第七六話 なんでもするお話
外は吹雪だったが、少年と話をすると決めた裕子は意を決して外に出た。裕子が寮の玄関から出るなり、彼女の背後では残った生徒たちがバリケードを組みなおしていく。万が一裕子が襲われても逃げ場がなくなる格好になるが、裕子自身が生徒たちに命じたことだった。教師として、生徒の命だけは守らなければならない。
用務員用の白いゴム長靴を履き、足首ほどの高さまで積もった雪を踏みしめる。雪と寒い風が吹き付ける中だったが、少年はじっと寮の外に立ったままだった。しかし先ほどまで掲げられていた両手は下ろされ、右手が腰に当てられている。よく見ると、太腿のホルスターに収まった拳銃を、いつでも引き抜ける姿勢だということがわかった。
裕子は少年から数メートルの距離を置いて立ち止まり、まじまじと彼の身体を観察した。上には白いスキーウェアを着て、その上からライフルや短機関銃の弾倉が収まったポーチがいくつも付属するベストを身に着けている。下は迷彩服だが、カジュアルなタイプではなく自衛隊や軍隊で使われている本格的なミリタリー使用のものだと裕子は直感した。膝に当たる部分に、パッドが縫い付けられている。とっさに膝をついて射撃する際に、地面に転がる小石などで膝を痛めないようにするためだろう。
履いているのもオシャレなものではなく、ごつい編み上げブーツだった。もしもスキーウェアを着ていなかったら、自衛隊員と言われても信じているであろう服装だ。
「夜分遅くに突然すいません。いきなりで申し訳ないのですが、しばらくここに泊めてもらうことは出来ませんか?」
名を名乗り、最初に話を切り出したのは少年の方だった。「夜分遅くに」なんて、もう何カ月も聞いていなかった。銃を持った異様な格好の少年がそんな言葉を口にするのはギャップがあったが、笑える状況ではなかった。もしも少年にその気があれば、裕子はあっという間に死体に変えられてしまうだろう。
少年が肩から吊っているライフルや短機関銃は、どう見ても本物だった。こんな状況でモデルガンを持ち歩く人間がいるとも思えないが、それでも自分より年下の少年が当たり前のように銃を持っている光景は、教師である裕子にとってはある意味ショックな出来事だった。世界が変わってしまったという事実を、眼前に突き付けられたような気がした。
「もちろん迷惑はかけません。食糧も水も、自分の分は自分で賄えます。どこか雪と風が凌げる場所、物置でもいいんです。吹雪が収まり、車が走れるくらいまで雪が融けるまでここに置いていただけないでしょうか? 無論、その間自分に手伝えることなら何でもします」
少年はいつの間にかホルスターから手を放していたが、それでも完全に彼のことを信用できないと裕子は思った。こちらにロクな武器が無いことを知れば、彼はどんな行動に出るだろうか?
顔は笑っているが、目は笑っていない。右目の上下に走る傷痕の奥に見える瞳には、何の感情も見いだせなかった。口にする言葉も、ぞっとするほど心が篭っていないように聞こえる。よく出来た音声ソフトが入力された言葉をそのまま発している、あるいはロボットが喋っている。そんな印象を受けた。
「あの、あなたは一人なの? 他に友達とか仲間は?」
仲間、という単語が出た時、一瞬だけその表情が揺らいだように見えた。しかし「いません、自分ひとりです」という言葉が即座に返ってきて、勘違いだったかと裕子は思う。確かに少年の周囲に他に人影は見えないが、校門の外に停められた車の中はどうか? あるいは森の中で仲間が息を潜め、こちらを襲うタイミングを窺っているとか?
――――――いや、ここは彼を信じよう。ニュースでは暴動だの殺人だの暗いことばかり報じられていたが、全ての人間がそうなってしまったわけではないだろう。彼は純粋に、安全な場所を求めてここに来たのだ。裕子はそう思うようにした。世界が大きく変わってしまった事実を、今なお彼女は信じたくは無かった。
それに今の自分たちには、少年の持つ情報が必要だった。外がどうなっているのか、それをこの9か月間学院に引きこもっていた彼女たちは知らない。
それにこの小百合女学院の教育理念は「信頼と友愛」だ。何ごともまず、相手を信頼すること。裕子自身在学中にこの言葉を耳にタコが出来るのではないかと思うほど聞かされてきたが、この理念は正しいと彼女は思っている。相手を信頼しなければ、何も始まらない。
「わかりました。とりあえず、今夜だけ宿泊を許可します。明日以降も滞在を認めるかどうかは、他の者と協議させてください」
「ありがとうございます。ところで、ここには何人くらいの方が生活しているんですか?」
素直に答えるべきか迷ったが、言うことにした。どの道、少年がやる気ならばあっという間に全員殺されてしまう。
「わたしも含め、11人です」
「……それだけの人数で暮らしてきて、よく物資が足りましたね」
「一応学校施設ですから、災害時には避難所になるように非常食なども備蓄してあったので」
それに加えて今年の三月には、消費期限が近い非常食と入れ替えるために、新しい保存食が大量に運び込まれてきていた。期限切れが近い食料を廃棄する直前にパンデミックが起きたため、学院には通常の二倍の量の非常食が残された結果となったのだ。それに加えて食堂の冷蔵庫にあった生鮮食品などは、生徒の急な一時帰宅によってだいぶ余っていた。葵の発案で電気が止まる前にそれらを塩漬けにしたり日干しにすれば、11人が半年以上を楽に暮らせるだけの食料にはなった。
学院には園芸部が使用していた温室があり、今はそこで野菜や果物を育てている。微々たる量だが、貴重な食料だ。
「校舎を使ってください。後で毛布を運ばせます」
「いえ、お気遣いなく。寝具は自分で用意してありますから」
「それと、武器の持ち込みは遠慮して頂きたいのですが」
裕子は少年が一瞬、獲物を品定めする狩人の顔をしたのを見逃さなかった。武器を車に置いていってほしいという裕子の言葉に、少年は困ったような顔をした。
「それは……拳銃もですか?」
「出来れば武器はナイフの一本に至るまで、校舎に持ち込むのは遠慮して頂きたいんです」
「泊まらせてもらう立場で図々しいと思うかもしれませんが、それだけは承服できないですね。わざわざ余所者である僕を迎え入れてくれたあなた方を疑うわけではないですが、こちらも今まで散々酷い目に遭って来ている」
「ここは安全ですよ。今まで襲われたことなんて一度もありません」
「感染者には、でしょう? 僕は同じ人間に殺されかけたことが何度もある。あなた方もそんな連中だとは思いたくはないが、今は何が起きるかわからない時代です。申し訳ないが、武器の携行を認めていただきたい」
「許可しない、と言ったら?」
少年の目がすっと細められる。無言が、彼の答えだった。
数秒間のにらみ合いの後、先に口を開いたのは少年の方だった。
「では、せめて拳銃とナイフだけでも。ライフルと短機関銃は車の中で厳重に保管します」
「……わかりました。でも、それだけですよ?」
「大丈夫ですよ。誰かに襲われでもしない限り、銃の出番はやって来ないですから」
むしろ少年が銃を使って何かしでかす事の方が恐ろしかったが、そんなことはしないだろうと裕子は願った。銃と弓矢じゃ、どう考えても勝負にならない。彼が暴れはじめたら、自分たちにはなす術がない。
それに女性ばかりの環境に男子が一人、というのもまずいだろう。裕子は性善説を信じる人間だが、それでも男は皆野獣と昔友達が言っていた言葉がなぜか頭を離れない。特に警察が機能していないこの状況下では。
しかし、少年が味方になってくれたら心強いだろうという気持ちもあった。今の裕子たちは外で何が起きたのか、そして何が起きているのかを正確に把握していない。テレビもラジオも使えない今、自分たちで直接確認するか、あるいは伝聞に頼るしかない。少年から今の外の世界について、正確な情報を訊き出しておきたいところだった。
そして学院の外がテレビやラジオで報じられていたように無法地帯と化しているのならば、その時は武器が必要になる。争いは良く無いことだと学院にいた時は散々教えられてきたが、それでも戦わなければ自分や生徒を守れない時が来るかもしれない。そうなった時、少年の銃があれば心強い。
何せ教え子と同い年の少年ですら、銃を持っているのだ。モヒカンに肩パッドとはいかないものの、暴徒がいるとしたら彼らも銃を持っている可能性も高い。モップの柄や和弓では、相手にならないだろう。
少年が何を考えているのかはわからないが、もしも彼に敵意が無ければ学院に滞在して欲しいところだった。しかしそれに反対する生徒も必ずいるだろう。裕子は大学時代に男と接したので今はそうでもないが、中学高校と女子校育ちで男子に免疫のない者もいる。普段接したことのない男子に恐怖感を抱くのも、ある意味当然のことだった。中にはそういった男性恐怖症から、少年の滞在に反対する者も出てくるはずだ。
まずは少年が友好的か、少なくとも害意を持っていない人間かを見極める必要がある。そしてもしも彼が裕子たちを手助けしてくれそうな人物だったら、その時は学院に留まることをお願いしてみよう。相変わらず感情の伺えない少年の瞳に若干怯えつつも、裕子は最年長者として恐怖を見せないよう少年と対峙し続けた。
それにしても、この9か月間一度も外に出たことがないとは。裕子から車を敷地内に乗り入れる許可をもらった少年は、フロントガラスに積もった雪を払いつつ思った。きっとこの学院に留まっている者たちは、外の悲惨さを知らないのだろう。
そう考えると彼女たちが羨ましくもあり、そして妬ましいとも感じた。僕が全てを失い、辛い思いをしている時でも、彼女たちは充実した施設で今までぬくぬくと暮らしていたのだ。友達と一緒に平和な学園ごっこをしながら、来るはずもない救助を待ちぼうけしていたのだろう。
これが自分勝手な思いだということは、少年も自覚している。彼女たちはただ「運」が良かったのだ。そして自分にはそれがなかった、それだけのことだ。そう割り切ると、急速に裕子たちへの嫉妬や怒りといった感情が消えていく。何ごとも「運」だと割り切ることが大事だと、少年は仲間たちを失った時に理解した。
既に雪はブーツの中に入ってきそうなほどの高さまで積もっていた。雪も止むどころか、勢いを増してきている。この分では、学院に留まるのは一日だけでは済まないだろう。雪が融けるまで、ここで待つしかない。
裕子が武器の持ち込みを認めないと言った時には、最終手段を採るつもりだった。もしも彼女が拳銃の持ち込みすら容認しなければ、少年はその場で裕子を射殺していただろう。この学院の人間がろくな武器を持っていないことには、薄々気づいていた。ほとんど素手に近い11人を殺害するのは、赤子の手を捻るようなものだ。武器も持たずに知らない人間のところに身を寄せるのは、目隠しで地雷原を歩くのと同じくらい自殺的な行為だと少年は思っていた。
重い門扉をスライドさせ、動きの鈍いワゴン車をどうにか校舎の昇降口に設けられたポーチの下まで走らせる。雪で車が埋まってしまったら、車内の荷物が取り出せなくなる。そうならないためにも、雪を凌げる屋根がある場所が必要だった。
ポーチの下に車を停めると、鍵を外して車から降りる。そして車体後部のドアを開くと、待っていた裕子が息を飲んだ。
「……これ、全部本物?」
そう指差した先に並ぶのは、少年が苦労して集めてきた銃や弾薬だった。ほとんど狩猟用の散弾銃やライフル銃だが、裕子は本物の銃を見ること自体が初めてなのだろう。
「本物ですよ、それが何か?」
裕子は何も言わなかった。約束通り、自動小銃と短機関銃は車の中に置いていかなければならない。少年は後部席の隅に放ってあった金属製のチェーンを手に取ると、それを並んだ銃のトリガーガードの中に通し始めた。
万が一彼女たちの気が変わり、銃を奪おうとしてもそれを防ぐための措置だった。普段はいつでも使えるように銃をロックなどはしないが、今は状況が状況だ。無用な争いを防ぐためにも、少年は裕子の指示に従うことにした。どの道、相手が銃を持っていないのならば、拳銃だけでも十分制圧できる。
チェーンで盗難防止策を施した銃にブルーシートを被せ、寝袋や食料が入った大きなリュックを車から降ろしてドアを閉める。リュックがずっしりと重たいのは、中に入っているのが生活用具一式だけではないからだ。
少年はあくまでも「ライフルと短機関銃」を持ち込まないと言っただけで、「散弾銃」については言及していない。裕子が聞いたら「話が違う」と怒るかもしれないが、油断は出来なかった。万が一の事態に備えて、高火力な武器も身近に置いておく必要がある。拳銃だけで十分かもしれないが、念には念をだ。
リュックの中にはソードオフの散弾銃と、自衛隊の9ミリ拳銃が一丁ずつ入っている。ギリギリまで銃身を切り詰めたソードオフショットガンは、リュックに十分隠せるほどの短さになっている。もしも学院の者たちが少年にとって脅威になった場合は、これに頼る時が来るだろう。
しかし裕子はそのことに気づいていないのか、無防備にも少年に背中を曝すと、早速案内を始めた。
まずはここの学院にいる者たちが敵対的か否か、そして使える人間かどうかを確かめなければならない。もしも敵対的で攻撃を仕掛けてくる気配があれば、その時は言わずもがな。友好的でも使える人間でなければ……その時はその時だ。
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