エピローグ-7 ご唱和ください我の名をなお話
閉じた瞼越しに突き刺さる眩しい陽光が意識を現実に引き戻した。
僕は、俺は、私は、自分はいったい誰だ。ここはどこだ?身体が揺れ、左半分が見えない視界の中、明るい太陽の光が目に突き刺さる。
急いで太陽から目をそらしたつもりだったが、首を横に振るだけでも亀の歩みがごとく緩慢な動作しか出来ない。そして視界の端に映る窓を見て、自分が今どこかの部屋の中にいるらしいと気づく。
窓越しの陽光から目を背けると、白い天井が目に入った。蛍光灯はあるが、電気が点いていない。窓から差し込む光だけが唯一の光源だ。
自分が寝かされているのはベッドで、両隣に並ぶ誰もいないベッドを見てここが病室であるらしいと気づく。自分の寝ているベッドの向かい側には開いたままのドアがあり、廊下に繋がっているのだろうが誰の姿も見えない。
猛烈に喉が渇いていた。誰か呼ぼうとして口を開いたが、声の代わりに出てきたのは唸り声だけだ。
上半身を起こそうとしたら腕が何かに引っ張られる感触がした。身体に被せられている布団を払いのけようと思ったら腕が持ち上がらない。手首で何か固いものが擦れる感覚がして、両手を手錠か何かでベッドに拘束されているらしいと推測した。両足も同じく拘束されているのか、ほんの少ししか持ち上がらない。
どうして自分は拘束されているんだ。訳も分からずとにかく手足を振り回し、戒めを外そうとする。手錠がベッドのフレームとぶつかるやかましい金属音が響き、すぐに正面の開きっぱなしのドアから複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。
「目が覚めたようです…!」
女の声が聞こえる。視線を正面に転じると、出入り口から複数の人影が病室に入ってきた。
最初に入ってきた二人は青い迷彩服を着た白人と黒人だった。二人とも手には銃を持っており、その銃口はこちらに向いている。その後に続いて白衣を着たアジア系の男女が二人、日本語を話しているところから日本人のようだ。
「落ち着いてくれ、暴れないでくれ。私たちの言っていることがわかるか?」
医者らしき白衣を着た男が両手を広げ、宥めるように言う。その横では迷彩服を着た白人の男が、今にも銃を撃ちそうな剣幕で医者に言った。
「Doc, no way in hell this thing’s human. Let’s shoot it already.(先生、絶対にこいつは人間じゃねえ。殺しちまった方がいい)」
「Listen, I need to check if he’s still conscious. Until I do, please don’t shoot him.(聞いてくれ、彼にまだ意識があるか確認する必要がある。それまでは頼むから撃たないでくれ。)」
どうやら兵士の方は自分を殺したがっているが、医者が彼らを抑えているようだった。それと同時に自分が英語の会話を理解していることに気づく。
「あー、日本語はわかるか? 頼むから暴れるのを止めてくれ」
このままでは兵士の方に撃たれそうだ。そう理解し、振り回していた手足を止めた。その様子に、医者と兵士の両方が目を丸くするのがわかった。
声を出そうとしたが、相変わらず喉はガラガラでまともな単語すら出てこない。だが何度か深呼吸をして、ようやく言葉を捻りだすことに成功した。
「…水を、くれ…」
その声はまるで老人のようなかすれた声だった。部屋にいた全員が丸くしていた目を今度は見開き、信じられないとでも言うかのように顔を見合わせる。
「Jesus Christ...」
もう一人の兵士がそう呟いた。医師が慌てて看護師らしい女性に水を渡すように指示し、看護師が病室の机に置いてあった水差しを手に取り差し出してくる。
必死にその吸い口から水を口に流し込み、ガラガラに荒れていた喉が潤いを取り戻していく。あっという間に水差しは空になったが、「もう一杯…」と言うと看護師が慌てて水を汲みに行った。
満足するまで水を飲み終えると、途端に医師が恐る恐るといった感じで顔を近づけてきた。その瞳には恐怖と困惑の色が浮かんでいる。
「私の言っている言葉がわかるか?」
「ああ…」
「そうか、それはよかった。まず君の名前を教えてもらいたい。君は誰だ?」
「俺は…」
そこでふと気づく。
「俺は、誰だ…?」
「…それにしても、なんか不気味な奴だな」
焚火を囲む大人の一人がそう呟く声が聞こえた。思わず「不気味?」とアキラが聞き返すと、猟銃を手にしたタナカが彼の顔を見て続けた。
「なんか怪しい奴だと俺は思う。このご時世にふらっとやってきて、何の見返りもなく手助けするような奴がいるわけないだろ」
「でも僕たちはあの人に…」
「もしかしたらそうして安心させて、油断したところを襲ってくるつもりなのかもしれない。こっちが数では上だが、気を抜くな」
アキラたち一行のリーダーであるタナカは、そう言って膝の上に置いた猟銃に手を掛ける。その様子を見てアキラは、彼らから数十メートル離れた場所でぽつんと小さく燃える焚火の方を振り返った。その焚火の前には、アキラたちに背を向けるようにして一人の男が救っている。北を目指して旅を続ける少年たちの一行の前に突然現れ、窮地を救った男はこちらを振り返ることもなく焚火だけを見つめているようだった。
突然の政府によるラジオ放送が始まってから1年近くが経過していた。北海道に安全な場所があるというその放送は感染者たちから息を潜めて生き残っていた生存者たちに希望を与えた半面、本州では一切救助活動を行う予定は無いとの内容も生存者たちを絶望させるには十分なものだった。
今は無理でもいつかは救助が来るだろう。心のどこかではそう期待していた生存者たちにとって、その放送は残酷なものだった。かといってずっとどこかに隠れ続けることもできない。人がいなくなったことで町中に大量に残されていた物資もいつかは無くなるし、今いる場所がずっと安全だという保証もない。
何より各種燃料の劣化が進んでいることが最大の問題だった。ガソリンは揮発しやすく、時間が経つごとにどんどん劣化が進んでいく。町中に放置されている車とそれに入れっぱなしのガソリンはいくらでもあるが、問題なくエンジンがかかるかというと話は別だった。
軽油であれば劣化の進みは遅いが、それでもいつかは車を動かせなくなる日がやってくる。そうなった時に歩いて北海道を目指すことはほぼ不可能であり、移動するのであれば車が使える内にしなければならなかった。
アキラが行動を共にしているグループも、もとは中部地方に住んでいた人々の集まりだ。感染者から息を潜めて暮らすこと1年以上、その間に何人も仲間を感染者に殺され、また病気や怪我で死んだ者も多かった。
政府の放送が始まってから大人たちは北海道に行くかこのまま隠れ続けるかの議論でもちきりになり、それこそ怒鳴り合いやつかみ合いになってまで意見が割れたが、中学生だったアキラには特に関係のないことだった。
結局アキラが身を寄せていた生存者のグループは二つに割れた。一つは物資が尽きるまでその場にとどまり続け、いつか政府が救助隊を派遣してくれることを期待して隠れて生きるグループ。もう一つは車を動かせるうちに北へ向かい、自力で北海道を目指すグループだった。
アキラは北を目指すグループについていくことにした。両親も友人も既に死んでおり、故郷にとどまり続けることに意味は無かった。何よりその場に留まっていたとしても何かが好転する兆しもない。政府の放送でさんざん救助は来ないと言われているのだから、それを期待しても何の意味もない。製造から日が経ち燃料の劣化も進んでいる今の状況では、いずれ完全に身動きが取れなくなることは予想が出来ていた。
故郷を出発した時には30人ほどいたグループも、東北地方に差し掛かったころには20人と少しにまで減っていた。食料や燃料が十分にあるわけではなく、途中でどこかの町に立ち寄っては補給する必要があったのがその原因だ。
アキラたちのグループは途中で感染者の襲撃を受けたり、あるいは他の生存者が仕掛けていったらしい罠に引っかかって重傷を負ったりで、道中次々と仲間が命を落としていった。医者はいたが元は獣医であり、さらに医薬品も十分あるわけでもなかったのでちょっとした怪我でも死に繋がりかねない。
そして今日も立ち寄った町での物資調達中、アキラたちは感染者の群れに襲われた。猟銃やクロスボウ、警官の死体から入手した拳銃などで武装してはいたものの、感染者の数は圧倒的。当然逃げることを選んだ彼らだったが、徐々に近づいてくる感染者たちに死を覚悟したその時だった。あの男が現れたのは。
黒いコートを着て強盗かテロリストが身に着けて居そうな目出し帽を被ったその男はコートの下から取り出したマチェットと、銃身をギリギリまで切り詰めて取り回しを良くした二連式散弾銃、そして背中に背負っていたライフル銃を巧みに使い分けてアキラたちに迫っていた感染者を一掃した。そして彼らを車列まで護衛した後、「安全な場所がある」ということでこの郊外のキャンプ場まで生存者たちを案内までした。
戦闘は専門外のアキラでも、男が戦いなれていることだけはわかった。このキャンプ場は人が立ち入らなくなってから久しいらしく、草は伸び放題であちこち土砂が崩れているところもある。しかし市街地から離れているので感染者から襲撃される恐れは少ない。
目出し帽の男は今夜は動かない方がいいと言った後、ひとまず生き延びたことを喜ぶアキラたち生存者のグループから離れ一人小さな焚火と向き合っている。アキラたちも最初こそ助けてもらったことを有難く思っていたが、時間が経つにつれ冷静さを取り戻し、「そもそもあの男は何なんだ」という話を誰からともなく始めていた。
「だいたい、あんなところに一人でいたってのがおかしいと思わないか? それに俺たちを助けてあいつに何の得がある?」
そう疑問を呈したのはタナカだった。彼も男に助けてもらったうちの一人だが、今は猜疑心の方が強いらしい。もっとも彼が言っていることも一理あり、それに同調するメンバーも多かった。
アキラたちは知らなかったが、どうやらあの町には感染者が大勢いたようだ。そんな危険な場所に一人でいたというのだろうか。たとえ食料や水、医薬品などが手に入るとしても、感染者に殺されてしまえば意味は無いというのに。それともそれらを全て倒して回っていたとでもいうのか。
それに彼に自分たちを助けるメリットは無いだろう。もしも町の中で隠れて生きていたのだとしたら、アキラたちが感染者に殺されてくれた方が得をするはずだ。息を潜めていれば感染者はアキラたちを襲いに行くし、アキラたちが死んだ後で持ち物を回収すれば自分のものにできる。助けに行ったところで危険しかなく何のメリットも無いのだから、あのコートの男がなぜ自分たちを助けようとしたのか理解できないのも当然だった。
それにこのキャンプ場が安全だと知っているのも疑いを深める一因となっていた。道中車列を案内する際に男はここに来るのが初めてではないというような口ぶりだったが、以前にも同じように生存者をここに連れてきたことがあるのだろう。となると彼らはどうなったのだろうか。
「もしかして助けたと思わせて油断したところで仲間を手引きするつもりなんじゃ…」
「周辺の警戒は怠らない方がいいな。あいつからも目を離すなよ」
ひそひそと言葉を交わす大人たちの様子などつゆ知らずといった感じで、コートの男は相変わらずこちらに背を向けていた。その背中は焚火を見つめたまま微動だにしない。彼は一体何を考えているんだろうか。アキラは少しだけ気になった。
「おいアキラ、これあの人に持って行ってやれ」
突然声を掛けられ視線を前に戻すと、目の前に湯気を立てるカップラーメンの容器があった。それを差し出しているのはアキラより一回りほど年上のオノデラという男だ。
元は造形会社に勤務していたというオノデラは、北を目指す生存者グループの中でアキラの次に年少者だ。そのせいもあってか何かと二人は一緒に行動を共にすることも多く、今日も町での物資捜索のパートナーとして行動を共にしていたのもオノデラだった。
「いいんですか? カップラーメンなんて貴重品を見ず知らずの人に渡しちゃって」
「命を救われた礼としちゃ安いもんだろ。それにこれは俺たちが今日見つけてきた分だ、一個くらい別にいいだろ」
「それはそうかもしれないですけど…なんで僕が?」
「こういうのは子供が持って行った方が警戒されないんだよ。な、頼むから」
そう言われては仕方がない。アキラは熱湯が注がれて蓋を閉じたカップラーメンを、少し離れたところに座る男のところへ持っていくことにした。カップラーメンなどの保存食も最近では貴重品となりつつある。賞味期限はとっくに切れているし、食べられたとしても以前のような美味しさは無い。それでも数少ない温かい食事なので、生存者たちの食事のメニューとしては豪勢な部類に入ると言えた。
「あの、すいません」
アキラが背後からそう声をかけると、男が振り返り目出し帽を被った顔がこちらを向いた。その左目に光が無いように見えたのは、夜の暗闇のせいだけではなかった。左目に瞳が無い。
「ああ…君か…どうかしたのか」
町で助けられた時に男の声は聞いていたが、まるで年寄りのようにしわがれた声だ。目出し帽を被って人相がわからないこともあり、アキラはこの男が本当は老人なのではないかとすら一瞬思ってしまった。
「あの、これどうぞ。今日助けてもらったお礼です」
「なんだ、そんなこと気にしなくてもいいのに…だけど俺も腹が減っていたところだし、有難くいただくよ」
そう言って男はアキラからカップラーメンを受け取る。すでにお湯を注いでから3分以上が経過していたが、男がラーメンに口をつける様子はない。割り箸も一緒に渡しておいたのですぐに食べられるはずだが。
「…食べないんですか? 毒とかは入ってないですよ」
「ああ…いや、それを疑っているわけじゃないんだが…」
光が宿る右目がアキラを向く。目出し帽を被っていなければ、きっとその下は困り顔になっているであろう口調だった。
「すまないが、しばらくあっちに行っててもらえないか?」
「え? 僕なんか迷惑かけちゃいました?」
「そういうわけじゃないんだが…俺はシャイでね、人に食事を見られると恥ずかしいんだ」
感染者を数体、あっという間に倒せるような男がシャイも何もないだろう。そう言おうかと思ったが、止めた。口を閉じたのは助けてもらった男に嫌なことを無理強いさせるのは失礼だと思ったのと、それ以上に目出し帽の穴からわずかに覗く男の瞼が、酷く爛れていることに気づいたからだった。
「…では、僕はこれで」
「ああ、ありがとう」
アキラは男に背を向け、仲間の元へと歩き出した。が、やはりどうしても気になって背後を振り返ると、男が目出し帽の口のあたりを捲って、ラーメンを食べているのが見えた。
焚火の明かりに照り返されるその素肌は、やはりどこか醜く見えた。
翌日の朝早く、アキラたち一行の車列はうち捨てられたキャンプ場を出発した。目出し帽の男はしばらく動かない方がいいと言っていたが、リーダーのタナカが出発を強行したのだ。一刻も早く北を目指して進みたいという気持ちに加えて、この男を信用できないという気持ちも生存者たちの中にあったのも一因だった。
男は何とかアキラたちを引き留めようとしていたが彼らの出発の意志が固いことを知ると、せめてどこを通るかだけは教えてくれと迫った。危険な場所を知っているのでそこは避けるべきだという男の申し出をリーダーたちはますます怪しく思い、ほとんど彼を振り切る勢いで車列を出発させた。彼がどこかに潜んでいる仲間にルートを伝えて待ち伏せさせるのではと疑い、男の言うことにはほとんど耳を貸していなかった。
キャンプ場で黙って車列を見送る男を見て、タナカたちは殺さなかっただけでもありがたいと思ってもらいたいもんだと笑っていた。助けてもらった立場なのに…とアキラは思ったが、タナカたちと同様に男を怪しむ気持ちも捨てきれずにいた。
このご時世に人助けをするなんて馬鹿だ。誰かに優しくしたって見返りなんかないし、むしろ自分をさらに危険に晒すだけの行為に意味なんてない。アキラはそう思っていた。だから誰かを助けようとする奴なんて何か裏でよからぬことを考えているか、とんでもない見返りを要求してくるかのどちらかとしか考えられない。
男に命を救われたとはいえ、やはり危険な町を一人でうろつき、何の見返りも求めず他人を助けようとする彼は信用できなかった。だからアキラもキャンプ場に男を置いていくことをタナカが決めた際にはどこかほっとした。
しかし数十分後、アキラは男の言うことを聞いておけばよかったと後悔することになる。
数台の乗用車に分乗していたアキラたち生存者は、狭い山道を避けてかつての国道を走り北を目指していた。パンデミック初期の混乱で広い道路の大半は事故や警察による封鎖で使用できないことはわかっていたが、全ての道路が通れなくなったわけではない。しかし人里離れた場所にある狭い山道などは落石や路肩の崩壊で通れなくなっていることもあるし、あまりの狭さに転回もできないのでそんな場所に入ってしまったらひたすらバックで戻るか車を乗り捨てるしかなくなってしまう。
そう思いタナカたちは封鎖されていない場所を見つけて広い道路に車を走らせていたのだが、それがまずかった。アキラたちは当然感染者に備えて車の中から外を警戒していたのだが、先頭の一台が銃声のような破裂音と共にタイヤをパンクさせ、火花を散らしながらコントロールを失って道路脇のガードレールに突っ込む。その様子を目の当たりにした後続車両が急ブレーキを踏んだ途端、道路回りの草むらから複数の人影が立ち上がり、「動くな!」という叫び声が聞こえた。
草むらから姿を見せたのは10人ほどの男たちだった。数ならこちらの方が上だったが、半数以上が銃で武装している。そのうちの一人は自衛隊のものらしい自動小銃を手にしていた。
「こいつはマズいぞ…」
タナカはたった今ガードレールに激突した車に乗っており、中から出てくる様子はない。残った面々で戦うにしても、こっちが持っている銃の数の方が少ない。それに相手は自動小銃まで持っているのに、こちらの武器は銃刀法に則った仕様の猟銃や警察用の拳銃、そしてクロスボウが何丁かしかない。
既に包囲されてしまっているこの状況では、銃を取り出そうとした途端に撃たれるのがオチだろう。道路には釘か撒菱のようなものでも置かれているらしく、このまま強行突破はできない。かといってバックギアに入れてきた道を引き返そうものなら、その瞬間に銃弾が飛んでくるだろう。
「武器を捨てて両手を上げて降りてこい!」
車内にいる他の面々はどうすべきか顔を見合わせている。指示に従うべきか、下りて戦うか、それとも逃げるか。しかしどれを選んでも危険であることには変わりない。しかもそうこうしているうちに車列の後方にも武器を持った男たちが回り込んできていた。
迷った末に「…ひとまず、言われた通りにしよう」と最初に言ったのはオノデラだった。
武器になるものを置き、覚悟を決めてドアを開ける。そしてそのまま両手を上げてアキラたちは車から降りた。
そんな彼らに銃を突き付けているのは20代から30台と思われる男たちだった。自動小銃を持っているのがリーダーらしく、その他の面々も猟銃やクロスボウで武装している。オノデラとアキラに続いて他の車からも両手を上げて生存者が降りてきた。
「悪いがここは通行止めだ。通りたいなら持ってるもんを渡してもらおう」
「渡すって、何を…」
「持ち物全部だ。車、燃料、食料、武器、薬それと女…」
アキラたちに銃を向ける暴徒たちが最後の言葉に下卑た笑顔を浮かべる。警察が機能していないのをいいことに好き勝手している連中がいるとは噂で聞いたことはあったが、実際に遭遇するのはこれが初めてだった。いつかはそんな連中に出くわすかもしれないとは覚悟していたが、できれば一生出会いたくはなかった。
「そ、そんな…車まで取り上げられたら俺たちはどうやって…」
抗議の声を上げた生存者を、暴徒の一人がいきなり殴りつけた。その様子を見て他の者は皆黙り込み、殴られた男の呻き声だけが聞こえる。
「誰が喋っていいって言った?」
「お前ら全員殺してやってもいいんだぞ? それをやらないなんて優しいよな俺ら」
暴徒たちの間から笑い声が上がるのを見て、アキラは心底胸糞が悪くなった。こいつらと感染者のどちらがマシだろうか。感染者は余計に相手をいたぶろうとせずただ食い殺そうとするだけだから、まだ人間よりマシかもしれない。
「オラ全員両手を上げたままそこに並べ! 死にてえのか!」
暴徒が罵声と共に銃をアキラたちに突きつけた。彼らは本気だ。少しでも気に食わないと感じたら、簡単に誰かを殺すような連中だとアキラは悟った。そういう連中だからこそ生き残ってきたのかもしれないし、こうして他人を脅してものを奪うことに何のためらいもないのだろう。
アキラたちを道路に並ばせると、暴徒たちは早速車の中を漁り始めた。見つけた食料はその場で貪り食い、戦利品を手づかみにしてポケットに突っ込んでいく。
ガードレールに激突した先頭車では、タナカが呻き声を上げていた。どうやらかろうじて生きていたらしい。他に乗っていた連中も一命はとりとめたようだが、暴徒たちは重傷を負ったタナカたちを一瞥すらしなかった。
「あの…」
アキラが声を上げた途端、自動小銃の男が思い切り彼を睨みつける。
「おい」
そして銃口をアキラに向け、苛立ったように続けた。
「黙ってろって言ったよな?」
「でも、タナカさんたちがまだ生きて…」
「知るかバーカ」
瞬間、アキラの腹に暴徒の拳が突き刺さる。まるで腹が破れるかと思うほどの衝撃と痛みに思わずしゃがみ込んでしまったアキラを見て、他の暴徒たちが下品な笑い声を上げた。誰かが殴られているのを見て笑うなんて、やっぱりこいつらはまともじゃない。腹を抱えて呻きつつ、アキラはそう思った。
「もうめんどくせえな、いっそのこと全員殺しちまうか」
自動小銃を構えた暴徒のリーダーが舌打ちをして言った。その人差し指は引き金にかかっており、明らかに脅しではなかった。
他の暴徒たちもまるで玩具に飽きた子供のような顔をしてアキラたちに銃を向けている。仲間たちから悲鳴と命乞いの声が上がる中、アキラはふと遠くから何か音が聞こえていることに気づいた。
どうやらそれはエンジン音らしかった。殺されようとしている仲間たちと彼らをいたぶることに夢中な暴徒たちは気づいていないようだが、そのエンジン音はだんだん近づいてきている。
そして道路脇に放置された廃車の陰から一台のバイクが姿を現した。運転しているのは黒いコートに身を固め、目出し帽で顔を隠した男———アキラたちがキャンプ場に置いてきたあの男だ。
「なんだアイツ!?」
暴徒たちもバイクに乗って近づく男に気づいたらしい。一瞬だけ互いに顔を見合わせていたが、暴徒のリーダーが「あいつを殺せ!」と叫び、慌てて銃を構えなおした。
暴徒たちの銃が一斉に火を噴く。だが男はバイクを巧みに操り、さらに車体の陰に身を隠しながらこちらへと迫ってくる。一方で暴徒たちは銃に扱いには慣れていないらしく、狙いを外したり装填に手間取っている様子が見て取れた。暴徒のリーダーも構えた自動小銃の引き金を引き連射したが、反動で銃口は大きく上を向いていた。
コートの男がバイクでこちらに近づきながら、懐から何かを取り出すのが見えた。「伏せてろ!」とエンジン音に負けない大きさの男の声が響き渡り、アキラはとっさにオノデラたちと共にその場にしゃがみ込む。
二連発の散弾銃を撃ち尽くし、慌てて再装填しようとする暴徒にコートの男はアクセルを全開にしながらまっすぐ突っ込んでいく。自分目掛けてバイクが向かってくるのを見た暴徒が銃を放り出して脇に逃げようとしたが、コートの男は手にした何かを振りかぶっていた。
コートの男が手にしていたのは伸縮式の警棒だった。間一髪で迫りくるバイクから離れた暴徒に、コートの男が思い切り警棒を振り下ろす。バイクの速度も乗った警棒の一撃はかなり重かったらしく、肩に直撃を食らった暴徒は悲鳴と共に地面を転がっていた。
「ぶっ殺せ!」
暴徒のリーダーがそう叫んで自動小銃を撃とうとしたが、コートの男はいつの間にかバイクを降りていた。そして猟銃を再装填する暴徒の一人目掛けて突進し、銃を握るその右手を警棒で殴打する。
「うぎゃっ!?」
手の甲を警棒で殴られた暴徒が猟銃を取り落としたが、コートの男は地面に落ちた銃には目もくれない。激痛に顔を歪ませ右手を抑える暴徒の背後に回り込むと、いつの間にか取り出したのかその首筋にナイフを突きつけていた。
仲間を盾にされて暴徒たちが発砲を躊躇した一瞬の隙に、コートの男が盾にした者の背中を押して他の暴徒の元へと突っ込んでいく。「助けてくれ!」と、首筋に刃を突きつけられて盾にされた男が悲鳴を上げていた。
そして他の暴徒たちに近づくと、盾にしていた者を突き飛ばして一人がその下敷きとなった。二人が地面に倒れている間に別の暴徒の一人へと近づき、ボルトアクション式ライフルの銃口を下から警棒で弾く。反動で引き金が引かれたライフルの銃弾が薄汚れた街灯を撃ち砕き、頭上からガラス片が降り注いだ。
「あいつ、自分の命が惜しくないのか…?」
そう呟いたのは、アキラの隣で一緒に地面に伏せていたオノデラだった。10人近くの敵、しかもその半数以上は銃で武装しているというのに、コートの男は臆することなく突っ込んでいき互角の戦いを繰り広げている。
いや、互角以上だった。コートの男はライフル銃を背負っていたがそれを使う気配はなく、警棒だけを獲物に暴徒たちと戦っていた。暴徒たちは元々射撃に慣れていないのと、コートの男が接近戦に持ち込み下手に撃てば仲間に当たるという状況を作り出してしまったため、数の優位と銃という武器の強みを活かせないでいる。
「死ねやぁぁぁっ!!」
手近なところにいる敵を殴り倒してしまったため、コートの男が盾に出来そうな者がいなくなった一瞬の隙をつき、暴徒の一人が再装填の終わった上下二連式散弾銃を構える。が、その前にコートの男が腰から何かを抜き放っていた。
それは拳銃だった。が、その引き金が引かれても銃声は轟かず、代わりにバシュッと思いっきり振った後のコーラ缶を開けた時のような空気の漏れる音が微かに聞こえた。
「いってぇ!!」
コートの男を今まさに撃とうとしていた暴徒が、銃を取り落とし顔を両手で覆って地面をのたうち回る。顔を抑える両手の指の隙間から、血がダラダラと流れ落ちる様子が見えた。
どうやらコートの男が撃ったのは実銃ではなく、違法改造して威力を増したエアガンか何かのようだった。十数メートル離れた場所から撃たれたにもかかわらず大の大人が血を流して痛みでのたうち回るということは、かなり威力を増した改造がされているらしい。
「うわああああっ!!」
悲鳴なのか怒号なのかわからない叫び声を上げながら、一人の暴徒が鉈を手にコートの男に襲い掛かる。だが男は慌てる様子も見せず、振り下ろされた鉈を左腕で受け止めた。
鉈の刃は男の皮膚を切り裂き骨を叩き割って左腕に深々と突き刺さる―――ということはなく、金属同士がぶつかる鈍い音と共に暴徒が振り下ろした鉈の刃はあらぬ方向へと弾かれた。どうやら男はコートの下にプロテクターか何かを身に着けているらしい。「え、うそ、なんで…」と男と手にした鉈を交互に見つめる暴徒の顔面に拳を叩き込み、男は最後に残ったリーダーに向き合った。
「くそっ、何なんだよお前!!」
パニックのあまり連射してあっという間に銃弾を撃ち尽くしてしまったらしく、暴徒のリーダーは慌てて自動小銃の弾倉を交換しようとしていた。だが焦りと恐怖のせいか中々弾倉が上手くはまらないらしく、その間にコートの男は足元から拳ほどの大きさの石を拾い上げると、それを思い切り投げつけていた。
投げられた石は暴徒のリーダーのこめかみに直撃し、やっと再装填が終わった自動小銃を構えようとしていたリーダーは額から血を流してその場にひっくり返った。地面を這いつくばりながら取り落とした自動小銃に手を伸ばすリーダーの前で、いつの間にか近づいていたコートの男がそれをひょいと拾い上げる。
「動くな、両手を上げろ」
おじいちゃんのようにしわがれた声だというのに、恐ろしいほどぞっとするような声音だった。
自分が手にしていた自動小銃の銃口を今度は向けられる側になった暴徒のリーダーは、コートの男を睨みつけながら渋々といった感じで両手を上げる。
「お前らも動くな! それとあんたら、そいつらの武器拾って見張ってくれ」
あんたらというのはアキラやオノデラたちのことらしかった。見れば先ほどまでアキラたちに武器を突きつけてその命を弄ぶような真似をしていた10名近くの暴徒たちは、コートの男たった一人の手によって今や呻き声を上げて地面をのたうち回っている。
形勢逆転といったところだ。アキラたちは急いで立ち上がり、暴徒たちが取り落とした銃や武器を拾い上げる。まだ子供ということで今まで銃を持たせてもらえなかったアキラの手にも、暴徒から取り上げた上下二連式の散弾銃が押し付けられた。
「この野郎、ぶっ殺してやる!」
暴徒たちにさんざん嬲られて死の恐怖に晒された恨みが爆発したのか、生存者の一人が拾い上げた猟銃を地面に倒れた暴徒に突きつける。殺されかけたのだし、そのまま引き金を引いたところで文句を言うものはいないとアキラは思った。こいつらはここで殺しておいた方がいい。それがアキラたち生存者の考えだったが、一人だけ違う意見の持ち主がこの場にはいた。
「おい、やめろ」
そう言って暴徒に向けられていた散弾銃の銃口を掴み、上に向けたのはその暴徒をさんざん殴り倒したはずのコートの男だった。目出し帽の下から覗くその鋭い瞳が生存者たちを射抜き、暴徒を撃とうとしていた一人が思わずたじろぐ。
「なんだよ!なんで止めるんだよ!お前どっちの味方なんだよ!?」
「俺はあんたたちの味方のつもりだ。だが、こいつらを殺そうとするんなら話は別だ」
「何言ってんだお前、こいつら俺たちを殺そうとしたんだぞ! こんな奴らここで殺しておかなきゃダメだ!こいつらはクズだ、生きてる価値なんて無い!」
他の生存者たちからもそうだそうだと賛同の声が上がるが、コートの男は微動だにしない。アキラたちを助けるために暴徒たちを叩きのめしたのに、今度はその暴徒の命を守ろうとするとは。アキラもコートの男が何を考えているのかわからなかった。
「確かに俺もこいつらはクズだと思う。あんたたちにやったことを思えば殺されても仕方がないし、ここで殺しておいた方が確かにいいのかもしれない」
「じゃあ止めるなよ!」
「だがな、人間誰しもやり直せる可能性はあると思わないか? 二度目のチャンスは誰にだって与えられるべきだ。こいつらだってここで痛い目を見て反省して、今後はマトモな生き方をしてくれる可能性だってある」
「そうならなかったらどうする。お前がこいつらを見逃したせいで、こいつらがまた同じようなことをして誰かを死なせたら責任取れんのかよ!」
その通りだとアキラは思った。コートの男が博愛主義者か人道主義者かは知らないが、ここで暴徒たちを見逃して、連中がまた同じことをしないという保証はない。たとえ武器を奪って解放したとしても、他で自分たち弱い奴らを見つけては脅し、暴力を振るい、そして命を奪うということを繰り返すかもしれないということは簡単に想像ができる。人の命を奪うのは良いことだとは思わないが、この世には必要な殺人ということも存在すると子供ながらアキラは思っていた。
コートの男はその問いかけに答えず、のたうち回る暴徒たちに自動小銃を突きつけて向こうへ行けとばかりに銃口を振った。武器を取り上げられ、あちこち負傷した暴徒たちはよろよろと立ち上がり、苦々しくコートの男を睨みつけるリーダーの元へと集まる。
一ヵ所に集まった暴徒たちにコートの男は銃口を向けた。アキラは一瞬、暴徒たちが集まったところを撃つつもりなのかと思った。だが男は引き金を引く代わりに、彼らに問いかけた。
「お前たちを殺さなかったのは真摯に反省してやり直す気があるか確かめたかったからだ。もう二度と誰かを襲ったり傷つけたりしないと誓うなら、このまま解放してやる。武器は迷惑料代わりに全部没収していくけどな」
「…嫌だと言ったら?」
額から流れる血で顔を真っ赤に染めた暴徒たちのリーダーが、薄ら笑いを浮かべながら言った。男はその問いに対し、手にしていた自動小銃を構えなおす。
「お前たちを野放しにすることで何の罪もない人が傷つけられるのは見過ごせないから、ここで殺す」
「わかった。わかったよ、反省した。俺たちが悪かった。もうやらない。…これでいいか?」
「何やってんだ撃てよ」と生存者たちが声を上げた。暴徒たちが反省の弁を心の底から述べているとはとても思えなかった。上っ面の謝罪でこの場を乗り切ることだけしか考えておらず、この場を離れたら今後も同じことを繰り返す可能性は十分ある。
暴徒たちが口々に反省や謝罪の言葉を述べ、一通りそれを聞いた後でコートの男は銃口を下ろした。
と思いきや、再び銃を構える。やはり撃つのかとアキラは一瞬期待したが、銃声の代わりに聞こえたのは「ばーん」というコートの男のふざけたような声だった。
呆気にとられる皆の前で、今度こそコートの男が銃を下ろす。そして暴徒たちに歩み寄りながら言った。
「いいだろう、お前たちを信じよう。お前たちはここで一度死んだ、これからは二度目の人生だと思って真面目に生きろ。ただし…」
そう言ってコートの男が被っていた目出し帽に片手をかけ、一気にそれを脱いだ。目出し帽の下にあった男の顔を見て、生存者たちが恐怖のあまりひっと息を飲む。
コートの男の顔はひどい有様だった。大火傷でも負ったのか顔面は大きく焼け爛れ、頭蓋骨に適当に薄く粘土で肉付けしたかのような、髑髏みたいな顔をしていた。
鼻、唇、頬といった最低限の顔のパーツはあるが、火傷を負う前の素顔や容姿が全く想像できない、この世の者とはとても思えない恐ろしい顔だ。そしてその左目には瞼が無く、瞳のない真っ白な目玉がぎょろりと覗いていた。
地獄から蘇った髑髏の死体が喋っている。アキラはそう思った。
そのあまりにも不気味な素顔に暴徒たちからも情けない悲鳴が上がった。さっきまでのどこか馬鹿にしたような態度は消え失せ、彼らの顔は恐怖で歪んでいる。
髑髏のような顔のコートの男が一歩前に出ると、暴徒たちが一斉に後ずさった。アキラも同じ気分だった。目出し帽で顔を隠しているのは火傷でも負っているのかと思っていたが、まさかあんな恐ろしい容貌をしていたとは。
「この顔をよく覚えておけ。もしお前たちの言葉が嘘で、今後も同じようなことをしていたら、俺がお前たちを一人残らず探し出して殺してやる」
焼け爛れた瞼の奥の、片方しかない瞳が暴徒たちをしっかりと睨みつける。掠れた声も相まって、亡者が喋っているかのようだった。
あまりの恐ろしい形相に暴徒たちががくがくと首を縦に振る。はいかイエスとしか言わせない迫力がその顔にはあった。
「お前…お前いったいなんなんだよ…」
「お前たちみたいな悪さする奴らを月に代わっておしおきする、地獄からの使者さ」
その時、周囲一帯に感染者の咆哮が響き渡った。あれだけ暴徒たちが銃を撃っていたのだから、感染者に気づかれてもおかしくはない。「マズいぞ見つかった!」と誰かが叫んだ。
「来たか…」
コートの男は再び目出し帽を被ってその髑髏のような顔を隠すと、暴徒から奪った自動小銃を近くにいたオノデラに押し付け、自分はそれまで背中に背負っていたボルトアクション式のライフルを手にした。周囲を見回して何かに気づいたのか、ライフルを構えて取り付けられたスコープを覗く。
アキラがその銃口の先を視線で辿っていくと、こちらに向かって走ってくる数体の感染者が見えた。銃声が轟き、感染者が一体、頭の上半分を吹き飛ばされてその場に倒れる。
「あんたらはさっさとそこで事故ってる車から仲間引っ張り出して、今来た道を引き返せ!」
ボルトハンドルを引いて空薬莢を排出し、次弾を装填しつつコートの男が叫ぶ。再び銃声が轟き、もう一体感染者が倒れた。アキラたちは何も考える暇もなくとにかく動き出し、ガードレールに突っ込んだ先頭車両からタナカたちを何とか下ろす。
「それとお前ら! 死にたくなきゃさっさとここから逃げろ。せっかく拾った命を無駄にするなよ」
その言葉はどうしようかと立ち尽くしていた暴徒たちに向けて放ったものらしかった。コートの男の真意を測りかねていたのか互いに顔を見合わせる暴徒たちだったが、またも男が感染者に向けて発砲する様を見て考える余裕は無いと判断したらしい。一目散に山のある方向へ向かって走り出す暴徒たちをコートの男は一瞥し、それからライフルを下げて背中に再び背負った。
「俺が時間を稼ぐから、あんたらはあのキャンプ場に戻れ。どうせこの先は通行止めだ」
そう言って男はコートの下から銃床と銃身をギリギリまで短くした水平二連式の散弾銃を取り出し、道路上に停止したままの車列に向かってくる感染者たちへと突っ込んでいった。なぜ彼が昨日であったばかりの自分たちのために危険を冒してまで助けてくれるのか、それはわからない。ただ今はあの男の言うことに従った方がいい。アキラたちには何となくそのことがわかっていた。
ガードレールにぶつかった衝撃で骨折でもしたらしいタナカたちを何とか後続車両に乗せて、転回できる広さがある場所までバックで走行する。前方ではコートの男が殺到しつつある感染者たち相手に、たった一人で立ち向かっていた。
二連式散弾銃をまるで拳銃のように片手で構え、やや離れたところにいる二体の感染者に向けて発砲。再装填はせずにコートの下からマチェットを引き抜き、目の前にいた感染者の首筋を切りつける。動脈と器官を断ち切られ一瞬だけ動きが鈍った感染者を蹴り飛ばし、続いて手を伸ばしてきた別の感染者の顔面に刃を突き立てる。マチェットの刃の先端が感染者の眼窩を貫いて脳まで達し、一瞬で絶命した感染者がその場に崩れ落ちた。
ようやく転回できそうな場所にまで辿り着き、アキラたちの乗る車列は180度方向転換して元来た道を戻り始めた。どこが安全かわからない以上、あのキャンプ場に戻るしかない。
ちらっと背後を見ると、コートの男はまだ感染者と戦っていた。地面にはいくつかの感染者の死体が転がっているが、さらに数体が男に向かっていくのが見える。時間を稼ぐと言ったのは彼だが、本当に一人置いて行ってしまってもいいのだろうか。そう思ったアキラだったが、同行する皆は一刻もこの場を離れることだけを考えているようだ。アクセルをふかし、全速力でキャンプ場目掛けて車列が走り出す。
人間だろうが感染者相手だろうが、コートの男はとにかく戦い慣れているようだった。とにかくアキラは男の無事を願うことしかできない。
感染者たちを振り切って車列がキャンプ場に戻ってきてから30分も経たないうちに、バイクのエンジン音を響かせてコートの男が遅れてやってきた。全身返り血まみれなのか、彼がバイクを降りた途端、来ていた黒いコートから地面に赤い液体が垂れ落ちる。
「だからまだ動かない方がいいって言っただろ」
戻ってくるなり開口一番男が言ったのは、彼が朝に忠告したことだった。男の話を少しでも聞いていれば、アキラたちは暴徒に待ち伏せされて襲われることは無かったかもしれない。
「数はええと…全員生きているみたいだな。無事で何より」
「あんたはいったい何なんだ。なんでこんな、何の得にもならないことをやってる? 俺たちを助けてあんたに何の得がある? 俺たちはあんたを馬鹿だと笑って出て行ったのに、なんでわざわざ俺たちを助けに来たんだ?」
オノデラが理解できないとでも言うかのように放った言葉に、男が困ったように頭を搔く。
「なんでって言われてもなあ…そうしたいからやってるとしか言いようがない」
「そうしたいから、であんたは自分が死にそうな目に遭っても構わないってのか?」
「その話をすると少し長くなるからなぁ…とりあえず昼飯にでもしないか? 怖い目に遭ったんだ、腹減ったろ?」
車列に積んでいた食料は、武器と一緒に暴徒たちから取り戻していた。同じ人間に殺されかけるという初めての経験をして黙り込む皆の横で、男は黙々と自分が乗ってきたバイクの整備をしていた。
「どこにまだ使えるガソリンなんて残ってたんですか? 僕たちの町にあったガソリンスタンドとか乗り捨てられてた車にあったガソリンなんて、ドロドロの真っ黄色になってて車のエンジンなんてかからなかったのに…」
「非常用のガソリンの缶詰ってのがあるんだよ、密閉されてるから製造から3年は使える。非常用だから1リットル缶くらいしかサイズが無いから見つけても贅沢は出来ないが…。あと、劣化したガソリンでも添加剤を混ぜれば何とかなることもある。それだってあまり使える手じゃないから、結局いずれガソリンは使えなくなる」
アキラたちがキャンプ場を出て行ったあと、男は急いでバイクとガソリンを用意して車列を追いかけたらしい。どうやらこのキャンプ場は男が根城にしている場所らしく、管理棟の建物の中にはビニールシートを掛けられたポリタンクや何台かのバイクとスベアのタイヤ、駐車場には車が置かれていた。
「…君には二度も助けてもらった、ありがとう。そして忠告を聞かなくてすまなかった」
そう口を開いたのはアキラたち生存者一行のリーダーを務めているタナカだった。暴徒の待ち伏せを受けた時に車ごとガードレールに突っ込んだタナカは足の骨を折ったようだが、命に別状はなかった。
「いや、あんたらの気持ちはわかる。とにかく早く北海道に行きたいもんな」
「君は北海道へ行かないのか? 北海道には安全な場所があって感染者も少ない。食べるものの心配もしなくていい、そう政府がラジオで放送してるんだ」
「知ってるよ。でも俺は、北海道には行かない。ここでやることがある」
やること?とタナカがオウム返しにつぶやく。バイクの整備を終えた男は工具を仕舞い、今度は暴徒のリーダーから取り上げた自動小銃を分解しながらアキラたちを一瞥した。
「あんたらさっき、お前は何だって聞いてきたよな。実は俺も、自分が何なのかを知らない」
「お前ふざけて―――」
「何も覚えてないんだよ、俺は。自分の名前も顔も、歳も住所も、何もわからない」
男の記憶は1年と少し先から全く存在していなかった。目が覚めた時には病院のベッドで手足を拘束され、銃を突きつけられていた。
「どうやら俺は海岸に打ち上げられていたところを拾われたらしい。大出血と大火傷、あまりにも酷い怪我のせいで死体が呼吸しているような状態だったらしいが」
男を拾ったのはアメリカ海軍の兵士だった。アメリカで感染者の数が爆発的に増加しているさなか、海外展開していたアメリカ軍は全て治安維持のために本国へと呼び戻された。在日米軍も例外ではなく、日本を母港としていた艦隊も兵士らの家族を同乗させて出航したが、そのうちの何隻かに感染者が乗り込んでいた。
狭い艦内はたちまち感染者で溢れかえり、何とか生き残った数名の兵士たちは艦を捨てて救命艇に乗り込み、日本の海岸に漂着した。水兵たちは地元住民と協力し感染者や暴徒から身を守りつつ隠れ住んでいたが、ある日男が海岸に打ち上げられているのを見つけたのだという。
「最初は死体かと間違ったそうだ。そこで動いたから感染者だと思って殺そうとしたらしいが、うわ言で何か話していたんでもしかしたら人間かもと考えて拾って帰ったそうだ」
「感染者だと思って? いや、確かにそんな顔になるほど大怪我をしてたなら人間だとは思われないかもしれないが…」
そういうことじゃない、と言わんばかりに男は小さく笑った。そして左手のグローブを外し、そこでアキラは男の左手の小指と薬指の先端が無いことに気づく。
男は無言でコートの左裾を捲り上げた。腕にもあちこち火傷の痕があり、そして―――。
「どうやら俺は人とは違う体質みたいだ」
手首のところに人間の歯型のような傷痕があった。それを見た途端、男の周囲から一斉に皆が後ずさる。
感染者に咬まれたらそいつも感染者になる。そのことはアキラもよく知っていた。
だが男はアキラたちの様子を見て、何でもないことのように笑っていた。
「そんなにビビるなよ、これで感染者になってるならとっくに俺は仲間入りだ。なんせもう1年も前にやられたらしいからな」
「1年も…?」
見れば歯形の傷跡があるのは手首だけではない。上腕部にもあるし、食いちぎられたのか肉が大きく抉れている個所もある。人肉食の異常者にやられたのでもない限り、男が感染者に食われかけていたのは事実だろう。
しかし咬まれても感染しない人間が本当にいたとはアキラも思わなかった。まだインターネットが使えた頃にはウイルスに対して免疫があり、咬まれても感染者にならない人間がいるらしいという噂が流れていた。ワクチンや抗ウイルス薬を生成するために科学者が血眼になってそういった免疫を持っている人間を探していたという話もあったが、結局誰もいなかったので今の有様となったことは間違いない。
感染者に咬まれるなどしてウイルスが体内に侵入し、それが脳にまで達してしまえば、その人間は知性も理性も失い、自らもただ食欲と殺人衝動にのみ突き動かされ他者を襲う感染者と化す。相手が家族だろうが恋人だろうが関係ない。目の前の人間を食って殺す。それしか考えない人の形をした野獣と化すのだが、目の前の男にはどう見ても理性も知性もあるようだった。人間を襲うどころか、感染者から人間を守ってすらいる。
男の言葉と腕の傷跡を見て、アキラは合点がいった。男がアキラたちを逃がすために殿を引き受けたのも、自分が咬まれても感染しないと知っていたからだろう。
「俺を拾った人たちの中には運よく医者もいた。目が覚めて他の人を襲い始めたら危険だから昏睡状態にあるうちに殺しておくべきだという意見もあったらしいが、その人が俺を貴重なサンプルだってことで守ってくれたんだよ」
そして男は漂着から一か月後、ようやく意識を取り戻した。だが自分が誰かと医者に問いかけられ、そこで男は自分が何も覚えていないことに気づいたのだという。
「日本語は話せる。水兵たちが話している英語も理解はできた。武器の扱い方や戦い方も知っていた。だけど俺自身に関することは何も覚えていなかった。名前も、年齢も、家族も、どこに住んでいて何をしていたのかも。…そして、元の顔も」
「…記憶喪失、という奴か?」
「らしい。俺を助けてくれた先生によると、どうやら俺は至近距離で爆発か何かに巻き込まれたようだ。その時のショックや海を漂流していた時に酸欠になったか、あるいはここにも破片が刺さっているらしいからそれが悪さをしているのかもしれない」
そう言いながら男は自分の頭をとんとんと叩いた。貴重な電力を消費してレントゲンを撮影した結果、爆発か何かに巻き込まれたのか男の体内には無数の破片が突き刺さっていることがわかった。そのうちのいくつかは頭蓋骨を貫通して脳にまで達しているようだ。
脳外科医も道具もないので脳手術などとてもできる環境ではなく、記憶を取り戻すためのリハビリテーションなども受けたが、結局何も思い出せないままだった。個人を特定できるものも漂着時には持っておらず、男は自分が何者なのかわからずにいた。
もしも男に犯罪歴や歯科医の受診記録があれば、指紋や治療痕などから個人を特定することはできるかもしれない。だがそれらの身体情報の記録が無ければ個人の特定は困難だろうし、記録があってもこの状況下では火災などで失われてしまった可能性もある。免許証や学生証などで顔写真を撮影していたとしても、大火傷を負った顔から元の人相がどれだけわかるだろうか。
男は喉も負傷しており、かすれたような声になっているのは声帯が傷ついたからだという。つまり男を個人として特定する方法は、本人の記憶が戻らない限りほとんど不可能だと言ってもいい状況だ。家族などを探してDNA鑑定をしたり、友人や知人を探し出すという方法もあるが、誰もが親しい人を無くしている今の情勢で男を知っている人が生きているという保証はどこにもない。
「俺には何もない。名前も、過去も、そして顔も…自分が誰なのかわかるものが何一つない。だが、一つだけ残っているものがあると気づいた」
「残っているもの?」
「未来だよ。振り返る過去を持たないなら、前を見て進んでいくしかない。…その前を見る目も一つしか無いけどな」
そう言って男は笑ったようだが、アキラは全く笑えなかった。自分が誰かも分からず、過去を思い出させるものは顔という最大の外見的特徴すら失ってしまっているというのに、なぜこの男はこんなにも前向きなのだろうか?
「俺は何者でもないし、何も持っていない。そして考えた。自分が何をすべきなのか。そして自分がすべきことを考えている時にふと浮かんできたんだ。一人でも多くの人を助けろ、それがお前のやるべきことだってな」
それがかつて男だった誰かが持ち続けていた強い意志だったのか、それとも頭に突き刺さった破片でおかしくなった脳が発した命令なのかはわからない。だが男の中の誰かがそう叫んでいるようだった。
名前も過去も、顔さえもない男は、その内なる声に従うことにした。すべてを失った今、他にやるべきことや従うべきものなど何もなかった。
そして男は身体を鍛え、軍人たちに教わって戦い方を学び始めた。不思議なことに男の身体は戦い方を知っているようで、銃の操作も格闘術も一度教わっただけでぐんぐんと上達していった。
「漂着していた水兵の中に元特殊部隊だっていうコックがいて助かったよ。その人にしっかりと戦闘訓練を叩き込まれた」
そして覚醒から2か月後、男は北を目指して出発した。同行してくれる者は水兵たちを含めて誰もいなかった。男が漂着した村には多くの人間が隠れ住んでおり、彼らを守る人が必要だったからだ。それに男が勝手にやりたいと言い出した危険な行為に、他人を巻き込むわけにもいかない。
「このあたりに来たのは半年以上前だ。そこそこの規模の街だが、物資はまだ残ってる。北へ向かう連中が物資の捜索のためによく来るんだ。でも街中は感染者だらけだから…」
「僕たちみたいに襲われる、ってことですか」
「街のあちこちにこの先は危険だって警告文を書いてたつもりだったんだがな、見落としたのか?」
だとすればなぜ男が昨日街にいて、すぐにアキラたちを助けに現れたのかも理解できる。これまで何度も同じように物資を集めようとして街に立ち入り、感染者に襲われた者たちを見てきたのだろう。
「あんたら北を目指してるんだろ? これまでに3度、北海道に行くっていう連中を青森まで送り届けた。俺が同行しよう」
「…理解できない。そんなことをして君に何の得がある? 見ず知らずの他人のために命を賭けるなんて…助けてもらった身でこういうことを言っちゃいけないのはわかるが、馬鹿じゃないか?」
タナカが本気で困惑したように言う。アキラたちも元の町にいた頃は助け合って暮らしていたし、北を目指す道中でも互いに助け合っているが、それはあくまでも仲間内に限ってのことだ。見ず知らずの誰かが感染者に襲われていたところで、自分たちに被害が及ばないようであれば見殺しにするような真似は普通にしてきた。
それに仲間内で助け合っているのだって友情や人情などではなく、そうでもしないと「いざという時にあいつは俺を見捨てるのでは」と相互不信でグループとして団結が出来ないからだ。互いに助け合わないと北海道までたどり着けないからそうしているだけで、もし相手が無能な奴、自分勝手な奴、足を引っ張って迷惑をかける奴だとわかればグループを追い出されてしまうだろう。
誰かを助けようとすれば自分の命だって危険にさらされるし、銃弾や燃料など貴重な物資だって消費してしまうこともある。そうまでして助けた相手が何の役にも立たなかったら最悪だ。だから誰かを助けるのであればそれは自分たちの利益に繋がると思った時だけ。それが自分たちに限らず、今の世の中を生きる人々の常識だとアキラは思っていた。
だが目の前の男は違うようだ。何の損得勘定もなく、目の前にいる誰かを助けるためだけに行動している。
「俺には何も無い。だからこそ、今を生きている人たち―――俺が失ったものを持っている人たちには生きていてほしいと思う。もしも誰かが助けを求めているのなら、俺は助けに行く。戦えない人たちの代わりに戦って、一人でも多くの人を助ける。咬まれても感染者にならない俺にはそれができる。だからそれが今の俺の役割だと思うんだ」
「…たとえ相手が悪人であっても、助けると?」
男はアキラたちを襲撃した暴徒たちを殺害せず、感染者たちから逃がすような真似すらした。彼らを逃がしたことでまた誰かが同じような目に遭うとは考えなかったのだろうか。
「二度目のチャンスは全ての人間に与えられて然るべきだと俺は思っている。今日俺があいつらをボッコボコに叩きのめしたことで、連中がもう誰かを襲う真似は止めようって反省して今後は真っ当に生きてくれるかもしれない」
「そうならない可能性の方が高いんじゃないか? むしろ次はもっとうまくやろうって考えて、同じことをするかもしれない。それでもお前は悪人であってもチャンスをやると?」
「ああ」
男は何の迷いもなくそう言い切った。目出し帽から覗く右目には、一点の曇りも無い。
「本当なら俺は目を覚ますこともなく死んでいるはずだった…だが今こうして生きている。そのおかげであんたたちを助けることができた」
そう言って男は、欠けた左手の指先を眺めた。感染者にあちこち咬まれ、大やけどを負い、無数の破片が身体に突き刺さった男は、きっと記憶を失う直前まで戦い続けていたに違いないとアキラは思った。
「記憶が吹っ飛ぶ前の俺が善人だったのか悪人だったのかはわからない。だが生きてさえいればきっと、何かいいことはある。俺はそう思う。だからこそ俺は相手が誰であれ、二度目のチャンスを与えたい。だが相手がその機会を無駄にするってんなら話は別だ、これ以上誰にも迷惑を掛けないように責任を持って俺が殺す」
といっても人間、なかなか簡単に変われないもんだが。そう呟いた男に、アキラは男が先の言葉を有言実行してきたのだと理解した。暴徒たちに対してチャンスを与えた時も冗談で言っているようにはとても思えなかったし、何よりこの男なら本当にそうするだろうとすら思った。
「今日あんたたちを襲った連中は銃を見つけて気が大きくなっていただけの、まともに銃の整備もできないような素人だ。ああいった連中は一度痛い目を見れば同じことはそうそうしでかさない。だけど殺すこと自体が目的になっている奴らもいる。そういった連中はどうしようもない。説得して耳を貸してくれたらいい方だ」
男は分解していた自動小銃の部品の汚れをふき取り、また組み上げ始めた。複雑な形状の部品もあるのにスムーズな手つきであっという間に銃が組み立てられる。
「残念だが、今の日本には感染者だけじゃなくそういったヤバい連中もいるようだ。今日出くわした奴らは序の口、もっと危ない奴らもいる。この先青森まで行くにしてもそういう奴らがいる場所を俺は知っている。だから俺も連れて行った方がいいぞ」
そう言って男は組み上がった自動小銃を軽く叩いた。
アキラたちは自分たちがたまたま運よくここまで来れたことを痛感していた。ここまでの道中で出くわしたのは感染者ばかりだったが、自分たち以外の人間もまともである保証はないのだ。
タナカや他の大人たちは顔を見合わせ、「…少し考えさせてくれ」と言ってこちらに背を向けて何事か話し合いを始める。子供のアキラはお呼びではなく、暇を持て余したアキラは男に話しかけた。
「…その、自分が誰かわからないって怖くはないんですか?」
記憶を無くし、顔を無くし、自分を知る家族や友人、仲間も誰一人いない。まさしく男は「何者でもない」。もし自分がそんな状況に陥ったら、正気を保っていられるだろうか。
だが男は「なんだそんなことか」と言わんばかりに笑った。
「最初は怖かったさ。だって俺には何も無い、空っぽでまっさらな人間だ。何とか自分が誰か思い出そうともしたし、自分が誰かも分からない恐怖で頭がおかしくなりそうだった。だが…」
男は虚空を見上げる。
「逆に考えたんだ。前の自分がどんな奴か思い出さなくてもいいって。自分が今やりたいと思ったことをやろうってな。どうせ家族も友達もいるかすらわからないんだ、なら俺を縛るものは何もない。俺は何でもできるってな」
「そこでやりたいと思ったのが、人助けってことですか」
そこで話し合いが終わったのが、タナカたちが戻ってくる。そしてタナカは男の顔を見ながら右手を差し出した。
「ここから青森まで、短い間だとは思うがよろしく頼む」
目出し帽の下で男が笑ったのがわかった。男は5本の指が揃った右手で、タナカと握手を交わした。
3度も生存者を青森まで送り届けたという言葉は本当らしく、男は道中の通行可能な道路や感染者がいて危険な町、物資が残されている都市などを把握していた。これまでは警戒しつつ通れる道を探しながら進んでいたということもあってアキラたち一行の進行ペースは遅々としたものだったが、男が道案内として加わってからは嘘のようにスムーズに進むことができていた。
「そういえばあなたのことはなんて呼べばいいんです?」
あと数日で青森入りできるというある日の車中、アキラは男に尋ねた。男が乗ってきたバイクは燃料節約のため貨物バンに積載され、偵察に出る時以外男はアキラたちと一緒にそのバンに乗り込んでいた。
「なんとでも呼べばいい。名無しの権兵衛だろうがジョン・ドゥだろうが。どのみち本当の名前は俺も知らないんだ」
名前が無いせいで男は皆から「君」や「お前」などと代名詞でしか呼ばれていない。だが流石に、いつまでも名前が無いというのも不便ではないか。そう思ったアキラは少し考えた末に、男の素顔を見て思いついた名前を口にした。
「髑髏男とかかっこよくないですか?」
「他人から呼ばれるならともかく、それを自称するのはさすがにイタい。中二か」
「中学生ですけど…」
後部からガチャガチャと何かを弄り、ひっくり返す音が聞こえてきたので振り返ると、荷室でオノデラが資材を収めた箱の中身を漁っていた。資材といっても街で見つけてきた使えそうなものをひっくるめてそう呼んでいるだけで、箱の中に入っているのは感染者による咬傷対策として集められた防具やプロテクターだ。
「何か探してるんですか?」
「このあたりにいい感じのフェイスガードがあったはずなんだが…」
オノデラが箱の中身を漁りながら続けた。
「アンタ、目出し帽で顔を隠しているけど、事情を知らない人間からしてみれば怪しい奴にしか見えないぞ。強盗かテロリストとしか思えない」
「まあそれは自分でもそう思うが…かといってこの顔のままだと逆に怖がられてな。話を聞いてもらえず逃げられたこともある」
そりゃそうだ、とアキラは思った。無事な右目の瞼と頬、唇、鼻や耳といった最低限のパーツは残っているが、男の顔は元の人相も分からないほど大火傷を負ってしまっているのだ。アキラたちどころか暴徒たちもそうであったように、その顔を見たものは恐ろしいという感想しか抱かないだろう。
もしも街中でいきなりばったりこんな顔の人間と出くわしたら化け物にしか見えず、悲鳴を上げて逃げ出してしまってもおかしくはない。夜に出くわしたら恐怖で気絶するかもしれない。
「だから俺がもう少しかっこいい見た目のマスクを作ってやるよ。あんたを見た人がビビッて逃げ出さず、むしろ頼もしいと思うヒーローみたいな奴をな」
造形会社に勤めていたオノデラはドラマや映画の小道具から、子供向け番組のヒーローの衣装まで手掛けた経験があるのだという。その経験を活かして街で見つけた資材から防具を自作したり、足りない装備品を手作りするのがオノデラの主な役割だった。
「マスク?」
「そうだ。人は見た目が9割って言うだろ? いくらアンタが善人だと言ってもその恰好じゃ説得力がない。俺もアンタがやってることは良いことだとは思うが、それにはまず人を安心させるような恰好じゃないと誰も話を聞いてくれないぞ?」
オノデラの言う通りだとアキラも思った。何の見返りも求めず、自分の身の危険も顧みずただ他の人を救おうとする男の考えは立派だと思う。しかし男が誰かを助けたいと言っても、見た目の時点から怪しまれたり恐怖心を抱かれてしまっては何の意味もない。相手に逃げられるか、最悪やられる前にやってしまえと攻撃されることだって考えられる。
そうならないためにも、まずは相手に話を聞いてもらえそうな見た目をすることは大事だ。怪物のようになってしまった素顔を晒すのは初手で相手を威圧してしまうので論外、かといって今のような目出し帽も不審者感がどうしても拭えない。
「ま、任せておいてくれ。コスプレイヤーの衣装だって何度も作ってきたんだ。かっこよくて使い勝手のいいマスクを作って見せるさ」
そう言ってオノデラは箱の中から取り出したフェイスガードやゴーグルなどを組み合わせつつ、スケッチブックを取り出して何やらデザインを起こし始める。アキラと男はそんな彼を少し呆れた目で見ていた。
数日後、アキラたちの車列は青森県の下北半島に到達していた。ここから北海道の玄関口となっている大間崎までは、平時であれば車で半日と掛からずに到達できる。しかし今は感染者に占拠されていたり封鎖されている道路もあるため、通行可能な場所を車で進もうとしたら倍以上の時間を要する見通しだった。
政府による北海道への避難民受け入れの放送が始まってから一年近くが経つというのに、いまだに本州側における人類の拠点は大間崎とその周辺に留まっていた。理由としては燃料や弾薬が潤沢で無いこと、何より戦闘員の数が足りないことが最大の要因だという。
男と違い、普通の人間は咬まれたら感染者と化してしまう。何もない広い平原に感染者がいるのなら遠くから一方的に銃撃するなり爆撃するなりしてしまえばいいが、都市部などではそうもいかない。建物を一つ一つ確認して掃討するような市街戦では、どうしても感染者との接近戦が発生してしまう。そうなればいかにプロテクターなどで身を固めていても、それらを無理やり引きはがされて咬まれておしまいだ。
そのため、本州における感染者の掃討は全くと言っていいほど進んでいなかった。
「さて、俺はここまでだ」
小さな農村で小休止のため車列が停止したタイミングで、男はそう言ってバンを降りた。
「本当に戻るつもりなんですか?」
男はこれまでに3度、生存者を青森まで送り届けたと言っていた。やろうと思えばそのまま北海道に渡れたかもしれないのにそうしなかったということだし、アキラたちにも青森までしか同行しないとは言っていたが、本当に彼が南へ引き返すつもりだとは誰も心底信じてはいなかった。あと1日かそこらで安全な場所へ行けるというのに、わざわざ危険な場所へ戻る彼の気持ちをアキラたちは理解できなかった。
「ああ。まだまだ困っている人たち、助けを求めている人たちは大勢いるだろう。そんな人たちを見捨てて俺一人が安全な場所に行くことはできない」
そこで男は何かに気づいたのか付け足した。
「勘違いしないでほしいんだが、北へ向かうあんたらを他人を何とも思っていない非情な奴だと言ってるわけじゃないんだ。今まで怖い思いをしてきたんだろうから安全な場所に行きたいのは当然だ。それに日本を復興させるためには一人でも多くの人手が必要だろう。あんたらはこの先の未来を創っていくために必要な人たちなんだ。だから自分の選択に誇りを持って、迷わず北海道へ行ってほしい」
アキラたちには男のようにここに残って戦い続けるという選択は出来なかった。むしろ一刻も早く安全な場所へ行きたいという気持ちばかりだ。これまでに何度も感染者に殺されかけ、仲間を失い、暴徒にすら襲われた経験をすれば、この先もう二度と同じ目には遭いたくないと思って当然だった。自分たち以外の人たちが今この瞬間も恐怖の中で息を潜めて暮らし、今まさに殺されていようが、それが名前も顔も知らない他人であれば正直言ってどうでもよく、そんな人たちに思いを馳せる余裕などない。
しかし男はそんなアキラたちを非難することは一切せず、むしろ未来のために必要な選択だとすら肯定した。
「君は底抜けのお人よしだな…誰かに裏切られたり騙されたりして自分が酷い目に遭うかもしれないってことは考えないのか? 今のこのご時世、そんなことを考えている奴らは普通にあちこちにいると思うぞ。この先、君が助けようとした人たちが君を陥れたり、裏切ったりしたらどうするんだ?」
タナカが呆れたように言うと、男が目出し帽の下で笑うのがわかった。
「そりゃあ、そういった悪いことを考えている奴らもいるだろう。だけど全てを疑って自分たち以外を敵認定してビクビクしながら生きるより、まずは目の前の人を信じてみるって生き方の方が人生楽しいんじゃないか? 騙されたらその時はまあ…後でやり返すだけだ。自分でもこの考え方が能天気だってのはわかってるよ、でも俺は人間を信じてみたいんだ」
そう言う男の右目には一切の曇りが無く、彼が本心からそう言っていることをアキラたちに伝えていた。このどこまでも人を信じようとする男の善性は、果たして彼が記憶を失う前から持ち合わせていたものなのだろうか。それとも全てを忘れてまっさらな人間となったことで芽生えたのだろうか。
だが、いずれにせよアキラたちには男と同じことは出来なかった。アキラたちは北海道へ渡り、男は本州に残る。そこで自分たちにできることをするだけだ。
「これからも誰かのために頑張る、そんなアンタにプレゼントだ」
そう言ってオノデラが取り出したのは、数日前から寝る間も惜しんで男のために作っていたマスクだった。
上半分はスポーツ用の、口回りはサバゲー用の金網メッシュ製のフェースガードをベースとして組み合わせてオノデラが作り上げたそのマスクは、手元にある資材で急造したものとはいえよく出来ていた。視野に影響を与えず、呼吸や聴覚も妨げないように配慮しつつ、一定の強度を持たせている。感染者に咬みつかれても嚙み砕かれたり、歯が貫通しない程度の強度もあった。
「目の部分は防弾性があるっていうサングラスから外したレンズを取り付けてある。10メートル先からショットガンで撃たれても大丈夫ってやつだ」
「いやそれはありがたいが、このデザインは…」
低視認性に配慮して黒や灰色をベースとした目立たない色ではあるものの、オノデラが作ったマスクはまるで子供向け特撮番組に出てくるヒーローが着けていそうな見た目をしていた。目の部分は大きめに作られ、口回りには牙のような装飾が施されている。どこかの予算がない自治体が手作りしたローカルヒーローのマスク、と言えば信じられそうなデザインだった。
「本当はツノでも付けたかったんだけどな」
オノデラはそうぼやいたが、何かに引っかかったり動きを妨げるようなことがあっては本末転倒だ。男はオノデラから受け取ったマスクを叩いて強度を確認したり、顔にフィットするか曲がり具合を確かめていたが、問題ないと判断したらしい。目出し帽を脱ぎ、その髑髏のような顔が露になる。
男の左目には瞼がほとんどなく、瞳のない白い目がぎょろりと剝き出しになっていた。聞けば左目は漂着時に潰れていたため摘出し、3Dプリンターで作った義眼を嵌めているらしい。
何日も行動を共にしているが、アキラたちは相変わらず恐ろしい男の顔を見て思わず目を背けていた。この顔で「次に悪いことをしたら殺す」と言われたら、確かにもう悪いことをしようとは思わなくなるだろう。男の顔はそれほどまでに禍々しかった。
男がその素顔の上からマスクを装着し、頭にニット帽を被る。首を回して身体を動かす際に支障がないか、視野などを確かめていたが、特に問題は無いようだった。
「へえ、よく出来てるな」
「だろ? 次に会った時はもっとカッコいいのを作ってやるからさ」
それまでに死ぬなよ、と続けたオノデラに、「死ぬつもりはない」と男は答えた。
実際のところ、この先自分たちが男と再会できる可能性はそれほど多くない。自分たちは北海道へ渡り、男は本州に残る。昔のように気軽に行き来できるのならともかく、今は海峡を渡る手段が政府が月に1度程度の頻度で出している船しかない。さらに北海道へ渡ったら各地の隔離地域へと移送されるという話だから、男と直接会う機会は無いと考えてもいいかもしれない。
「それじゃ、最後に頼む」
そう言って男がコートの袖を捲り上げ、火傷と傷だらけの腕が露になる。アキラたち一行の中で獣医の経験がある者が男の二の腕をベルトで縛り上げ、浮き出た血管に注射器を突き刺した。
真っ赤な血が注射器の中に溜まっていき、ほとんどいっぱいになったところで腕を縛るベルトが外され針が抜かれた。注射器に溜まった血が採血管に移され、中身が男の血で満たされた3本の採血管が車に積まれたポータブル冷蔵庫の中に仕舞いこまれる。
「必ず渡してくれよ」
そう言った男に、タナカは力強く頷き返した。
北海道へ渡るために大間崎へ向かうアキラたちに、自分の血を抜いて持って行ってくれと言い出したのは男だった。聞けば青森まで生存者を送り届けた際には、必ずそうしているのだという。
「何故だか俺は感染者たちに咬まれても平気なままだ。免疫か、それとも体質か…俺の血を研究することで、もしかしたらウイルスへの対抗策が見つかるかもしれない」
現状、ワクチンなどが全く開発されていないことは明らかだった。まだ通信網が生きていた時には各国でウイルスの研究とワクチンの開発が進められていたとニュースでやっていたが、そのどれもが失敗に終わったと聞く。政府も北海道へ避難する前は自衛隊の特殊部隊まで動員して各地でウイルスに免疫を持つ者を必死に探していたそうだが、成果は無かったそうだ。
「アンタが拾われた村には無線機が無かったのか? それで北海道の政府に自分は免疫があるから研究のために救助してくれと要請すればよかったのに」
「とっくに試したさ…でも信じてもらえなかった。実際には感染者に咬まれてすらいない奴らが、自分だけ助けてもらおうと免疫があると偽って救助要請をしたことがパンデミックの直後から何度もあったらしい」
同じようなことが何度も繰り返され、最初の頃は政府や自衛隊もそれを信じて救助部隊を送っていた。しかし危険な救助活動とそれに伴う人員の損耗と引き換えに得られたのは実際には免疫も何もなく噓をついて救助してもらおうとする小賢しい連中という結果ばかりに終わり、最終的には自分は感染しない人間だから助けてくれという通信は無視するようになったのだという。
「だから、この血をあんたたちに持って行ってもらいたいんだ。もしかしたら前に送った連中がすでに渡しているかもしれないが、サンプルが不十分だって可能性もある。あるいは俺のことを信じてもらえず捨てられたかもしれない」
「もし、今回も信じてもらえなかったら?」
その問いに、男は軽く笑って答えた。
「その時はまた次に送る連中に、俺の血を持って行ってもらうだけだ」
採血を終え、タナカがポケットから取り出したデジタルカメラで男の身体の咬傷を撮影していく。血液サンプルと男の咬まれた傷痕の写真を同時に見せることで、感染しない人間から採った血であるという信憑性を高める算段だった。
一緒に自衛隊が駐留する大間崎まで来ればよいのでは、というタナカたちの提案に男は首を横に振った。もしも男が政府や自衛隊が初めて見つけた感染しない人間であれば、その後どんな扱いを受けるかわからない。病院に閉じ込められて延々と研究され続けるか、最悪の場合解剖に掛けられてしまうかもしれない。
男を研究することでワクチンが開発され多くの人を救う結果に繋がるかもしれないが、かといって男には今まさに日本のあちこちで助けを求めている人たちを放っておくことは出来なかった。
「それじゃ、いよいよお別れだな」
オノデラ謹製のマスクを装着し、服装を整えつつ男が言った。腕や脛にプロテクターを取り付け、コートの下には二連式の散弾銃とマチェット。背中にはライフルを背負い完全武装した男は、これからまた危険な南へと向かうことになる。
男はバイクに跨り、エンジンを掛けた。バイクの後部にはポリタンクが括り付けられ、どうにか南へ戻れるだけのガソリンは入っているのだという。今後使えるガソリンが手に入らなくなったらどうするのかという問いに対し、男は「その時は自転車でも探すさ」と呑気に答えた。
「せっかく生き残ったんだ。その命、無駄にしないでくれよ」
最後にそう言って、男はバイクを発進させた。頼もしいエンジン音と共にバイクは走り出し、コートの背中がどんどん小さくなっていく。
あの男は一体何者だったのだろうか、とアキラは改めて思った。
男は自分は何者でもないと言っていた。記憶も顔も無くし、地獄から戻ってきた名前のない男。彼の行動の根底にあるのは誰かを助けたいという単純な思いだった。
そのためなら自分がいくら危険な目に遭おうが損をしようが構わない。誰かを傷つけようとする者たちと戦い、助けを求める人たちに手を差し伸べる。
子供の時にテレビで見たヒーローみたいだな。オノデラが男のために作ったマスクのことを思い出し、アキラはそう思った。
ただ、最後まで男の名前を知ることができなかったのが残念だった。
ご意見、ご感想お待ちしてます。
次回で本当に最終話(の予定)です。たぶん。
今度こそ本当に終わりですので、もう少しだけこの地獄のような世界にお付き合いください。