エピローグ-6 試される大地のお話
大粒の雪が舞う津軽海峡の向こうに、ぽつんと灰色の影が見える。海の向こうの北海道の山々は真っ白に染まり、雪解けの気配は微塵も感じられない。季節はとっくに春を迎えていて、いくら北の土地と言っても季節外れと言っていいほどの雪が降っていた。
人間が減って産業活動が激変したことによる温室効果ガスの減少と、どこかの国が核戦争を起こしたせいで例年よりも寒冷化が進んでいるという話だった。今までならそれらは根拠のない噂話に過ぎなかったが、話してくれたのが亜樹たちを世話する自衛隊員だったのである程度は信用できるだろう。
雪が降りしきる埠頭には多くの人々が詰めかけていた。皆防寒着に身を包み、寒さで身体を震わせていたものの、温かい建物の中に戻ろうとする人はいない。皆が北からやってくる船を一目見ようとして、外へと出てきていた。
亜樹たちが本州における自衛隊の拠点である大間崎へ辿り着いてから半月以上が経過していた。
まず彼女たちはそれこそ身体の隅々まで検査され、少しでも身体に傷があればいつどこで負ったものなのか厳しく問い詰められた。その後一週間ほど出入り口が施錠され監視された部屋で隔離され、感染していないことを確認した上でようやく解放された。
青森市内が感染者だらけでその他の港湾も軒並み使用できなくなっている中、本州最北端という立地から奇跡的に感染者が発生していなかった大間崎は本州における唯一稼働している港だった。
北海道の「鎖国」中は本州に特殊任務を帯びた自衛隊員を輸送し、そしてその「鎖国」が解かれた今では北海道へ避難民を運ぶための拠点として使用されている。もっとも燃料不足から船がやってくるのは月に一回か二回程度であり、検疫をパスした亜樹たちも船が来るまでは港に留め置かれることとなった。
大間崎に元からいた住民はほとんどが北海道へと強制疎開させられたらしく、今いるのは港の守備隊として配備された一個中隊にも満たない自衛隊員たちと、北海道への避難を支援するための少数の自治体職員程度だ。当然ながら店などどこもやっていない。避難民たちは管理のために全員が港の近くにある小学校へと集められ、災害時の避難所のように集団生活を送った。
小学校の敷地の外へ出ることは禁止されていたため、やることと言えば校庭で身体を動かすか図書室から持ってきた本を読むことくらいだった。無駄な燃料を使用する余裕はないため暖房は体育館に設置されたストーブのみ。電気にも余裕がないから夜明けとともに起きて、日没と同時に消灯して寝るというかなり健康的な生活を強制されることになったが、文句を言う人は誰もいなかった。
そんな生活を送っているうちに、亜樹たちの他にも政府の放送を聞いてやってきた生存者たちが大間崎へ集まってくるようになった。彼らも検疫を受けて亜樹たち同様に隔離生活を送り、北海道から船がやってくるのを待っている。
大間崎にやってきた避難民は100人を超えつつあった。船はあくまでも駐屯している自衛隊への補給のためにやってくるのが目的であって、帰りは空荷となるからそこへ乗せてもらえるだけだ。そのため生存者が多くやってきたからといって、船がやってくるタイミングが早くなることはない。それに天候によっては安全のために運航を見送ることもあるため、船がいつやってくるのか亜樹たちは全く知らないまま小学校での軟禁生活を送ることを余儀なくされた。
そして今朝、突然船がやってくるので準備しろと言われ、亜樹たちは期待を抑えきれないまま埠頭で船を待っているというわけだ。燃費を少しでも良くするために持っていける荷物はリュック一つ分までと指示されたが、そもそも荷物すら持ってきていない者も多い。大切なものは全て家に置いてきてしまった人たちばかりだ。
亜樹は自分の家のことを思い出した。高校は全寮制だったので家を出て久しかったものの、それでも長期連休などで時折帰省していた実家には思い出も多い。
自分の実家は無事なのだろうか。親は無事に生きているのだろうか。また家族であの家に戻って暮らすことはできるのか。ようやく北海道へ行けるという時になって、それらの心配事が頭をよぎる。
だが、考えてもどうしようもないことだ。まずは安全な北海道に渡る。そしてそこで落ち着いたら親を探せばいい。いつか実家に戻ることもできるだろう。
今必要なのは明るい未来を創造できる希望だ。不安は全てここに置いていこう。亜樹はそう思い、遠くに見える船に目を凝らした。
「もうすぐお別れだな」
背後から声を掛けられ振り向くと、そこには緑色の迷彩服に身を包んだ佐藤がいた。防弾チョッキなどは身に着けておらず、持っているのもホルスターの拳銃一丁とラフな格好であることから今は非番なのだろう。
「はい、佐藤さんには本当にお世話になりました」
「いや、俺も君たちには何度も助けられた。こっちこそありがとう。向こうでも元気でな」
亜樹たちと共にやってきた生存者の中で唯一の自衛隊員である佐藤は、隔離生活を送ったのち大間崎に駐屯する部隊の指揮下に入るよう命令が下りたようだ。てっきり彼も北海道まで来るのかと思っていたが、これも仕事だと佐藤は笑っていた。
「今は一人でも人手が欲しいそうだ。ここまで頑張ったんだからてっきり休みをくれるかと思っていたんだが」
そう言われると、亜樹はちょっとだけ迷ってしまう。本州やその他の地域にはまだ大勢感染者の恐怖に怯え、息を潜めて毎日を送っている人たちがいる。それなのに自分はさっさと安全な北海道に渡ってしまってよいのだろうか。ここに残って何か手助けをするべきなのでは―――そう思った。
しかし佐藤は亜樹のその提案に首を横に振った。
「いいか、俺は大人でお前らはまだ子供だ。法的に言えばまだ成人もしていない。だから俺たち大人とお前たちではやるべきことが違うんだ」
「やるべきこと?」
「お前たちは将来を担う存在だ。だからまずは勉強をして知識を身につけろ。そしてどうしたら二度とこんなことが起きないで済むか、困っている人たちを助けられるか考えるんだ」
それに、と佐藤は続ける。
「北海道に行ったって、昔みたいに便利で快適な生活に戻れるわけじゃない。電気は使えないしスマホも止まってる。コンビニだってやってない。感染者に殺される確率がぐっと減るだけで、今と同じ何もかも足りない生活を送ることに変わりはないんだ」
「聞きました。食料は配給だし電気もほとんど使えなくて凍死する人も多く出たって…」
「そうだ、危険で死が身近な世界であることに違いはない。だから身体には気をつけて、仲間と助け合って暮らすんだぞ」
海の向こうに見えていた船影が徐々に大きくなっていく。「あと30分で乗船だ!」と、生存者たちの誘導を担う隊員が皆の準備を促した。
「…それじゃ、またどこかで」
「元気で暮らせよ。そうだ、お前たちが大人になったらここまで来た奴らで集まって一緒に酒でも飲むか?」
「いいですね、それ。それまでは絶対に死なないでくださいね」
亜樹と佐藤は力強く握手を交わした。
思い返せば佐藤にも世話になりっぱなしだった。一時はヤバい連中に亜樹たちが騙されていたせいで少年ともども敵対していたこともあったが、彼らのおかげで亜樹たちは正気を取り戻すことができた。もしも佐藤がいなかったら、今頃亜樹たちはそのヤバい連中の手先と化して、他の生存者たちに危害を加える存在と化していたかもしれない。
感謝の言葉はいくら述べても足りないが、佐藤も時間が無いようだった。「じゃあな!」と言って、佐藤は亜樹に背を向けて歩き出す。本州に残る佐藤がこれから何をするのかは亜樹も知らされていないが、きっとこれからも危険な任務に挑むことになるのだろう。
亜樹は佐藤の無事を祈り、いつかまた会える日が来ることを願った。
遠くに見えていた船が、いよいよその姿がはっきりと見えるまでに近づいてきていた。
青と白の塗装が施されたその船は民間で使われていたフェリーらしかった。タグボートが使えないのでフェリーからもやい綱が放たれ、陸側で待機していた作業者たちがそのもやい綱を引っ張ってフェリーが岸壁に横付けする。
岸壁で待機していた作業者たちがもやい綱で揚陸艇を岸壁に固縛し終わるのと同時に、船の側面に設置されていたランプが降りて中から数台の車両が降りてくる。SUVに燃料タンクやコンテナを荷台に搭載したトラック、そしてそれに続いて十数名の自衛隊員たちも下りてきた。
船から降ろされた人員も装備も全て自衛隊関連のものらしい。ただし戦車や装甲車などは一台も無い。聞いた話によると車両を動かす燃料にすら事欠いているらしく、動かせるのはもっぱらトラックや徴発したSUVに限られているらしい。
搭載していた車両や貨物の荷下ろしがすべて完了するまでは避難民の乗船は始められないようで、皆が浮足立っている気配が伝わってくる。100人近い避難民が埠頭に集まり、今か今かと乗船が始まるのを待っていた。銃を持った自衛隊員がいなければ、我先にと船に殺到していたに違いない。
雪が降りしきる中待つこと数十分、ようやく全ての荷下ろしが完了し、代わりに避難民の乗船が許可された。本来は車両出入り口であるランプの前に長い列ができ、自治体職員が一人ずつ氏名を確認してから避難民が乗船していく。十分なスペースがあるというのに前の人間を押しのけんばかりの勢いで乗り込もうとした者たちに対して、監視役である自衛隊員から注意の声が飛ぶ。
いよいよ亜樹の番となり、彼女は自分の氏名とここで暮らしていた間に割り振られていた管理番号を自治体職員に告げた。氏名と元々の住所、生年月日等、本当であれば役所で管理していた個人情報だ。だが今は地方自治体もほぼ機能停止しており、住基ネットも回線やサーバーが止まっている。身分証なども混乱の中で紛失してしまった人も多いため、こうして自治体職員が手作業で避難民の個人情報を収集し、北海道で関係機関と共有しなければならない状況だった。
事前に撮影していた顔写真と亜樹の顔を見比べた自治体職員が頷き、乗船の許可を出す。ここで集められた個人情報は北海道に送られ、隔離地域での生活の際の食糧配給や住民管理に使われるという。
靴の裏で金属製のランプがカンカンと心地の良い音を立てる。車両が全て下ろされた車両甲板はがらんどうで、エアコンもついていないせいか空気は冷え切っていた。排ガスの臭いが漂う車両甲板から船内を通り、乗客デッキへと上がる。
元々は短距離用の航路で使われていた船なのかそこまで大きくもなく、船内設備も充実していない。もっとも売店は当然のごとく閉鎖され自販機も全て止まっており、船内設備のほとんどは使えないに等しい。使えるのはトイレと、食堂のテーブルにぽつんと置かれた電気ケトルだけだった。
一番近い函館は今も感染者だらけで港が使えないため、フェリーは自衛隊が再度制圧した苫小牧へ向かうという。函館までなら2時間もかからないが、苫小牧へは太平洋に出なければならない上に燃費の面から速度を出せないので6時間かそこらはかかると事前に説明があった。その間避難民たちにはベッドも何もない大広間の客室が割り当てられていたが、亜樹は雪が降りしきる展望デッキへと出た。
既に避難民たちの乗船は済んだらしく、作業者たちがもやい綱を解き始めている。慌ただしく人が行きかう埠頭を見て、亜樹は次にここに戻って来られるのはいつになるのだろうと思った。
北海道など今まで一度も行ったことが無い土地だ。家族も親戚も、頼れる人は誰もいない。どこに何があるのか何も知らないし、これからどんな生活が待っているのかと思うと不安になる。
それでも、今は前を向いて生きていくしかない。自分たちには未来を創るという役割がある。暗いことばかり考えていては暗い未来しかやってこない。
将来自分は何を目指そうか、と亜樹は思った。文字通りどこでも人手が足りていない今の世の中では、どんな職業に就いても誰かの役には立つだろう。もっとも、職業選択の自由が用意されているかはまた別の話だが。
亜樹の脳裏に彼女の恩師の姿が浮かぶ。世界が一変し、陸の孤島と化した全寮制の学園で唯一の大人として亜樹たちを守り、導いてくれた先生。しかし彼女も他の多くの人々と同様に、すでにこの世にはいない。
だが彼女のおかげで亜樹たちは生き延びることができたし、こんな世の中でも倫理観を持って生き抜くことができた。人間らしい生き方を貫くことができたのは、間違いなく彼女たちの先生のおかげだ。
教師になるのはいいかもしれないな、と思った。自分に誰かを教え導くことができるのか、その資格があるのかはわからない。でも子供が未来を創る存在だというのであれば、せめてその子供達には人間らしい生き方をしてもらいたいものだ。
どんな時でも人間らしく生きるのが大切ということは、世界がこうなってしまってから亜樹が学んだ大切な経験だった。そのことを、いろんな人たちに知ってほしい。
教師になりたいという自分の夢を、彼ならなんと言っただろうか。応援してくれるか、「教師なんて責任多いわりに給料少なくて長時間労働のブラック職業だろ」と現実的なことを言うだろうか。
今自分の隣に少年がいないことが、とても残念だった。彼と平和な未来や自分たちの将来についてもっと語り合いたかったのに、もはやその機会は永遠に訪れることはない。あれだけ未来を求めていた少年は、亜樹たちの未来を守るためにその身を犠牲にした。
もしも自分が教師になることができたのなら、彼のことも語り継ごう。非情な現実と理想の間で何度も悩み苦しみ、何度も自分の手を血で染めながらも、最後には人として生き抜こうとしていた彼の姿を。甘いことなんて言っていられない今の世の中だからこそ、人として生きようとしてもがいていた少年のことを皆には知ってもらって、辛い現実に思考停止することなく、彼のように人間の尊厳とは何かを考えてもらいたかった。
フェリーの煙突から黒煙が立ち上り、船体が岸壁を離れる。荒れる海を抜けた先に待っているのは、雪で染まった北海道の大地。そこはきっと見知らぬ大地であり、明日であり、そしてこれから自分たちが作り上げていく素晴らしき新世界だった。
ご意見、ご感想お待ちしております。
たぶんあと2話程度で終わります。