エピローグ-5 ブレイブニューワールドなお話
『…こちらは日本国政府です。現在この放送をお聞きの全ての国民に対してお知らせいたします。…』
ラジオからは無機質な女性の合成音声が流れていた。ここ二週間、何度も聞いた声だった。
『現在、日本国政府は北海道にて統治機能を維持しています。
しかし、本州・四国・九州、沖縄における行政並びに警察、消防、自衛隊の組織的な活動は停止しました。救助活動は一切実施されません。
北海道は比較的安全な地域が確保されています。
もし、あなたが移動可能であり、北海道への到達が可能であると判断した場合、自己責任のもとで移動を試みてください。
ただし、政府や自衛隊による保護・救援は行われていません。
移動には重大な危険が伴うため、慎重に判断してください。
もし、北海道への移動が困難である場合は、現在地に留まり、生存を最優先としてください。
無理な移動は避け、可能な限り安全な拠点を確保するよう努めてください。
日本国民の皆さん、決して諦めないでください。
以上、日本国政府からの放送でした。…』
「消してくれ」
助手席に座る佐藤が窓の外に目を向けたまま言う。ハンドルを握る亜樹は何も言わず、ステアリングスイッチを操作してラジオを消した。どうせ同じ内容を繰り返すだけの録音放送だ。それに合成音声に「諦めるな」と言われたところで、元気など出やしない。
亜樹が本州で偵察活動を行っていた自衛隊の部隊と遭遇してから半月以上が経過していた。
あの後亜樹は使えるようになった無線機で何とか本隊と連絡を取って合流し、自分が見たもの聞いたものを全て佐藤たちに伝えた。佐藤たちも最初は半信半疑だったが、亜樹の言った通り妨害電波は解除され、しばらくしてから北海道に移転した臨時政府からの録音放送が開始されたことで北海道を目指すことが決まった。
妨害電波が止まったことで、他の地域の生存者とも連絡が取れるようになった。アマチュア無線でのやり取りでは、まだ日本各地に大勢の生存者がいるらしい。関東圏はほぼ壊滅だが、それ以外の地方などでは細々と生き残っている人たちがいるという。
ラジオで政府からの録音放送が流れてくるようになったのも同じ頃からだった。とはいっても放送される内容は全て同じで、遭遇した偵察隊の人間から北海道の現状を聞いていた亜樹にとっては何も真新しい情報はなかった。
北海道で政府は存続していること。それ以外の地域では自衛隊も警察も活動していないし救助活動を行う予定もないこと。安全な北海道に来たいのであれば自己責任で来ること…なぜ今の今まで政府が沈黙を貫いていたのかや、妨害電波が出ていた理由などには一切触れていなかった。
それも当然だろうと亜樹は思った。馬鹿正直に北海道だけを守るため他の地域は見捨てることにしていましたなんてことがわかったら、それこそかろうじて存続している政府が吹っ飛びかねない。いずれはバレることだろうが、今は隠しておくつもりなのかもしれない。
亜樹が持ち帰ってきた情報を検討した結果、生存者一行は北海道を目指すという結論になった。その場に留まっていたところで救助が来ないというのは政府から発信されるようになったラジオ放送で分かり切っていたし、食料や燃料も足りなくなってきている。度重なる感染者の襲撃を受けて死者こそ出ていなかったものの病人や怪我人は増え続けており、皆が疲れ切っていた。
それからは再び北を目指して生存者たちの車列は進み始めた。妨害電波が止まったことでドローンや無線機が使えるようになったので危険を冒して自転車で偵察隊を遠くまで行かせる必要は無くなったが、行く先々で感染者に出くわすことに変わりはない。さらに市街地には感染者が多いという話もあったことから、車列はひたすら山の中を進むこととなった。
狭く険しい山道を走るのに不適であったバスなどの大型車は放棄され、狭い車の中での生活はさらに生存者たちを疲弊させた。それでも彼らが北を目指したのは、安全な場所があるという希望を胸に抱いていたからだ。
そうして二週間をかけて車列は下北半島にまで到達した。下北半島の南にある八戸市や三沢市は人口が多いため危険地帯と判断し、内陸側から北東に進む形で車列は下北半島に入った。亜樹が遭遇した偵察隊の班長は下北半島の青森湾に面した地域も危険だと言っていたので、下北半島に入った後は太平洋沿いを北上する。
班長は下北半島北西にある大間崎に自衛隊の本州における拠点があると言っていたが、大間崎への行き方は津軽海峡沿いに西へ進むか、半島を時計回りに進んで陸奥湾側を北上するかの二通りがある。しかし時計回りルートは人口が多いむつ市を通るため感染者に遭遇する可能性が高く危険と判断され、津軽海峡沿いルートが選ばれた。
もっとも津軽海峡沿いルートも海沿いを進むため、道中の港町に感染者がいる可能性がある。そのため佐藤や亜樹たちが偵察隊として車で先行し、本当に大間崎が安全な場所か確認することとなった。
下北半島の西側は山々が連なり平地と言えば海沿いくらいしかない。道路もそれほど広くはなく、しかも海沿いの道路ということで塩害に加えて豪雪地帯特有の大量に撒かれる融雪剤の影響もあって路面はかなり劣化が進んでいた。道路を維持管理する行政も機能を喪失したせいで道路の劣化は急速に進み、路肩が崩壊しているところもあった。
ボロボロになったアスファルトの塊を乗り越えるたびにガタガタと大きく上下に揺れるSUVの車内を沈黙が満たしていた。ラジオを消したのもその一因だが、一番の理由はこの先に本当に安全な場所があるのかという期待と不安を皆が抱えているせいでもあった。
録音放送では来れる奴だけ北海道に来いと言っていたが、もしもその受け入れ方針が撤回されていたら? 北海道に避難民を受け入れるという決断だって臨時政府内での武力衝突の末に急に決まったことだと聞いていたし、その方針がこれまた急に撤回されることだって起きるかもしれない。
「余計なことは考えるなよ。ここまで来て事故るのはごめんだ」
そんな亜樹の不安を見透かしたかのように助手席に座る佐藤が言った。その佐藤だって先ほどからずっと銃を膝の上に置いているし、手は銃のグリップを握っていていつでも撃てる姿勢を取っていた。佐藤ですら本当のところ政府の放送を心から信じ切れていないのだろう。
それでも今は放送を信じて北へ向かうしかない。ここから十数キロ離れた場所で待機している他の生存者たちは、長旅と感染者への恐怖で疲弊しきっている。旅を続けるのもこのあたりが限界だろう。
いくつかの漁港を通り過ぎ、亜樹たちが乗ったSUVは津軽海峡に面した道路を西へ走っていた。漁港や町には人気が全くなく、おそらく自衛隊が感染者を駆除したらしき戦闘の痕跡だけが残っていた。
そこに住んでいた人たちは北海道へ渡ったのか、それとも皆感染者と化してしまったのか。それとも感染を広げる危険分子として殺害されたのか―――弾痕だらけの家屋を見て亜樹は嫌な想像をしてしまった。
視線を右にやると白波を立てる海面と、そのはるか向こうにはかすかに陸地らしきものが見えた。亜樹たちが目指す北海道の大地だ。海を行きかう船は一隻もなく、空を飛んでいるのはカモメらしき鳥たちだけ。人の気配はどこにもない。
長くて50キロしかない海峡なのに、その先に何が待っているのか亜樹たちは知らない。
目的の大間崎まであと5キロほどのところまで来た時、曲がりくねった道路を進む亜樹たちの目の前に突如壁が出現した。咄嗟にブレーキを踏み、シートベルトが身体に食い込む。
「何…」
赤や緑などカラフルなその壁は、どうやらコンテナを積み上げて作ったものらしい。ところどころ錆に覆われた壁は道路脇の急斜面から海岸を塞ぐように亜樹たちの前に鎮座しており、その壁の真ん中には大きな鉄製の扉が設けられていた。
ついシート脇に立てかけていた銃に手を伸ばす亜樹を佐藤が制する。
「待て、あれを見ろ」
そう言って佐藤は壁の前に置かれた別のコンテナに目をやった。車両による強行突破を防ぐためか、壁の前の道路には互い違いになるように置かれたやや小ぶりなコンテナがあり、その上から何かが突き出している。
機関銃だった。遠隔操作用なのかカメラらしき機械が取り付けられた機関銃が1丁ずつ、コンテナの屋根に取り付けられている。そしてその銃口が自分たちに向いていることに、亜樹はようやく気付いた。
「降りよう。武器は持つな」
自分たちに向けられている機関銃がどの程度の威力を持つかは亜樹もこの数か月の生活で理解していた。人間を簡単に四散させ、車のボディなど簡単に貫通してしまう機関銃だ。変な真似をしてその銃口が火を噴いたら、車をバックさせてこの場を離れる前に車もろとも穴だらけにされてしまうだろう。
亜樹はエンジンを止め、佐藤と共にSUVを降りる。波の音をかき消すように、「動くな!両手を上げてそこで止まれ!」と男の声が聞こえた。
その声と共に壁の上に複数の人影が現れる。緑色の迷彩服に身を包み、手には自動小銃を構えた彼らが自衛隊員であることは明らかだった。銃口は亜樹たちに向けられていたが、亜樹は恐怖ではなく安堵を覚えていた。
ようやく長い旅が終わったのだ。そう実感する。
北海道に安全な場所があるという話は本当で、自分たちはもう感染者に殺されたり、無法者たちに襲われる恐怖に怯えながら逃げ隠れする毎日を過ごさずに済むのだ。そう思うと足から力が抜けてその場にへたり込みそうになるが、「動くな」と言われているので言われた通り両手を上げてどうにか立ち続けた。
「生存者か。二人だけか?」
壁の上から自衛隊員が問いかけてきたが、両手を上げた佐藤が首を横に振った。
「俺たちは先遣隊だ。ここから離れた場所で50人以上が待機している」
「50人!? そんなに生き残っているとは…」
佐藤の言葉に、亜樹たちに銃を向ける隊員らが「マジかよ…」と口々に呟き顔を見合わせた。
「ラジオの放送でここまで来れば北海道に連れて行ってもらえると聞いた。本当か?」
「ああ。と言っても、実際に来たのは君たちが初めてだが…とにかく歓迎する。頑張ったな」
亜樹たちに話しかけてきた隊員は、どうやらこの場を警備する部隊の指揮官らしい。「開けろ!」とその隊長が声を張り上げると、壁の真ん中にある鉄扉がゆっくりと開き、そこから銃を構えた自衛隊員が数名出てきた。
「念のためボディチェックをさせてもらう。安全のためにここから先は武器は没収だ」
「ああ、構わない。もう銃はいらない…」
佐藤のその言葉は、彼自身ではなく亜樹に向けて言っているようだった。
佐藤の言う通り、これまで四六時中手放すことのなかった武器は、この先もう必要ない。この先にあるのは自衛隊と警察に守られた安全な土地で、自分たちで戦わなくてもよいのだ。
隊員らが亜樹と佐藤の身体を探って拳銃やナイフを取り上げる。もはや身体の一部と思えるほど身体に馴染んでいた銃を手放すのは、少し前までなら絶対に考えられなかった。だがそもそもスマホや洒落たバッグの代わりに武器を持っていた今までの方がおかしかったのだ。世界が終わってしまう前までは、亜樹はどこにでもいる普通の高校生だった。
この先、自分たちはあの平和な生活に戻ることができるのだろうか。すべて元通りとはいかなくとも、毎日のささやかな楽しみを糧として、昨日と変わらない今日、今日と変わらない明日が続くと何の根拠もなく信じられるあの毎日に戻ることができるのだろうか。
いや、できるかじゃない。私たちがやるんだ。亜樹はそう硬く決心した。
亜樹たちが送っていたあの平和で便利な生活は、顔も名前も知らないたくさんの誰かが一生懸命働いてくれていたから成り立っていたことを、亜樹は世界が崩壊してようやく実感した。その「誰か」の大半は、きっと感染者と化すか殺されたことでいなくなってしまっただろう。
誰か任せにしていて、誰かが元の生活を取り戻してくれるのを漠然と待っているだけでは、きっとあの日々は戻ってこない。今を生きている自分たちこそが世界を作り直していかなければならないのだ。きっとそれこそが、生き残った人々に与えられた使命なのだろう。
亜樹をボディチェックする自衛隊員が「何だこりゃ」と言って、亜樹が懐に仕舞っていた黒い手帳を手に取る。武器ではないことは明らかだったのでその隊員はすぐに興味を失ったようだが、亜樹は思わず「その手帳、捨てないでくださいね」と口にしていた。
「ああ、武器でなければ返すが…そんなに大切なものなのか?」
「はい、大事な仲間が私に託してくれた大切な―――」
だがたとえ世界が再建されても、亜樹にこの手帳を託したあの少年はそこにはいない。
そのことが亜樹にとっては、とても残念なことだった。
ご意見、ご感想お待ちしています。
あと数話で今度こそ終わります。