第五九話 極大射程のお話
開けたままの窓から乾いた銃声が聞こえてきた。銃声は二度、三度と連続して響き渡り、窓ガラスが音を立てて粒状に砕け散る。一発が車内を貫通し、後部の窓に命中して蜘蛛の巣状のヒビを入れた。
「何が……!」
思わずブレーキを踏みかけたが助手席のナオミさんが足を伸ばし、僕のシューズの上から思いっきりアクセルペダルを踏む。最初の銃声で目が覚めたらしいナオミさんは、何が起きたか既に把握したようだった。
「止まらないで!」
その叫び声と共に、横から手を突き出してハンドル操作を奪い取る。踏まれた足は痛かったが、そんなことは気にならないくらい状況は切羽詰まっていた。あのマンションに潜む狙撃手から、どうやら銃撃を受けているらしい。
「なに、何が起きてるの!?」
同じく目が覚めたらしい結衣に「伏せて!」と怒鳴り、ナオミさんは助手席から身を乗り出してハンドルを右に左に切る。再びマンションのベランダで銃火が瞬き、運転席側のサイドミラーが吹っ飛んだ。結衣が顔を強張らせた愛菜ちゃんを抱いて、頭を低く下げる。
銃撃は尚も続いた。五発撃ってから短い間が空き、それから再び五発発砲。一発一発を撃つ間がほとんどないから、どうやら使っているのは半自動式の小銃だろう。そして五発撃った後に間が空くのは、弾倉を交換しているから。装弾数が五発に制限された半自動式の小銃なら、日本でも猟銃として売っている。
銃撃に晒されながらも、頭の片隅では冷静にそんなことを考えていた。とはいえ目の前で着弾の火花が散る度に、意識が現実に引き戻される。道路を走っていたら、いきなり狙撃される。これではまるで中東かアフリカの紛争地帯ではないか。
同じ人間に襲われるかもしれないという可能性は、大沢村での一件から常に頭があった。しかしこうもいきなり襲われるとは。どうやらあの狙撃手が襲ったのは、僕らが初めてではないらしい。先ほど道路に放置されていた死体や車両の大半は、今まさに撃ってきている狙撃手の犠牲者たちだろう。そしてこのままでは、僕らもその仲間入りをしかねない。
とはいえ、ここは見通しの良い一直線状の道路だった。そして道路の左右には店舗や住宅が立ち並んでいて、今すぐ車ごと狙撃手の視界から逃れるのは難しい。ガソリンスタンドの先に交差点があるが、そこに逃げ込むには狙撃手の真正面を通らなければならない。
「どこへ逃げればいいんです!?」
そう叫んでも、ナオミさんはハンドル操作で手一杯なのか答えてはくれなかった。車体を右へ左へと蛇行させて照準を定めにくくしているのだろうが、それでも車は十分な大きさがある。回避運動のおかげで辛うじてフロントガラスから銃弾が飛び込んでくることは無くなったが、代わりに狙撃手は車体前部のエンジン部分に銃撃を加えてくるようになった。
甲高い金属音と共にボンネットに複数の火花が散り、途端に咳き込むような音と共に白い水蒸気が噴き出す。タコメーターの数字が見る見るうちに下がって行き、アクセルを踏んでも加速しない。
どうやらエンジンが破壊されてしまったらしい。装甲車ならばともかく、ただの乗用車にはライフル弾を阻止できるほどの頑丈さは無い。ボンネットを貫通した銃弾が、エンジンに突き刺さったようだ。
「いい、車が止まったら皆降りて! 降りたら近くの物陰か、建物まで走って。絶対に立ち止まらないで、ジグザグに走ること! いい?」
答えている余裕は無かった。車のスピードが遅くなったせいで狙いが定めやすくなったのか、再び銃弾が殺到してくる。ルームミラーが銃弾を食らって消失し、頭のすぐ脇を掠めた銃弾がヘッドレストに突き刺さる。結衣と愛菜ちゃんの悲鳴が聞こえたが、僕も叫びたい気分だった。
それでも僕は、冷静に脱出の準備を始めていた。まずどこにも銃弾を食らっていないことを確かめ、腰のホルスターに拳銃が収まっていることを確認する。荷物が入ったリュックは後部席とトランクの中だから、それは置いていくしかない。生きてさえいれば、後で取り返せるかもしれない。
のろのろと惰性で前進を続けていたが、車はやがて完全に止まった。「降りて!」というナオミさんの声と共にドアを開け、続いて運転席と助手席の間に置いてあった散弾銃を掴んで降りようとした。が、散弾銃のスリングか何かが引っかかったのか、中々外へ引っ張り出せない。
ナオミさんも後部席に置いたライフルを取ろうとしたが、目の前で車体に着弾の火花が散るのを見て危険だと判断したのか、諦めて道路脇のスーパー目指して走り出した。後部席のスライドドアが開き、そこから結衣が飛び出す。一方運転席の後ろに座っていた愛菜ちゃんは、車体後部右側のドアを開けて車から降りた。
散弾銃は置いていくしかなさそうだった。ここで銃に拘ってもたついていれば、次の瞬間には頭を吹っ飛ばされるかもしれない。距離が縮んだことで狙撃手の銃撃はより正確になってきており、身を隠していた開きっ放しのドアが、銃弾を食らって穴が開いた。
「早く!」
そう愛菜ちゃんを急かし、身を翻して道路脇に放置された乗用車へ向かって走り出す。途中何度も足元でアスファルトが砕け、破片がジーンズの裾を叩いた。散弾銃もリュックも持たない身体は軽かったが、それでも車と道路脇のたった数メートルが、まるで何百メートルもあるように感じる。
銃声が響き渡る中、必死で手足を動かして走り続けた。そして道路脇、半ば歩道に乗り上げるようにして放置されていたワゴン車の車体後部の陰に、へっどスライディングを決めるようにして飛び込む。マンションとの距離は200メートルもないから未だに狙撃手の射程圏内だが、それでも視界から逃れることは出来たし頑丈な盾もある。
ひとまず安心だ。ほっと一息ついた僕は、愛菜ちゃんがまだこちらに来ていないことに気づいた。振り返って早く来いと叫ぼうとしたが、その言葉が口から出ることは無かった。
「愛菜ちゃん……!」
放置車両と僕らが乗って来た車、その間の数メートルの空間に愛菜ちゃんが俯せに倒れていた。足から血を流し、虚ろな瞳で僕を見つめている。自分の身に何が起きたかまだ理解していないのか、立ち上がろうとしてバランスを崩した彼女は、そこで初めて撃たれたことに気づいたようだった。
「……っぁぁあああぁぁああっ!」
悲鳴が上がり、撃たれた足を押さえようとした愛菜ちゃんの腕からぱっと血が飛び散り、あらぬ方向にねじ曲がる。二の腕から半ば千切れた腕がだらりと道路上に転がり、さらに甲高い悲鳴が空気を裂いた。
「愛菜ちゃ……」
思わず助けようとワゴン車の陰から飛び出しかけた瞬間、銃声と共に目の前の空間を銃弾が掠めて行く感触がして、慌てて顔を引っ込める。狙いを外したライフル弾が僕のすぐ目の前で地面に命中し、跳弾がレンタルビデオ店のショーウインドウに飛び込んでガラスを粉々に割った。
「どうしたの? 愛菜ちゃんは大丈夫なの!?」
車を挟んで反対側、スーパーマーケット側に向かったはずの結衣の声が響く。ドアが開け放たれた車越しに、同じく放置車両の陰に隠れた結衣とナオミさんの姿が見えた。しかしそちらからでは愛菜ちゃんの位置は死角になっているのか、まだ何が起きたのか把握していないらしい。
「愛菜ちゃんが撃たれた! このままじゃヤバい、何とか助けないと……」
「助けないとって、そっちにいないの!?」
「車のすぐそばに倒れてる。助けようとしたら撃たれる!」
何度か隙を伺っては素早く飛び出そうとしたが、少しでもワゴン車から身体を曝そうものなら途端に銃弾が飛んでくる。かといってこのまま愛菜ちゃんを放っておいたら、彼女は失血死してしまうだろう。手足を撃たれた状態では、自力で這ってくることも出来ない。
そんな僕をあざ笑うかのように、愛菜ちゃんの周囲でアスファルトが弾ける。激痛で呻く愛菜ちゃんが、銃撃から逃れようと必死に地面を這おうとしている。しかし右手は半ば千切れて骨と筋肉が剥き出しになり、左足は銃弾で肉がそぎ落とされている。そんな状態では一メートルも動くことが出来ない。
いや、狙撃手は実際に僕らをあざ笑っているのだろう。わざと愛菜ちゃんをいたぶって、助けようと飛び出したところを撃つ。胸糞が悪くなるような戦法だ。助けようとすれば撃たれ、自分の身を優先すれば目の前で仲間が死んでいくのを見続けなければならない。
僕が姿を見せないことにいらついたのか、飛んできた銃弾が僕に向かって伸びていた愛菜ちゃんの左手に命中した。左手の人差し指と中指が根元から千切れ飛び、一層大きな悲鳴が上がる。
「いたいよ……助けて……」
血と涙で顔をぐしゃぐしゃにした愛菜ちゃんが救いを求めるように僕を見たが、あの狙撃手がいる限り僕はここから一歩も動くことが出来ない。しかしナオミさんと結衣は車を挟んで道路の反対側にいるから、今愛菜ちゃんを助けられるのは僕しかいない。だが彼女を助けようと飛び出したら、次の瞬間には僕も銃弾に貫かれる――――――。
「マナの状態は?」
今度はナオミさんの声が聞こえた。結衣と違っていつも通り冷静そうなナオミさんだが、彼女の声がわずかに震えていることに気づいた。彼女も愛菜ちゃんが撃たれたことに動揺しているのかもしれない。
「手足を撃たれてます。早く手当しないと!」
「わかった。マナを助けるにはあの狙撃手を何とかしないといけないけど、ライフルは車の中にある。だから私が取ってきて狙撃手を倒すから、二人は奴の気を引いて」
一瞬ライフルと散弾銃を車の中に置きっ放しにしてきたことを後悔したが、あそこで武器に拘って移動していなければ、愛菜ちゃんに代わって僕が撃たれていただけだったろう。とにかく狙撃手を倒さなければ愛菜ちゃんどころか僕らの命も危うい。銃声を聞きつけた感染者がやってきたら、僕らは狙撃手と感染者の両方を相手にしなければならなくなる。
「なんとかって……何をすればいいんです? 銃を撃ちまくれとでも?」
「ここから撃ったって当たりはしないよ。いい、私が合図したら二人とも一斉に物陰から飛び出して走って! そうすれば狙撃手はどちらを撃つか迷う。その隙に私が車に戻ってライフルで奴を撃つ」
「飛び出してって、そうしたら今度はこっちが撃たれますよ!」
愛菜ちゃんは助けたい。だけどその一方で、死にたくないという気持ちが心の底で蠢いていた。
もしも僕と結衣の二人が一斉に別の方向へと走り出したら、確かに狙撃手は一瞬どちらを撃つか迷うかもしれない。しかしどちらを撃つか最初から決めていたら? 物陰から飛び出した瞬間に結衣が撃たれるかもしれないし、僕が死ぬかもしれない。
「でも今は他に方法が無い! いい? 3カウントで飛び出して。前に向かってジグザグに走り続けること、足を止めたら撃たれるよ!」
返事も待たず、唐突にカウントを開始する。こうなってはどうしようもない。
僕がここから動かなければ、少なくとも撃たれて死ぬことは無いだろう。しかし目の前の愛菜ちゃんは確実に死ぬだろうし、囮が結衣一人しかいなければ次に彼女が撃たれて死ぬ。何より狙撃手を倒さない限りここから動けないし、そうなれば待っているのは緩慢な死だけだ。
「クソッ……!」
そう罵り、ナオミさんの「今!」という声と共にワゴン車の陰から飛び出す。同時に結衣とナオミさんも行動を開始したのか、車の向こうで複数の足音が聞こえた。
即座に撃たれることを覚悟したが、銃弾が飛んできたのは僕らが飛び出してから一拍置いてからだった。今まで隠れていたワゴン車のフロントガラスが砕け散り、銃弾を食らったタイヤがバーストして車体が傾く。動揺しているのか、それとも僕らが走っているせいで狙いが定めづらいのか、今までの正確さがない。
まっすぐ数メートル走ってから右側へ、そしてまた少し走って左側へとジグザグに走る。どうやら敵は結衣ではなく僕に狙いを定めたらしく、さっきから銃弾が弾けているのは僕の周りだけだ。
ナオミさんはまだ車に戻っていないのか。そう思った次の瞬間、爪先に何かが当たる感触と共に突然視界が傾いだ。あっという間に眼前にアスファルトの道路が迫ってきて、とっさに両手で顔を庇う。
こんなところで転ぶとは。慌てて顔を上げると、ベランダの狙撃手がこちらを見ているのがわかった。距離は約150メートル。小さすぎてシルエットしかわからないが、確かにこっちを見ている。
銃口がこちらを向き、引き金に掛かった指に力が入るのが見えずともわかった。なんで僕はいつも、こう肝心な時に――――――!
次の瞬間、大きな銃声が轟いた。しかし僕は、死んではいなかった。
銃を撃ったのは狙撃手ではなかった。背後を振り返ると間一髪で車に辿り着いたらしいナオミさんが、銃口から硝煙が立ち上るライフルを構えている。そして今まで散々フラッシュのようにベランダで瞬いていた銃火は、もう見えなくなっていた。
「助かった……のか?」
いや、一人だけ助かっていなかった。
銃弾が飛んでこないことに安心して立ち上がり、背後を振り返る。そこで僕が見たものは、バケツをひっくり返したような量の血だまりの中で、僕に向かって手を伸ばしたままの姿勢でこと切れた愛菜ちゃんの姿だった。
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