだ。
生徒たちが不信感を抱き続けるのも当然のことだった。もっとも、少年は学院に長居するつもりはないという意志を彼女たちに告げていたので、追い出す追い出さないという論争が繰り広げられることは無かったが。
ここ数日は大雪が降ることもなく、晴天が続いた。だいぶ雪も溶けたが、少年はまだ出発するには早いと感じていた。まずは学院周辺に広がる森を出て周囲を探索し、他にどこか住めそうな場所を探さなければならない。幸い森の外をしばらく車で走れば、農家が点在していることはわかっている。もっと進めば規模が小さいとはいえ町があることも地図を見れば把握できた。
そのためには準備を万全にしなければならない。今回は予想外の大雪で生存者のいる場所に来てしまったが、次はそのようなことがないようにする必要があった。今回は遭遇したのが武器も持たない少女たちだったが、次に遭遇する相手は武装した屈強な男たちかもしれないのだ。出来ることなら生存者との接触は、可能な限り避けていきたい。
早いところ出発しなければとは思っているのだが、それでもずるずると予想よりも長居してしまっている。雪が降ったり止んだりしていつまた大雪が降るのかわからなかったり、雪が完全に溶けていないのもその理由だ。しかし出ようと思えば今すぐ出られる、障害にはならない。
そしてこの日も少年は、生徒たちに頼まれて仕事の手伝いをしていた。どうせもうすぐここを離れるのだからこんなことをする必要は無いと思っているのに、引き受けてしまった。どうせなら最後まで余計な対立をしたくないと頭の中で言い訳をし、それでつい仕事を引き受けてしまった自分を無理矢理納得させた。
「フェンスが倒れちゃったんで、直すの手伝ってくれませんか?」
そう頼んできたのは葵だった。銃を触らせて以降、彼女が近付いてくることはなくなった。やはり興味があったのはあくまでも銃であり自分ではないことに少年は安堵するとともに、どこかモヤモヤした感覚を抱いた。それもとっくに消え失せ、少年にとっては久しぶりとなる葵との会話だった。
「フェンス?」
「はい。体育倉庫の裏側のフェンスなんですけど、屋根から落ちてきた雪が当たって斜めに倒れちゃって」
生徒たちは雪が溶けはじめてから再び学校の敷地を囲むフェンスの補強工事を始めていたが、そのスピードは遅々として進んでいなかった。少年も何度か手伝いに駆り出されたが、そもそも広大な敷地を持つ学院全体にバリケードを張り巡らせることは難しい。ないよりはマシなのだろうが、バリケードを使うようになった時にはこの学院も全滅一歩手前の状況に陥っているだろう。
頼みを引き受けた少年はいつものようにリュックを背負うと、もはや自室と化した教室の外へ出た。いつでも出て行けるようなるべく整理整頓しているが、それでも生活の痕跡は残っている。
廊下には相変わらず人気が無い。これまで行われてきた授業も、ここしばらくは中止になっているようだ。代わりに生徒たちはフェンスの補強や薪の調達、そして雪下ろしなど生き延びるための行動を取り始めている。既に平和な世界は消え失せてしまったのだと、改めて実感したのかもしれない。
無人の廊下は、パンデミック以前の日々の名残を丸ごと残していた。掲示板に張られたプリントやポスターの類はそのままであり、少年は何となく昇降口前の掲示板の前で足を止めた。
『進路調査書の提出について』
『本年度卒業者の進路状況』
『野犬に注意』
『第43回市内アート展への作品提出を希望する生徒へのお知らせ』
似たような光景は、あの時期どの学校でも見られたはずだ。ここだけまるで時が止まったままのような感じがして、少年は流れた月日の早さに複雑な気持ちを抱いた。
昇降口から外に出ると葵が待っていた。校庭にはまだ雪が残っているが、シャーベット状に溶けた雪は少年の踝ほどの高さまでしかない。このままいけばあと数日もしない内に雪は綺麗さっぱり消え失せているだろう。
しかし、空には再び灰色の雲が広がり始めている。また大雪が降らなければいいがと思いつつ、少年は葵と共に倉庫へ向かった。
「そういえば、いつごろまでここにいる予定なんですか?」
「雪が溶けて降らなくなるまでだ」
「私としてはもっと長い間いてくれてもいいと思うんですけど、そのつもりはないんですか?」
「ない」
この学院が無人だったら拠点にしているところだが、生憎先住者がいたのだから仕方がない。電気が使え、温室もあるこの学院は拠点にするにはうってつけの場所だが、生徒たちという不確定な要素が存在している以上ここに住むわけにはいかなかった。
武器を振りかざして追い出す、あるいは皆殺しにして後顧の憂いを絶つという考えが無かったわけでもない。しかしそれはルール違反だ。彼女たちが攻撃を仕掛けてきたのならば話は別だが、攻撃されていない以上こちらから仕掛けることも出来ない。自分を正当化し精神の安定を保つためにも、ルールは守られなければならなかった。
「あれ、リュック空いてますよ」
気まずい雰囲気をどうにかしようとしたのか、葵が努めて明るい声で言った。リュックのフラップはバックルで固定されておらず、少年の動きに合わせて右に左に揺れている。中身が零れ落ちてしまうんじゃないかと葵は思ったが、「いや、大丈夫だ」と少年は答えた。
「これでいいんだ」
何がいいのかわからなかったが、本人がそう言っているのならそれでいいのだろう。葵はそう考え、少年を現場へと案内した。
問題のフェンスは校庭の南側、敷地の内外を隔てるフェンスに面する位置にあった。体育倉庫の屋根は南側に向かって傾いていて、落ちた雪はちょうどフェンスに当たる。この地域はあまり雪が降らないらしいから、落雪のことはほとんど考えられていなかったのだろう。積もった雪はかなりの重量があり、屋根から落ちた雪の塊が直撃して死亡した人もいるほどだ。
倉庫の裏手にあるフェンスも、支柱が大きく外側へと傾いていた。元々外部からの侵入を想定した頑丈なつくりではなく、単に敷地の境界を示すための貧弱なフェンスだから、倒壊するのも当然だった。
「誰か入って来てたりしてませんかね? 多分フェンスが倒れたの、何日か前だと思うんですけど」
倉庫の陰になって見えなかったために、発見が遅れたらしい。倒れたフェンスには大人一人が通れるほどの隙間が支柱と支柱の間に広がっているが、「大丈夫だろう」と少年は答えた。倉庫の裏側にはまだ雪が残っているが、地面に足跡は見当たらない。
「だが、早めに直しておく必要があるな。支柱の折れた部分を切断して代わりの鉄パイプなりなんなりを添えて、針金で固縛しておいた方がいいだろう。また同じようなことがあるかもしれないから、補強も必要だ。ついでにバリケードも設置しておくといい」
作業はそこまで難しくはなさそうだ。元通りにするだけなら、それほど手間はかからない。もっとも落雪にも耐え、感染者の襲撃も防げるほど頑丈にするなら一日がかりの工事が必要だろうが。
早速修理に取り掛かりたいところだったが、手元には道具も資材もない。資材を取ってこようと倉庫の裏から出てきた時、二つの人影が少年と葵の前に現れた。一人は眼鏡を掛けた神経質そうな少女――――――三年生の佐久間であり、もう一人の髪を三つ編みにした少女は少年がまだ名前を覚えていない二年生だった。ジャージ姿に軍手を着用した二人は、両手に鉄パイプや工具箱を下げている。
「あれ佐久間先輩と柴田さん、こんなところで何を?」
「ここは私たちが修理します。幸い、直すだけなら貴方の力は必要ないでしょうし」
そう言って佐久間は、不審げな瞳で少年を見た。どうやら彼女は、自分が大手を振って外を出歩いているような今の状況が気に食わないらしい。そう察した少年は、「じゃあ、頼みます」と言って体育倉庫を後にした。
「すいません、佐久間先輩って男の人に厳しくって……。それにほら、今はこんな状況ですし」
「別に気にしてないさ。僕が彼女の立場でも、同じように接するだろうし」
いきなり大量の銃火器を持ったヤバそうな奴が来たら、誰でも警戒するし追い出そうとするはずだ。
「佐久間先輩、昔男の人に襲われそうになったことがあるって聞いたから、もしかしたらそのせいかも……」
「へえ……」
それなら男の僕に敵意スレスレの警戒を向けても仕方がないな。少年はそう思った。同情する気持ちは湧いてこなかったが。
どんな事情があれど、襲ってこなければそれでいい。もっとも襲ってきた場合は、容赦なくやり返すだけだ。自分たちがやったことを後悔させた上で、全員あの世に送ってやるつもりだ。敵には容赦しないことも、少年が定めたルールの中に入っている。
「私としては、軍曹殿がいてくれた方が頼りになるんですけどね」
「軍曹殿って誰だよ」
「いや、何となくそう呼びたくなって……」
僕は別に新兵たちに怒鳴ったり、地獄の特訓を課す人間じゃないぞ。そう言おうと少年が口を開きかけたその時、絹を裂くような少女の悲鳴が響き渡った。悲鳴が聞こえてきたのは今まさに二人が後にした、体育倉庫の方からだった。
その悲鳴は学校中に聞こえ、他の場所で作業を行っていたり、寮の自室に閉じこもっていた生徒たちも何ごとかと顔を見せる。悲鳴を聞いて走り出していた葵の後を追うように、少年も体育倉庫を目指して走る。
体育倉庫の陰から、二つの人影が飛び出してきた。さっきフェンスの修理を引き継いだ佐久間と柴田だったが、その後を追って茶色い何かが体育倉庫の裏側から姿を見せる。
感染者か。そう思ったのも束の間、少年はそれらの影が異様に小さいことに気づいた。子供よりも小さい。後ろを走る柴田に背後から飛びかかり、地面に押し倒したそれは、ドーベルマンによく似た犬だった。
犬は一頭だけではなかった。体育倉庫の陰から姿を見せたそれらは少なく見ても10体以上はいて、引きずり倒した柴田に集団で襲い掛かる。犬達に囲まれた柴田が絶叫し、佐久間が修理用の鉄パイプを振り回しながら犬達に突撃する。
「野良犬――――――?」
少年は感染者でなかったことに安堵したが、事態が改善されたわけではない。昇降口に張られていた『野犬に注意』のポスターを思い出し、敵は人間や感染者だけではないことを改めて思い出す。
今まで何度か野良犬は目撃していたが、襲われたことはなかった。少年が見かけた野良犬は感染者に襲われた人間の死体を貪るばかりだったし、数も少なかった。都会の犬達は鎖に繋がれたまま、飼い主が逃げたことにより飢え死にしていったのだ。
しかしここには元々野犬が住み着いていたのか、あるいは近隣の家の飼い主を失った犬達が野生化したのか、野犬の集団がいたらしい。それも飢えた奴らがたくさん。
犬達は倒れたフェンスの隙間から学校に侵入してきたらしい。柴田が両手で顔を抑え、佐久間が彼女に群がる犬達を追い払おうとする。これが感染者だったらとっくに彼女たちを見捨てて逃げ出しているが、相手は犬だ。銃火器を以ってすれば追い払うのは容易い。
彼女たちを助ける義理は無かったが、かといって見捨てる必然性もない。少年は拳銃を引き抜くと、まずは虚空へ向けて一発発砲した。
銃声は、意外と大きく響いた。先を走る葵が突然鳴り響いた銃声に一瞬身体を震わせ、犬達が一斉に少年を見る。大きな音に驚いて逃げてくれれば良かったのだが、犬達はよっぽど飢えているらしい。犬達の注意が再び柴田の方を向いたのを見て、少年は一気に突進した。
犬達から少し離れたところで拳銃を構え、引き金を引く。鉄パイプを取り落とした佐久間を見据え、鋭い歯をむき出しにして唸っていた犬が「キャン!」と悲鳴をひっくり返り、地面に残っていた雪が血で真っ赤に染まる。「走れ!」と叫んだ少年は、そのまま二発、三発と撃ち続けた。
しかし人間よりも小さく、すばしっこい犬に銃弾を当てるのは難しい。それに犬達は興奮状態に陥っていて、撃たれた痛みもあまり感じていないようだ。犬達は銃を持った少年が一番の脅威であると判断したらしく、柴田を放り出して一斉に少年に向かって突進する。
三発撃って、どうにか一発当てられた。脳天に銃弾を食らった犬が雪の上を滑りながら崩れ落ち、そのまま動かなくなる。しかし犬はまだ、8体も残っていた。
もう一頭を射殺したものの、シェパードのような中型犬が地面を蹴って跳躍し、少年の喉元に食らいつこうとした。上半身を捻ってどうにかその牙を交わし、すれ違いざまにその腹を思いきり殴りつける。グローブの拳部分を覆う硬いプレートが、無防備な腹に叩きつけられ肋骨をへし折った。
甲高い悲鳴を挙げて地面をのた打ち回る犬の頭に一発発砲し、息の根を止める。しかし犬達は次から次へと襲い掛かってきた。一体が少年の足首に食らいつき、大きく首を振って肉を引き裂こうとする。しかし体重が数倍以上もある少年はわずかによろめいただけであり、その上犬が食らいついているのはブーツの上からだった。
「カスが効かねぇんだよ」
痛くもかゆくもなかった。足に食らいつく犬に向かって上から一発発砲し、ひっくり返ったその頭を思いきりブーツで踏みつける。硬いブーツの靴底の裏から、犬の頭蓋骨が割れる鈍い感触が伝わった。
さらに数発撃って取り囲む犬の数を減らしたところで、拳銃のスライドが後退したまま動かなくなる。弾倉内の弾を撃ち尽くしたのだ。トリガーガードの付け根にあるマガジンリリースレバーを押し下げ、空の弾倉を排出。素早く再装填しようとしたが、犬が飛びかかってくる方が早かった。
「危ない!」
その様子を遠巻きに眺めることしか出来ない葵はそう叫んだが、かといって出来ることがあるわけでもない。無防備な脇腹に向かって跳びかかった犬は、数秒後には少年を地面に押し倒しているだろう。拳銃の再装填は間に合わない――――――。
しかし少年の行動は予想外のものだった。拳銃を手放した少年はその手を背負ったリュックに突っ込み、忍者が刀を引き抜くように中から何かを抜き放った。そして次の瞬間、拳銃のそれとは比べ物にならないほどの大きな銃声が響き渡る。
少年がリュックの中から取り出したのは、いつも持ち歩いているソードオフのショットガンだった。銃身と銃床がギリギリまで切り詰められたショットガンは大きめの拳銃といった程度の長さしかなく、片手でも十分扱える。ショットガンを引き抜いた少年は犬が向かってくる方向に銃口を向けると、そのまま引き金を引いた。
散弾を収束させるための絞りが銃身ごと切り落とされたため、放たれた散弾は至近距離で拡散し、正面から犬にばら撒かれた。無数の散弾を食らった犬の頭が柘榴のように弾け、グズグズになった真っ赤な身体が重力に引かれて地面に落下する。もう一体の犬をソードオフで射殺すると、犬達は勝ち目がないと悟ったのか、一目散に逃げ出した。
銃身を折って素早くショットシェルを装填し、拳銃を拾い上げて予備の弾倉を挿入する。周囲に静寂が戻り、後に残されたのは雪を真っ赤に染める犬達の死骸と、太陽の光を受けてきらめく空薬莢だけだった。
「柴田さん、しっかりして!」
犬達が戻ってこないのを確認した少年の耳に、佐久間の必死な声が入ってくる。振り返ると事態に気づいた生徒たちが体育倉庫の前に駆け寄ってきて、犬に襲われていた佐久間を取り囲んでいるところだった。
犬達に襲われたものの、幸い佐久間も柴田も重傷は負っていないようだった。防寒対策として、厚着をしてきたことが功を奏したのかもしれない。柴田も軍手をはめた両手で顔を守り続けたおかげか、腕や手からは血が流れていたものの、顔の肉を食いちぎられるといった事態だけは避けられた。
「痛い、痛い……」
泣きじゃくり、痛みに呻く柴田を、裕子が校舎から持ち出してきた担架の上に乗せる。急いで医務室に運ばれていく彼女の姿を見て、「生きてる証拠だよ」と少年は呟いた。
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