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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第一部 喪失のお話
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第五三話 約束するお話

 勢いよく車が激突したにも関わらず、石塀は大きなひびが入り少し傾いだだけで、崩れることは無かった。よく見れば塀は切り出した一枚の石をいくつか組み合わされて作られた立派なもので、厚さもかなりあるらしい。

 反面、衝突した乗用車は大破していた。エンジンを収めた車体前部は完全に潰れ、車体もひしゃげている。どうにか運転席と後部座席は無事のようだが、いくら腕のいい修理工がいても二度と車が動くことはないいだろう。


「感染者、まだ生きてる!」


 ナオミさんの言葉で車の周囲を見回すと、二体の感染者が地面に倒れていた。うち一隊は車から振り落とされた拍子に轢かれたのか、あり得ない方向に曲がった足を引きずりながら、地面を這ってこちらに向かって来ている。もう一体はよろめきながらも立ち上がろうとしていたので、すかさずクロスボウを構えると引き金を引いた。

 至近距離から放たれた矢は、丸みを帯びた硬い頭蓋骨を貫通するに足る十分な威力を持っていた。眉間に矢が突き刺さり、感染者が糸が切れた人形のようばったり倒れる。両足を折られ地面を這う感染者の頭にナイフを突き立てたナオミさんは、「こっちに来て!」と言って車の方へと走り出していた。


 配線がいかれたらしい車のクラクションは、未だに鳴り続けていた。これだけ大きなクラクションの音が鳴り続けていれば、街中の感染者に気づかれてしまう。既に手遅れかもしれないが、早いところ止めなければならない。そうしなければ大勢の感染者がここに押し寄せて来るだろう。

 「あの人たちを助けないと!」と言って、結衣も駆け出していた。窓ガラスが粉々に砕けた運転席はエアバッグが作動していて、座席との間には人の姿も見える。後部座席にも人影があり、どうやら生きているように見えた。怪我人を助けなければという義務感と良心に駆られて僕も走り出したものの、面倒なことになったという思いもあった。


 もしこの車が一キロ先で事故を起こしていて、僕らがマンションの屋上から双眼鏡でその様子を眺めていたとしたら、恐らく助けようという気にはなれなかっただろう。何せリスクが大きすぎる。助けたいとは思っても、きっと行動には移さなかったはずだ。

 今回は単に目の前で事故を起こされたから、見て見ぬ振りが出来ずに乗っている人々を助けようとしているだけだ。本来何の関わりもない彼らを、助ける義理は僕らにはない。可能ならば助ける、それだけのことだ。


 乗用車には三体の感染者が取り付いていたが、二体は僕とナオミさんが始末した。ではもう一体はどこへ? その疑問は、衝突した車の脇に回り込んだ瞬間に氷解した。

 潰れ、車体の外装が紙屑のようにぐしゃぐしゃになった車のフロント部分と、衝突の勢いで傾きひび割れた石塀との間に、最後の一体は挟まれていた。胴体を車体と塀に完全に潰されていても、感染者は元気に動き回っている。その場から動くことはできないものの両手を振り回し上半身を前後に揺すり、運転席に向かって手を伸ばしていた。

 おそらく人間なら即死しているだろうが、感染者は驚異的な耐久性をもっている。内臓が破裂しているだろうから放っておいてもその内死ぬだろうが、車の乗員の救助作業の邪魔になるし、何よりこれ以上咆哮を上げさせ続けていれば、より多くの感染者がこちらを目指して大移動を始めかねない。いち早く車に辿り着いたナオミさんはナイフを順手に握ると、上半身をばたつかせる感染者の頭に勢いよく振り下ろした。


 感染者が動かなくなったのを確認し、早速車の中の人々を助けにかかる。ひしゃげたドアをこじ開けるナオミさんの反対側で、僕は車体後部の窓から車内を覗き込み、そして息を飲んだ。

 後部座席にはチャイルドシートが据え付けられていて、一人の若い女性がそれに覆いかぶさっていた。女性はシートベルトを外しているが、目立った外傷はない。もっとも頭を強く打つなどしていれば死んでいるかもしれないし、僕はそうであることを願った。そうであればこれ以上ここに留まらずに済む。


 しかし女性の身体の下のチャイルドシートから赤ん坊の泣き声が聞こえてくると、僕は思わず舌打ちした。この車には赤ん坊が乗っていて、おまけにこれだけの大事故だというのに生きている!


「子供が乗ってるの?」


 僕の隣に回り込んできた結衣が車内を覗き、チャイルドシートに覆いかぶさる女性の身体を退けようとした。が、次の瞬間その身体がわずかに動き、呻き声がその口から発せられる。


「ここ、は……?」


 なんで死んでいてくれなかったんだ、という言葉が頭に浮かんだ。

 

「後ろには何人乗ってる?」

「二人です、そっちはどうですか?」


 エアバッグを萎ませ、シートベルトをナイフで切るナオミさんの姿が見えた。車内に他に同乗者の気配はない。運転席に座っていたのは若い男で、車に乗っていたのは三人だけのようだった。若い男女に赤ん坊ということは、家族か何かなのだろうか?


「とりあえず、脈はある。まずはクラクションを何とかしないと……」


 しかしクラクションが鳴りやむ気配はなく、僕らではどうしようもなさそうだった。止めるにはダッシュボードのカバーを外して配線そのものをぶった切る必要がありそうだが、そこまでしている余裕はない。今は三人をとっとと起こしてこの場を離れるのが先決だった。僕らがもたもたしていれば、それだけ多くの感染者と戦う羽目になる。


「ちょっと、大丈夫ですか!?」


 そう言いつつナオミさんは気絶している男の顔に往復ビンタを食らわせていたが、僕らにはその必要は無かった。後部座席でチャイルドシートに覆いかぶさっていた若い女性は顔を上げると、「あなたたちは……?」と呟く。昔は染めていたのか、ショートカットの先端部分だけが金色で根元は黒く、耳たぶにはピアスの穴がいくつも開いている。いわゆるヤンママ、という奴なのだろうか?


「そうだ、ショウタは? ショウタは無事なの!?」


 そこではっとしたような顔で女性はチャイルドシードを覗き込んだが、泣き続ける赤ん坊を見て無事だと分かったらしい。安心した顔を見せる一方で、運転席の男も呻き声を上げて目覚めたようだった。


「あんたは……? 俺たちを助けてくれたのか?」

「まだ助かったとは言えないですけどね。あなたたちは? いったいどこから?」

「俺たちはあの化け物どもから逃げ出してきたんだ……。でも途中で何体かに追いつかれて、そいつらに気を取られて……」


 若い男は意識が朦朧としているようだった。あちこち泥で汚れた作業着を身に着ける男の首筋には、おしゃれなタトゥーが一点彫られている。


「大丈夫ですか? 今助けますから!」


 余計な事を言わんでくれ、と結衣に言いかけたが、僕は口を閉じた。さすがにこの状況でこの三人を放っておこう、なんて言ったら、後々尾を引くのは間違いない。だがもしこの場に居合わせたのが僕一人だったら、確実に彼らを見捨てて逃げていたはずだ。


「ショウタをお願い、この子を助けて!」


 そう言って女性がチャイルドシートから、まだ毛も生えそろっていない赤ん坊を抱きあげた。乗っていたのがまだ生後一年も経っていないであろう赤ん坊であることに、ますます僕は苛立ってしまう。流石に赤ん坊を見捨てるのは、いくら僕でも良心が咎める。

 割れた窓越しに赤ん坊を受け取った結衣が、その重さに驚いたようだった。続いて女性を外に出すべく、ドアを思いっきり引っ張る。車体が歪んでいるせいで中々上手くいかなかったが、ドアと車体の隙間にバールを突っ込んで前後に揺すると、ベキッという何かが壊れる音と共にドアが丸ごと外れた。


「歩けますか?」


 その問いに答えることなく女性は無言で外に這い出ると、結衣の手からひったくるようにして赤ん坊を取り返した。呆気に取られる結衣の横で赤ん坊に微笑んでいる女性を見ていると、途端に怒りが湧いてくる。危険を冒してわざわざ助けてやったのに、感謝の言葉一つもないのか?

 だがそれも仕方の無いことなのだろう。彼らは感染者に追いかけられた挙句事故を起こし、死ぬような目に遭ったのだ。そんな状態では思考は正常ではないし、他人に感謝を述べるよりも自分の家族の無事を喜ぶ方が先だということはわかる。


「お、おい! 早く俺も出してくれ!」

「わかってます、シートが足に挟まってて……ちょっと手伝ってくれる?」


 一方運転席の男を助け出す作業は、未だ難航しているようだった。運転席の方に行くと、若い男はシートとダッシュボードに足を挟まれていて動けないようだ。衝突で車体が歪み、本来十分なスペースがあるはずの足とダッシュボードの間の空間が潰れてしまったらしい。男が痛みに苦しんでいる様子はないから押し潰されているということではないのだろうが、足を抜くのは難しそうだった。


 僕も手伝おうと運転席のシートに手を掛けたその時、聞き覚えのある咆哮が周囲に響き渡った。

 感染者がこの近くに来ている。壊れたクラクションが鳴り続けているのだから当然と言えば当然だが、感染者の咆哮を聞いた男はパニックに陥ったようだった。青ざめた顔で早く足を抜いてくれと喚いたが、それがますます感染者を誘引しかねない行為であることに気づいていないらしい。ナオミさんが男を落ち着かせようとしたが、それより早く交差点から一つの人影が飛び出してきていた。


「いやーっ!」


 女が悲鳴を上げるより早く、僕は今までたすき掛けに携行していた散弾銃を構えると、引き金を引いていた。照準器の向こうに感染者の姿をとらえ、引き金を引く。途端に肩を蹴り飛ばされたような衝撃が走り、銃声が轟いた直後、感染者の頭が半分吹っ飛ぶのが見えた。

 近距離から散弾をまともに食らった少女の感染者は、頭を吹っ飛ばされて絶命した。銃声が響いてしまったが、さっきから大音量でクラクションが鳴り続けているのだ。撃とうが撃つまいが、感染者に僕らの位置はばれてしまっている。


「まずいですよ! さっさとここを離れましょう!」

「もう少し……足が抜けない!」


 ナオミさんの必死な顔を見ていると、そんな奴見捨ててとっとと逃げましょうよとは言えなかった。ロックを外して銃身を根元から折り、空のシェルを排出してポケットから新たな一発を取り出して装填する。女がさっきから早くシュージを助けろだの何だのと喚いているのが、さらに僕の気を逆なでした。


「また来た!」


 結衣の声で振り返ると、今度は別の交差点の影から数体の感染者が飛び出してくるところだった。車にクロスボウを立てかけると再び散弾銃を構え、発砲。ナオミさんもリボルバーを引き抜くと、迫りくる感染者へ向けて引き金を引いた。

 銃床(ストック)が取り付けられている散弾銃は、拳銃よりも命中させやすかった。それに散弾はある程度拡散するから、大雑把な狙いでも数十メートル先の感染者に十分命中する。上下二連式の散弾銃には当然二発しか弾が込められないが、僕が再装填している間、ナオミさんがリボルバーで感染者を仕留めていた。


 姿を見せた5体の感染者は、あっという間に地面に斃れていた。しかしこれで終わりではないだろう。この一家がやって来たことにより、この街の平穏は破られてしまった。今はまだこの辺りの感染者が少ないから、一度に襲ってくる数が少ないだけだ。

 余計な事を……と言うのが今の素直な気持ちだった。せっかく安全そうな拠点を見つけたのに、わずか一週間でそれをぶち壊されてしまった。この一家がこの街に来なければ、僕らは平穏に暮らせたはずなのに。


 鳴り続けるクラクション、早く出せと喚く運転席の男、何とかしてと結衣に縋る女、拳銃を手にしたもののおろおろとしている結衣、そして泣きじゃくる赤ん坊。それらの全てが僕を苛立たせる。今までは静かな毎日を送って来たのに、今は騒音だらけだ。


「よし、右足は抜けた! 君も手伝って!」


 その声で再び運転席に向かうと、ナオミさんはどうにかダッシュボードの下から男の右足を引き抜くことに成功していた。右足が抜けて助かると思ったのか、男の安堵した表情がわずかに残ったルームミラーに映る。


「は、早く左足も!」


 そうは言っても、左足はシフトレバーやサイドブレーキが邪魔でそう容易には引き抜けそうにない。それにダッシュボードは男の左足を包むようにして潰れているので、それこそレスキュー隊でも呼ばなければ男を運転席から出すのは難しいだろう。

 が、今は119番を呼んでも消防にはつながらないし、そもそも電話は使えない。もしも十分な機材がこの場にあり、十分な時間をかければ無事に男を脱出させることは可能かもしれない。しかし今手元にある工具はせいぜいバールくらいだし、僕らに残された時間は少ない。


 見ればさっきまでは何もなかった幹線道路の西側から、何かがこちらに向かって来ている。双眼鏡を覗くとその正体は、道一杯に連なって押し寄せて来る感染者の群れだった。

 静まり返った環境では、車のエンジン音は意外なほど大きく響く。この一家は車で逃走している最中に、大勢の感染者の気を引いてしまったのだろう。彼らはどうにか振り切ったと思っていたようだが、飢えた感染者たちは執念深く一家を追って来たらしい。車を追ってこの街にやって来た感染者の群れが僕らの元に殺到するのは、時間の問題と言えた。


「どんだけいるのよ、あれ……」


 まるで津波のように押し寄せて来る感染者の群れを見て、結衣が顔を青ざめさせた。あれだけの感染者がここを目指してやって来ているのだ、もはやこの街は安全とは言えない。


「ナオミさん、結衣とその女性(ひと)を連れてマンションに行ってください。僕はこの人を助けてから、後から追い掛けるんで」

「でも、一人じゃ……」

「何とかします。マンションには愛菜ちゃんもいるでしょう? この街はもうダメだ、先に行って脱出の準備をしていてください。何かあったら無線で連絡するんで」


 意を決して言った僕の顔をナオミさんは困惑した表情で見つめ返していたが、今は時間が惜しいと理解したのか、女性の手を引いて走り出そうとした。しかし赤ん坊を抱えた女性は、まるで玩具を買ってもらえず駄々をこねる子供の用に、その場から動こうとしない。


「アタシはシュージと一緒じゃなきゃどこにも行かないよ! 行くんならシュージも連れてって!」


 一瞬本気で撃ち殺そうかとホルスターに手が伸びかけたが、そんな女性をなだめたのは、以外にも運転席から未だ抜け出せずにいる、シュージと呼ばれた男だった。


「ユーコ、頼むからこの人たちの言うことを聞いてくれ。ショウタはまだ赤ん坊なんだぞ、心中したいのか?」

「でも、シュージ……」

「大丈夫、俺はまだこんなところで死ぬつもりはない。後から追い掛けるから、先に行って待っていてくれ。もう少しで足も抜けるし、すぐに会えるから」


 泣ける光景だな、と思った。もしもこれが映画か何かだったら、このシーンで観客は感動して涙を流すだろう。このシュージという男、ヤンキー系に見えて意外といい男なのかもしれない。

 しかしこれは映画じゃない。全てが感動的な結末に終わるとは限らないし、むしろ逆のことの方が多いのだ。


「うん、わかった……絶対後から来てね!」


 ユーコと呼ばれた女は何度も名残惜しそうにこちらを振り返っていたが、結衣とナオミさんに手を引かれてマンションの方へと走り出した。未だに赤ん坊が泣きじゃくっているのが気になるが、この辺りの感染者はさっきあらかた片付けただろう。しばらくは、マンションへ向かうナオミさんたちを襲う感染者はやってこないはずだ。


「……悪いな、手を煩わせて」

「まったくですよ」


 そう言いつつ、一応助手席の方に回って挟まったままの左足の様子も確認する。僅かな隙間が空いているが、引っこ抜くのは難しそうだ。

 いっそのこと切断するか? 思わず斧を収めたホルダーに目が行ったが、ここで男の足をぶった切って車から出したとしても、その後誰が歩けなくなった彼を引きずって行く? 第一足を切断したら大量の出血は免れられない。充分な医療知識も技術もない僕では、失血死させるのがオチだ。

 かといっていつまでもここに留まるわけにはいかない。背後を振り返れば、道路を埋め尽くす感染者の群れの先頭集団との距離はどんどん詰まってきている。このままのペースではあと数分で、この場に感染者が到達するだろう。


 何度もダッシュボードを揺すったり、バールを突っ込んで動かそうとしたものの、車体そのものが大きく歪んでしまっているらしい。足首辺りまではどうにか抜けるようになったが、踵やつま先がつっかえてそれ以上動かない。エンジンカッターか何かを使って車体そのものを解体しなければ、男を車から出すのは難しいだろう。

 足が抜けるかもしれないと安堵の表情を見せていた男も、バックミラーに映る感染者の姿がどんどん大きくなってきているのを見て、不安の気持ちが大きくなってきているらしい。


「なあ、頼む。早く足を抜いてくれ、でないと奴らに食われちまう」

「わかってますよ。抜けろこの……!」


 僕だって出来れば人助けはしたい。だが今はそうも言っていられない状況だ。感染者との距離は、既に500メートルを切っている。あの俊足ではもうすぐこの辺りに、感染者の津波が到達してしまう。



 

 何度か試してみたが、男の足は最後まで抜けることは無かった。こうなればもう、僕にはどうしようもない。


「頼む、早く足を抜いてくれ! このままじゃ殺されちまうよ!」


 男は狂ったように足をばたつかせていたが、外に出ることは叶わない。未だ壊れたクラクションは鳴り止まず、その音が感染者の群れをこの場に引き寄せてしまっている。


「悪いけど、僕にはどうしようも出来ない。本当に悪いな」

「おい、嘘だろ! 見捨てないでくれよ、俺がいなきゃショウタはどうなるんだよ!」

「悪いけど、これは仕方の無いことなんだ。僕はあなたと心中するつもりはない、僕はまだ死にたくないんだ」


 伸ばされた男の手が僕の腕を掴んだが、それを無理矢理振りほどいて車から離れる。「おい、待てよ! 助けてくれよ! ここから出せ!」という男の怒声が響いたが、もう僕に彼を助けるつもりは毛頭なかった。

 彼らのせいで安全な場所になりかけていたこの街は、感染者の巣窟になってしまうのだ。せっかく見つけた拠点も手放さなければならないのに、助けようとしただけでも感謝してもらいたいものだ。彼らが事故さえ起こさなければ、いや、そもそもこの街に逃げてこなければこんなことにはならなかったのだから。

 そんな彼らのために命を落とす義理は僕にはない。見ず知らずの他人を助けようとして死ぬならば、見捨てても生き延びる方を僕は選ぶ。


 車体に立てかけてあったクロスボウを拾い上げ、ナオミさんたちの後を追って走り出す。既にナオミさんたちは、マンションに辿り着いているだろうか?


「いやだ、死にたくない! こんな死に方あんまりだあっ!」


 交差点を曲がる時に一度だけ振り返ると、既に感染者は事故を起こした車の周りに集まりつつあった。あのまま僕も彼と一緒に留まっていたら、今頃感染者の餌食になっていただろう。かといって車から動けない男を守りきるには、手持ちの弾薬は少なすぎるし感染者の数は多すぎた。

 喰われる前に安楽死させてやろうかとも思ったが、それでは全ての感染者が僕に狙いを変えて追ってくるだろう。僕が安全にここから逃げるためには、男を犠牲にするしかなかった。彼が悲鳴を上げて暴れ続けてくれれば、感染者の注意はまずそちらに向く。


 そう、これは仕方のない犠牲なのだ。いくつか角を曲がり住宅街に入ったところで背後から男の絶叫が聞こえてきたが、僕は振り返ることなくマンションを目指して走り続けた。

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