第八一話 ヒーローなんていないお話
その後も、雪は時折降った。少年が小百合女学院に来てから5日が経過したが、校庭や道路に残る雪は相変わらず融けていない。幸いなことに雲の切れ間に太陽が顔を覗かせるようにもなったが、数時間も経てば再び雪が降り始める。
雪は生徒たちにとって大きな悩みの種だった。最近のソーラーパネルは発電量が落ちるとはいえ曇り空でも電気が生み出せるが、雪で覆われてしまったら流石に発電出来なくなる。その上雪の重みで破損するかもしれないとあれば、休んでいる暇は無かった。
ガラス張りの温室も同じだ。一応30センチの積雪までは想定されているらしいが、だからといって積雪が30センチを超えるまで雪かきをしなくていいということでもない。貴重な野菜を栽培している温室に何かがあれば、生徒たちはさらにダイエットを強いられることになるだろう。
「あー、寒い」
亜樹の言葉は、口から出た端から白い蒸気となって宙に消えていった。教室や寮にはカセットボンベを使ったヒーターや、ペール缶の中に薪を放り込んで火をつけた急ごしらえのストーブが置かれているが、どれも熱源の周囲を温める程度にしか役に立っていない。オール電化なので暖房は電気さえあれば使えるが、肝心のソーラーパネルが雪に覆われてしまってはどうしようもない。
雪が降り始めるようになってからは、雪かきが生徒たちの日課に加わった。雪が降る度に屋上や温室を回り、積もった雪を退かす。今のところ厚着や小型のヒーターで何とかなっているが、これからさらに気温が低くなることを考えると、電気は大事だった。電気が使えなければ暖房も使えないし、そうなったらいよいよ凍死者が出かねない。
「ねえ、あんたは寒くないの?」
葵の隣を水切り用のモップを片手に歩く少年は、「ああ」と一言だけ答えた。雪かきは重労働であり、女子だけでは力が足りない。裕子が手伝ってくれるよう少年に頼みに行ったところ、彼はあっさりとその要請を了承した。
スキーウェアに身を包んだ少年に対し、亜樹はジャージやジャンパーを幾重にも着込んだ上にカッパを被っている状態だ。この地方は元々冬はかなり寒くなるが、それでも雪は滅多に降らない。降ったとしても、翌日には綺麗さっぱり溶けてしまっている程度のものが大半だった。当然雪への対策もさほどなされてはおらず、スキーウェアなどもない。
「ま、確かにあんたの方が厚着してるからね……。そういえば、何で雪かきの手伝いを引き受けてくれる気になったの?」
「別に理由はない。暇だし、電気があった方が僕も色々と便利だ」
「あ、そう……」
善意からの行動ではないことに、亜樹は少し落胆した。だからといって少年が「一宿一飯の礼だ」と言ったところで、素直に信じられるほど親密な仲というわけでもない。何度か言葉は交わしたものの、亜樹は相変わらず少年がどういう人間なのかその実態を掴みかねていた。
階段を上り、屋上に出ると、途端に雪が二人に降りつけてきた。既にソーラーパネルの表面には、雪が数センチ積もってしまっている。雪が降り続けるのならば今雪かきをしたところで発電できる時間はわずかでしかないが、破損してしまったら元も子もなかった。亜樹と少年は、並んでソーラーパネルに積もった雪をモップで降ろし始めた。
「そういえばあんた、雪が融けたらどうするの? ここに残る、それとも出て行く?」
男女が二人、黙々と作業を続けるのは気まずく、亜樹は自然と口を開いていた。少年は亜樹を横目で一度だけ見ると、ソーラーパネルに積もった雪の表面に、モップの先端を当てて一気に引いた。瓦のように連なった雪が、パネルの傾斜に沿って足元にどさどさと落下する。
「出て行く。いつまでもここにいたら迷惑だろ?」
「確かにあんたを歓迎してない子も何人かいるけど、いてくれたらありがたいって思ってる子も多いよ。大場さんなんか、色仕掛けをしてでもあんたを引き留めるべきだって言ってたけど」
礼には悪いが、亜樹はどうも少年を利用するだけの対象として考えているような彼女の立場には反対だった。いたら便利で役に立つ、それだけの理由で引き留めるなんて、まるで少年を物扱いしているようで多少なりとも反感があった。だからといって亜樹も少年にいてほしいかどうかはまだ態度を決めかねているし、そもそも彼が信用に値する人間なのかも理解できていない。
が、ここに来てから何も問題を起こさなかったことから考えると、ひとまず敵ではないと見ていいだろう。自分たちに危害を加えないというのなら、佐久間が言っているように追い出す必要もないのではないか。亜樹はそうも思っていた。
「大場……あの髪の短い奴か。この前図書室で女子同士で盛りあっていた」
「うわ、またやってたんだ」
「また?」
女子ばかりの環境の中で、ボーイッシュな子は人気があった。礼もその一人で、学年を問わず彼女には多くのファンがいた。礼はバスケットボール部に所属していたが、彼女が練習している時には多くの生徒が体育館に集まっていたのを亜樹は何度か目撃したことがある。
そして礼の方も、女の子から好かれることがまんざらでもなかったらしい。いつも彼女の隣には、誰かしら女の子がいた。大抵それらは下級生だった。流石に寮監や教師がいた時は下手な真似など出来なかったが、それでも女子同士でスキンシップを図っていたことは学年中の人間が何となく知っていた。
「で、教師がいなくなったのを良いことに盛りだしたってわけか。見境がないな」
「そういうわけでもないと思うけど……」
確かに礼はそっちの気がある女子だが、かといって淫乱というわけでもなさそうだった。彼女はパンデミックが起きて学院に生徒たちが取り残された後、不安になる下級生たちの相談を親身になって受けていた。そういった「スキンシップ」も、生徒たちの不安を解消するためにやっていたのでは……と亜樹は思っている。確証は無かったが。
「それで、あんたは大場さんに誘惑されたらどうする? 彼女、顔も良いしスタイルもそこそこいい」
「あらかじめハニートラップを仕掛けますよと言われて引っかかるバカがどこにいる。大体、僕は女に興味はない。今は生き延びることが最優先だ、性欲なんかとっくの昔にどこかに行ったさ」
「じゃあ、私たちが引き留めたら? ここに残ってくれる?」
各種物資が限界に近付きつつあることは、誰もが薄々感づいていた。いくら頑張って節約に励んだところで、一カ月も保てばいい方だろう。
特に電気は冬を越す上でなくてはならないものだ。晴れている日は太陽光や風力を用いた発電が出来るし、今まではそれで何とかやっていけた。春は暖かかったから暖房は要らなかったし、夏も学院の周囲が森ということもあり、あまり暑くは無かった。電気は風呂や調理器具にのみ使用されているような状態だったが、これからはそうもいかない。もしも毎日雪が降り続くようだったら、気温はどんどん下がる上に電気まで使えなくなってしまう。そうなったら、確実に凍死者が出るだろう。
災害時を想定して、学院には非常用のディーゼル発電機が備えられている。しかしその燃料は、フルに使えば二日分しか保たない。今まではたまに動くかどうかを確かめる程度だったが、雪が降り始めてからはディーゼル発電機まで使わなければならなくなった。稼働時間を決めて節約しているつもりだが、それもいつまで燃料が保つか。備蓄してある燃料を使い切ってしまったら、どこかへ調達に出かけなければならない。
「あんたがいてくれた方が、私たちも色々と助かるし。あんただって一人で行動するよりも、仲間がいた方がいいでしょ?」
少年はまだ信用に値する人物かどうかは見極められていなかったが、ここに来てから一切問題行動を起こしていないことから鑑みれば、頼ってみてもいいのではないかと亜樹は思っていた。
礼の言う通り、男手があれば色々と助かる。それに少年は戦闘経験が豊富らしいので、万が一の際にも頼りになるだろう。物資調達をしなければならなくなった時も、彼が一緒に来てくれたら安心だ。
だが。
「いや、仲間は作らない。そう決めてある」
「なんで? 一人で寂しくないの? 一人じゃ色々と不便じゃないの?」
「それがルールだからだ。仲間は要らない、足手まといになるだけだ」
少年が即答した。いつもはロボットのようにしか思えない少年が、その時だけ何故か人間らしく見えた。亜樹はソーラーパネルの雪をモップで落としながら続ける。
「でも、ここに残ったらある意味ハーレムじゃん。男子ってそういうのに憧れないの? ヒーローになれるかもしれないのに」
「ヒーロー、だって?」
続いて少年の口から発せられたのは、乾いた笑い声だった。
「僕はヒーローにはなれないし、なるつもりもない。いや、一時期なろうとはしていたな。お前、どんな人間がこの世界で生き延びられるか知ってるか?」
唐突な質問に、亜樹は面食らった。見れば少年が、まっすぐ亜樹の顔を見据えていた。その瞳には怒りとも悲しみとも取れる、どこかマイナスな感情が浮かんでいるように見えた。
「えっと、戦えるような強い人?」
「ハズレだ。答えは運が良くて、とことん卑怯な奴。どんなに強い人間だって、死ぬ時はあっさり死んでしまう。それが今の世の中だ」
少年は続けた。
「しばらく前まで、僕には三人の仲間がいた。その内の一人はアメリカ人で、軍事訓練も受けたことがある人だった。僕はその人に戦い方を教えてもらった」
亜樹は思わず、少年の太ももに巻きつけられたホルスターを見た。自分と同い年の少年がどこで戦い方や銃の扱い方を学んだのか不思議でならなかったが、そういう事情があったとは。
「強い人だった。ナイフだけで感染者を何体も倒せるような人で、僕も何度も助けてもらった。だけど、彼女は死んだ。どうやって死んだと思う?」
「……感染者に殺された?」
「違う、川に落ちて死んだんだ。仲間の最初の一人が死んでからしばらくして、僕らは感染者の大集団に遭遇した。崩れかけた橋を渡って逃げる羽目になったけど、一番最後に彼女が橋を渡った時、橋が崩れた」
「それで、川に落ちた……」
「僕は、彼女の手を掴んだよ」
亜樹はその言葉にどきっとした。落ちる直前に手を掴んだというのなら、彼が手を放したことになるのではないか?
「だけどその時、もう一人の仲間も感染者に襲われていた。橋はどんどん崩れていたし、下手をすれば三人とも死んでしまうような状況だった。その人の手を放せば、僕ともう一人は助かるのはわかっていた。そしてその人を橋の上まで引っ張りあげることが出来ないのも。だけど僕は迷った、全員で助かる道をギリギリまで探した。映画に出て来るような、皆を助けるヒーローになりたかったんだ」
そして、「でも、無理だった」とぽつりと呟く。
「結局、僕はその人の手を放すしかなかった。でももう一人を助けられたわけじゃない。僕が迷っている間に、彼女は感染者に咬まれていた。わかるか? 僕がヒーローになろうとしたせいで、二人が死んだんだ」
今まで平和に暮らしていた亜樹からしてみれば、想像を絶するような話だった。今まで自分たちが家族の心配をしながらも呑気に生活を続けていたその裏で、目の前の少年は血みどろの戦いを繰り広げていたのだ。
「最初の一人も、僕の油断が原因で死んだようなもんだ。僕が迷った挙句に間違った決断をしたせいで、ヒーローになろうとしたせいで皆が死んでしまった。ヒーローなんていない、どうせ皆死ぬ。生き残れる奴は運が良くて、自分が生きるためならば他人の命も踏み台に出来るような奴だ。
僕がルールを定めたのは、もう迷わないためだ。どんな状況であっても、素早く自分の命を最優先にした決断を下せる人間だけが生き延びられる。迷った奴は死ぬ。仲間がいれば迷ってしまう、だから仲間はいらない。自己犠牲? くそくらえだ。ヒーローになって死ぬくらいだったら、僕はどんな手段を使ってでも生き延びてやる。たとえ人類が僕一人だけになってでもね」
全てを諦め、疲れ切った男の声だった。亜樹は唐突に、父と一緒に暮らしていた時のことを思いだした。
警察官僚だった父は、帰って来るたびに疲れた顔をしていた。俺たちがいくら頑張っても犯罪は減らないし、世の中は良くならない。一度だけ、母への愚痴を聞いてしまったことがある。その時の父の瞳や声も、今の少年と同じくどこか諦めを抱き、疲れ切ったものだった。理想と現実の乖離に苦しみ、それでも目を背けたくなるような現実と戦わなければならなかったのは、父と目の前の少年も同じなのだろう。
「……でも、それってなんか悲しくない? 一人だと確かに楽だけど、誰にも何も相談できないし、誰も助けてくれない」
「構わないさ、それが僕の決めたルールだ」
「ルールルールって、あんたロボットじゃないんだから。人間なんだから、もっと柔軟な考え方とか出来ないの? 前はたまたま失敗しただけであって、次は上手くやってやるとか、そう思わないの?」
いつの間にか、少年の瞳がまたロボットのような無機質で無感動なものに戻ってしまっていた。さっきまで見せていた人間らしさが、今は欠片もない。掴みかけた何かが手の中をすり抜けてしまった、そんな感覚を亜樹は抱いた。
「僕がロボットだった方が、まだ良かったさ。ロボットなら迷わないし、悲しまない。この地獄を生き延びられる人間は、そんな奴だけだ」
いつの間にか、雪が積もったソーラーパネルは一枚だけになっていた。少年がモップでパネル表面の雪を下ろし、足元の雪塊を下へと蹴り落とす。雪は未だに降り続いていたが、勢いは弱まっていた。
「……少し、喋りすぎたな」
その言葉を最後に、少年は小さな雪の塊が付着したモップを片手に、亜樹に背を向けて階段の方へと歩き出す。しかし亜樹はその場に立ちつくし、少年の背中を見送ることしか出来なかった。
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