エピローグ-4 シビルウォーなお話
迷彩服の男たちが出て行ってから1時間ほど、亜樹は一人両手を縛られたまま部屋に放置された。ずっと動き通しだったせいで喉が渇いていたが、水を寄越せと言い出せる雰囲気ではなかった。
班長と呼ばれていた野球帽の男はなぜ自分を殺そうとしていたのか。そしてなぜ直前になって殺すのをやめたのか。部屋に入ってきた別の男が言っていた「命令」とやらに関係があるのかもしれないが、生存者を殺さないといけない命令とは何なのか。
一番の懸念点は、亜樹の仲間たちが無事でいてくれているかということだった。嘘をついたら何をされるかわからない状況だったとはいえ、簡単に人を殺そうとする連中に本隊のおおよその場所を教えてしまったのは間違いだったかもしれない。亜樹が戻ってこないことから元居た場所から離れていてくれればいいのだが、こうして閉じ込められている間は何もわからない。
唐突に部屋のドアが開き、亜樹は一瞬身体を震わせた。殺しに戻ってきたのか、と覚悟を決めようとしたが、部屋に入ってきた班長とやらはなんだか憔悴しきった顔をしていた。たった一時間しか経っていないのに、何年も歳を取ってしまったかのようだ。
その手には拳銃ではなくペンチが握られていて、班長は亜樹の背後に回り込むと後ろ手に彼女を縛っていたプラスチックカフを切る。拳銃に手を伸ばす気配はない。
「手荒な真似をして済まなかった。もう行っていい」
そう言って背を向けて部屋を出ていこうとする班長を、亜樹は思わず呼び止めた。
「行っていいって…あんたたち誰でいったい何をやっててさっきまで殺そうとしていたのになんで私を解放することになったのかの説明がないんだけど!? まさか私がはいそうですかってそのまま帰ると思ってんの? さんざん私に質問してきたんだから今度はこっちの質問に答えてよ!」
思わず声を荒げてしまっていた。さっきまで殺されそうになっていたという恐怖で、頭に血が上っていた。
有無を言わさず殺そうとしていたくせに、「行っていい」の一言で済ませようとするとは。こうなったからには彼らに全てを話してもらうつもりだった。たとえ男たちの不評を買ったとしても、自分にはその権利があるはずだ。知りたいことを全て知るまで、男たちを許すつもりはないしどこかへ行かせるつもりもない。
亜樹が叫ぶと班長とやらは振り返り、天を仰いだ。大きく息を吐き、そして亜樹に向き直る。
「わかった。俺たちが知っている限りのことを教えよう。どうせもう、秘密にする意味もなくなったからな」
そう言って班長は部屋の隅に積んであったパイプ椅子を持ってきて、亜樹の前に座った。さっきまでとは立場が異なり、今度はまるで亜樹が彼を尋問しているかのような雰囲気だった。どこか疲れ切った様子で椅子に座っている班長は、まるで裁判を受ける被告人のようにも見えた。
「じゃあまず、あんたたちは誰なの?自衛隊?アメリカ軍? さっき言ってた命令って何?」
「そうだ、陸上自衛隊だ。任務は…青森県以北への感染者及び全ての人間の流入を阻止し、北海道を封鎖すること」
「人間だろうが感染者だろうが、青森から北へ誰も通さないってこと?」
「端的に言えば、そうなる」
ということは彼らが張っている防衛線の北に、安全地帯があるということだろう。何もない場所を守る必要なんてない。怪しかった噂は本当だったということか。
「じゃああの話は本当だったんだ。東北には自衛隊とか警察に守られた安全地帯があるって…」
「ああ、といっても青森も既に安全地帯じゃない。青森市内はとっくに感染者の巣、かろうじて下北半島先端への侵入を食い止めているくらいだ」
「じゃあ北海道は?」
「比較的、という言葉が頭に着くが、一応は安全だ。もっとも札幌は大都市で空港も近い分、パンデミック初日で壊滅したが。今じゃ焼け野原で何も残ってない」
合流した生存者たちが言っていた噂は半分合っていて、半分間違っていた。確かに安全地帯はあるにはあるが、本州はすでにその大部分が危険地帯と化していて人口が少ない東北地方も例外ではない。自衛隊や米軍のわずかな戦力だけが青森県北東部の下北半島を拠点として、本州における任務を遂行しているそうだ。一般市民の生存者のコミュニティーは無いに等しい。
そして当然と言えば当然だが、北海道にも感染者は現れた。札幌市は日本で5本の指に入る大都市だし、日本トップクラスの乗降客数を誇る新千歳空港と札幌市までは電車もバスも通っている。感染者が出ない方がおかしい。
幸いなのは北海道が面積当たりの人口が少ないことと、広大な土地のおかげで自衛隊の戦力がいまだに多く配備されていたことだった。陸上自衛隊の戦力は九州などの西方へと重点配備先が移りつつあったが、それでも広大な演習場や駐屯地を確保できる北海道にはまだ多くの戦力が残されている。パンデミックの初期段階でそれらの部隊が感染者対応に当たったことで、かろうじて北海道全土に感染者がばらまかれるという事態は避けられた。
それでも北海道の主要な都市の大半には感染者が現れ、徹底的な砲爆撃によって殲滅された。新幹線で本土と繋がっている函館、フェリーターミナルがある苫小牧、国内有数の空港がある千歳と北海道最大都市である札幌。それらの都市は自衛隊の無差別攻撃により市民と感染者もろとも焼け野原となった。北海道全土に感染を広げるためにはいかず、いわゆるコラテラルダメージというものだが、それでも少なくない非感染者の住民たちも巻き添えになったという。
多くの犠牲を払ったおかげで北海道は比較的安全な土地となった。すべての感染者をできたわけではなかったが、それでも北海道は広い。主要な道路を封鎖して住民を一ヵ所に集め、壁に囲われた隔離地区を各地に設けて外部との出入りを徹底的に制限することで、生存者と感染者の接触を防いでそれ以上の感染拡大を防ぐことは何とか出来ている。
「じゃあ北海道は安全なんじゃない。なのになんで誰も北へ向かっちゃいけないの? それに今も日本中で生きている人はたくさんいるのに救助にすら来ないなんて…」
「何もかもが足りないんだ」
世界情勢の急変などによる石油供給が不安定になった場合に備え、日本全国に石油の備蓄基地があり、北海道にも日本最大級の施設がある。原子力発電所だってあるので、この世界情勢で海外から一切の石油輸入が絶たれても、当分はエネルギー備蓄の心配はないはずだった。
「なのにどっかの国のバカな奴らがミサイルを撃ち込んできたんだよ」
亜樹たちがここに来るまでに見てきたあちこちの町と同様に、北海道も世界秩序が崩壊する混乱の中、どさくさ紛れの攻撃を受けたらしい。攻撃を受けたのは北海道の石油備蓄基地と、各地に存在する発電所などのエネルギーインフラ。当然、原子力発電所も攻撃を受けた。
当時の自衛隊は感染者対策に手いっぱいであり、ミサイル防衛に当たる要員すら銃を持って感染者の駆除に投入しているような有様だった。どこかの国から発射されたミサイルはほとんど迎撃されることなく予定された軌道を飛翔し、大半が目標である北海道各地の重要施設へと着弾した。
石油基地は炎上し、多くの発電所も飛来したミサイルで破壊され電力供給も途絶えた。かろうじて無事だった燃料は自衛隊や警察といった治安維持部隊に最優先で割り当てられ、各地の隔離地区では停電が日常となった。
食料供給も不足しつつある。大規模な農業にはガソリンが必要だし、漁業で船を出すにも燃料がいる。だがそれらに使える燃料は十分にない。冬の平均気温が氷点下になることも珍しくない北海道でそれは致命的と言えた。
「だから偉い連中は考えたんだ。これ以上の避難民を受け入れる余裕はないってな」
外部からの人間を受け入れるということは、それだけ感染者を招き入れるリスクも増えるということだ。それに加えて食料や医薬品、燃料といった生活に必要な物資が何もかも乏しい状況では、全員にいきわたるだけの配給を続けられる保証もない。事実この冬は気温が例年よりも大きく下回ったにも関わらず暖房用の燃料配給が不足し、隔離地区の各地で千単位の凍死者が出たという。
「加えて下北半島には本州側に唯一残された安全地域がある。そこに感染者を迎え入れるわけにはいかない」
北海道と本州を隔てる津軽海峡は、最も狭い場所で20キロも離れていない。なんなら水温さえ問題なければ泳いで渡ることすらできる距離だ。海流に気を付ければそれこそ手漕ぎボートで渡ることも難しくはないだろう。
海底トンネルは封鎖され、フェリーはとっくに動いていないが、破壊を免れた小型ボートならあちこちにある。船外機を取り付ければ簡単に青森から北海道に渡ることはできるだろう。
そうなることを防ぐために、残っていた自衛隊の部隊には残酷な命令が下された。本州東北地方に展開し、小部隊に分かれて長距離偵察を実施。北上し青森へ向かおうとする者はその意図に関わらず、人間か感染者かの区別をすることなく殺害せよというものだった。
いわば本州側で生き残っていた人々を見捨て、かろうじて平穏を保っている北海道だけを救うような決断だった。青森市へ至る高速道路、幹線道路は全てバリケードを設置して封鎖。長距離偵察隊が編成され、数名ごとの小部隊に分かれて各地の偵察を行いつつ遭遇した生存者、感染者は全て殺害する。
さらに万が一封鎖を突破しても北海道に到達出来ないよう青森湾と津軽海峡には機雷が敷設され、仮に北海道上陸に成功した場合でもそれ以上進めないよう沿岸部には監視を配置の上地雷も設置された。どのみち本州に近い函館市近辺はすでに破壊されほとんど無人地帯となっているが、新たな感染爆発が起きた場合打つ手がない今の政府にとってはそれすらも手緩い対応と映ったらしい。
「その上でたまたま日本にあった米軍の電子戦装備まで拝借して北海道一帯に電波妨害を掛けたんだからお笑いだ」
「電波妨害って…それやったら連絡とかできなくて困るんじゃないの?」
「政府や治安部隊が使う周波数だけ残して、後は誰も使えないように妨害しているんだ。どのみち携帯電話は死んでるし、普段の連絡は有線の電話だからそう困ることはない」
亜樹たちが北へ向かうにつれて無線機が使えなくなっていったのは、自衛隊が電波妨害を仕掛けていたからというのが真相らしかった。最初の頃は北海道は安全だということで、本州側の生存者へ向かってラジオ放送や民間人のアマチュア無線で呼びかけがされていた。しかし北海道に移転した臨時政府が新たな人間の北海道上陸禁止を決めたことで、逆にそれらの呼びかけの放送が危険視された。
いくら政府が本州への放送禁止を通知しても、まだ生きている人間を見捨てることはできないという反発の声は大きかった。その上テレビ局やラジオ局を抑えたとしても、個人で持っているアマチュア無線などまでは全て押収して回る余裕はない。それに知識がある人間なら必要な道具さえあれば放送設備だって作ってしまうだろう。
その呼びかけを聞いて安全な場所があると知った本州の生存者たちは、確実に北を目指してくるだろう。事実最初の頃はかろうじて残っていたボートを使って本州から北海道へ渡ってきた人たちがいたが、中には感染したまま海峡を渡って上陸した途端に感染者と化した者たちもいたという。そんな状況でさらに本州から人が押し寄せてくれば―――それどころか日本周辺の他国からも多くの人がやってくれば、どうなるかは火を見るよりも明らかだった。
だから北海道に避難した政府は外部との連絡を徹底的に絶った。電話の基地局や長距離放送が可能な施設は全て治安部隊が制圧し、通信は政府機関や治安部隊、医療関係者などごく一部の組織にのみ許可された。さらには自衛隊や接収した米軍の電子戦装備をフル活用して北海道全域に電波妨害を仕掛け、管理できていない無線機などであっても本州との連絡を取れないようにしたという。
そうして北海道は「死んだ」ように見せかけ、「東北地方や北海道にはまだ安全地帯が残っている」という噂だけが残った。その噂を頼りに北を目指す者も少なからずいたが、それらの人々は東北地方各地で偵察活動を行っていた自衛隊によって殺害され、運よく見つからずに進めたとしても北海道までたどり着くことはできなかった。北海道は封鎖されたも同然だ。
「なんてひどいことを…」
話をすべて聞いて最初に亜樹の口から出た言葉が全てだった。まだ北海道に政府や自衛隊が残っているというのに、助けに来てくれるどころか北へ向かおうとする人々を殺害して回っていたとは。これでは北海道以外で生き残っている人たちは今いる場所で息を潜め続け、感染者に見つかって殺されるのを待てと言っているようなものだ。
「日本のあちこちにまだ生きている人がいるってわかりそうなものなのに…」
「それはわかっていたさ。偵察衛星はまだいくつか残っているって話だし、無人機で本州の偵察もやっているから各地にまだ生存者がいることは政府関係者は皆知っている。知らないのは情報統制されてる一般人だけだ。彼らは北海道以外はすでに全滅していて、他に生存者はいないって思いこんでいる」
無人機と聞いて思い出したのだが、埋め立て地にいたころ何名かが鳥以外の物体が空を飛んでいたと言っていた。その中にはあの少年も含まれていたのだが、もしかして彼らが見たものは北海道から飛来した無人機だったのではないだろうか。
「無人機や衛星での観測結果では、まだ北海道以外の地域には百万人単位で生存者がいる。だがはっきり言って、それらの人々の一割でも北海道に受け入れることは今の状況では難しい。だから北を目指す者たちは全員殺せ。そう言われて俺たちは今日まで仕事をしてきた」
「じゃあ、私たちもこれ以上は進めないってこと?」
だとすれば苦労してここまでやってきたこれまでの道のりは何だったのか。幸いなことに死者こそまだ出ていないが、病気になったり無人の町に残されていた罠で負傷した者が出ている。皆恐怖と戦いながらここまで来て、安全な場所があるとわかっているのにそこへ行くことができないとは。
だが班長とやらの口から出てきた言葉は意外なものだった。
「いや―――さっきも言った通り命令は撤回された。俺たちにも撤収命令が出ている」
「それって…」
「状況が変わった。反乱だ、クーデターだよ」
亜樹が班長達の尋問を受けていたまさにその頃、北海道の臨時政府や指揮所が自衛隊の一部部隊によって制圧されたのだという。臨時政府首班を拘束、自衛隊の指揮所を制圧した部隊は即座に本州に派遣されていた部隊に作戦の中止を命令した。
「元々政府の中でもこの北海道封鎖に関する命令には反対している連中は多かった。本州に家族を残したまま北海道に渡った連中も多い。北海道に避難しようとしている人々の中に自分の家族がいるかもしれないって状況で、北を目指す人間は全員殺せという命令をはいそうですかと素直に実行できる奴らがどれだけいるもんか」
今北海道にいるのは元々住んでいた人たちだけではない。感染流行初期に運よく避難できた一般市民であったり、あるいは警察や自衛隊など命令に従って移動してきたような治安機関の人間も多い。命令を出していた臨時政府の人々だって大半は東京から脱出してきた政治家や官僚たちだ。
彼らだって本州に家族を残したままという状況は他の人たちとは変わらなかったが、それでもこれ以上安全地帯を失わないためにと自分の家族が殺される可能性を承知の上で命令を下した。ただ、その方針を理解はできても納得は出来なかった人間が多かったというだけの話だ。
「北海道封鎖に関する命令は全て中止された。北へ行く人間はそのまま通せという話だ」
「北海道から助けには来てくれないの?」
「それはできない。燃料も航空機の部品も何もかも足りない。一番足りないのは人手だ。感染者に噛まれたらそれでおしまいなのに、貴重な人員を各地に派遣して大規模な救出活動など到底無理だ」
本州にも燃料などの物資はあるが、それを確保するにはどうしても大規模な人員が必要だろう。運よく確保できたとしても運搬手段が必要だ。トラックやらヘリコプターやらが大きな音を立てていくつも集まっていれば、あっという間に感染者たちがやってきてしまうだろう。
「北海道に来る連中は拒まない、だが救助活動は行わない。それが今の方針だ。だから俺たちもお前とそのお仲間を北へ連れて行ってやることはできない。申し訳ないとは思うが、自力で何とかしてくれということだ」
それは無責任ではないか。亜樹はそう言いかけたが、その言葉を飲み込んだ。殺されないだけマシだと思うべきだろう。
北海道を封鎖する命令を下した人たちも、それを武力で撤回させた人たちにも、それぞれ守りたいものや大切なものがあったに違いない。そして誰もが、きっと他者のことを思いやっていたのだろう。
今北海道にいる人たちを守るためにそれ以外の人たちを見捨てるか、北海道に感染者がさらにやってくる危険を冒してでも安全地帯を目指す人たちを受け入れるか。どっちが正しいのか亜樹にはわからない。安全な場所を目指して危険な旅を続けてきた身としては後者が正しいと思いたいが、この判断が正しかったかどうかがわかるのは後になってからだろう。
「俺たちはここを離れる。もしも北海道に渡りたいなら、下北半島西北の大間崎を目指せ」
「そこには何があるの?」
「唯一本州と北海道を結ぶ船が出ている。とはいっても月に一回程度だが、本州に駐留する部隊への物資を輸送した帰りに避難民を乗せて北海道へ戻ることが決まった」
大間崎と言えばマグロで有名な場所だが、フェリーターミナルがありかつては函館との航路があった。そこが今や危険地帯と化した本州と安全な土地である北海道を結ぶ唯一の拠点として残されている。
班長は亜樹から没収した荷物を、武器も含めて彼女に返却した。亜樹が持っていた地図には、班長が書き加えたらしい様々な情報が記されている。
「感染者だらけだから市街地には近づくな、必ず山沿いを通れ。下北半島も陸奥湾沿いの地域は感染者がいるから必ず太平洋側を通って北上するんだ。大湊基地が無事だったらもっと移動は楽に済んだんだが…」
地図には使える道路と使えない道路、感染者の多い地域から比較的安全な地域まで、さまざまな情報が書き込まれていた。人口が多い地域は軒並み斜線が引かれており、これは危険地帯という意味だろう。人口が多い地域はその分だけ感染者も多く、本州に派遣されていた部隊は燃料や人員不足のせいもあって、そのような地域はほとんど放置状態だという。
「こんなことを言うべきかどうかはわかんないし、さっきまで殺されそうな目に遭ってたんだからあんたらにはめっちゃ腹が立ってるんだけど、一応言っとく。ありがとう」
「いや…君には本当に申し訳ないことをした。もしも作戦中止の連絡が来るのがあと数分遅かったら、俺は取り返しのつかないことをしていた。本当にすまなかった」
そう言って班長は深々と頭を下げた。その様子を見て亜樹は、腹立たしさの代わりに「この人もかわいそうだな」という気持ちが湧いてくる。
彼だってやりたくて亜樹を拘束して殺そうとしたわけじゃない。命令を受けていたからその通りに行動しただけだ。
やろうと思えばいくらでも逃げ出すことはできたはずなのに、この班長を始めとした自衛隊の偵察隊員たちは心を鬼にして過酷かつ非情な任務に臨んでいる。ほとんど孤立無援の状態で感染者だらけの危険な地域を偵察し、遭遇した人間は全て殺せなんて生半可な覚悟や精神では到底できない命令だ。きっと彼らにも信じるものや守りたいものがあってこの任務を遂行していたのだと思うと、目の前で頭を下げる班長に罵声を浴びせて非難するなどという真似をするのは何か違うなと亜樹は思った。
ともかく命は取られなかった。今まで何が起きていたのかを知り、安全な場所があることもわかったし、どうすればそこへ行けるのかも理解できた。これだけでも十分すぎる成果だ。あとは仲間の元へ戻って、日本最北端を目指すだけだ。
亜樹が持っていた銃はほとんど弾を撃ち尽くしていたはずだったのだが、班長から返却された時には弾倉いっぱいに弾が装填されていた。お詫びの気持ちなのかそれとも精いっぱいの手助けなのかは知らないが、偵察隊が持っていた銃弾を分けてくれたらしい。礼を言おうかと思ったが、殺されかけた恨みはこれでチャラということで何も言わずに受け取ることにした。
入ってくる時は目隠しをされていたのでわからなかったが、亜樹が連れてこられたのは偵察隊が拠点としているスーパーマーケットらしい建物だった。駐車場の片隅にはSUVが一台停まっていて、撤収のためか班長以外の隊員たちが何か荷物を載せている様子が見えた。
スーパーの隣には公園があったが、亜樹はその様子に違和感を覚えた。公園のあちこちに土が積み重なった小さな山が出来ている。それが死体を埋めた後の土饅頭だと気づくのに、そう時間はかからなかった。
土の小山はいくつも公園の敷地にあった。両手の指では足らないほどの数だ。きっとあれらは偵察隊が任務を遂行した結果、北を目指そうとして殺害された人たちの墓なのだろう。
亜樹は運よく命令が中止されたおかげで助かった。だがあの人たちはそうではなかった。きっと北へ行けば安全な場所があると信じて危険を冒してここまで来たのに、それが理由で殺された。
北海道封鎖の命令は解除され、北へ向かう人たちが殺されることは無くなった。だったらこれまで殺されてきた人たちの死はいったい何だったのだろうか? 命令さえ出ていなければ彼らは安全な北海道までたどり着くことができていて、ここで死ぬことはなかったのではないか?
あるいは彼らの死が自衛隊の反乱を引き起こし、命令の撤回につながったのだとすればその死にも意味はあったのだろうか。いずれにせよ死んだ人間が生き返ることはない。彼らの死の意味を彼ら自身が考えることはできない。
「俺たちはなんてことを…」
おそらく自分たちが手にかけたであろう人たちの墓を見て、班長がそう呟いているのを亜樹は聞いた。きっとこの状況を一番受け入れられないのは、これまで命令通りに行動してきた偵察隊の隊員たちだろう。
自分たちが北を目指す人たち、それが女子供であっても殺害することが、北海道という残された安全な土地を守ることに繋がる。そう信じて任務を遂行してきたのに、その任務は撤回された。残ったのは自分たちが何の罪もない人たちを殺したという結果だけ。命令に従っただけという一言で無かったことにできるだろうか。
きっとこの班長をはじめとした偵察隊の人たちも、命令撤回を求めて北海道で反乱を起こしたという自衛隊の人たちも、そもそも一般市民の殺害という非情な命令を下した政府の人たちも、全員が苦しむことになるのだろう。この命令は正しかったのかそれとも間違っていたのか、本当はもっと別のいい方法があったのではないか、自分たちの行動に意味はあったのか、この先何度も答えの出ない考えを続けては苦しむに違いない。
彼らの行動が正しいのかそれとも間違っているのか亜樹には判断ができない。ただ今考えられることは、安全な場所があるという希望を早く皆に伝えなければということだけだった。
亜樹の地図には彼女が偵察隊と遭遇した場所が記載されていた。そこまで戻れば乗り捨てた自転車を見つけ、無線機で佐藤たち本隊と連絡を取ることができる。班長は妨害電波は時期に停止すると言っていたが、もし無線が使えなくても本隊が最後にいた場所まで戻ることはできるだろう。
亜樹が偵察隊に連行されてきたスーパーを出発するのと同時に、班長ら偵察隊もSUVに乗って北へ向かって走り去って行った。彼らとまた会う機会はあるのだろうか、とふと思ったが、今は仲間に再会する方が先だと思いなおして亜樹は歩きだした。
しばらくすると感染者の死体がいくつも転がる大通りにたどり着く。亜樹が目隠しをされて偵察隊に捕まった場所だ。そこから点々と、パンくずの代わりに地面に転がる死体を辿って亜樹は自分が感染者と遭遇した場所まで引き返した。
パンクして乗り捨てた自転車は幸いにもそのままの状態で残っていた。荷台に取り付けてあるアマチュア無線機も無事だ。パンクしたタイヤも修理道具と知識があるので何とかなる。
亜樹は自転車のスタンドを立て、アンテナを組み立てて無線機の電源を入れた。音量を上げると以前までは妨害電波のせいで常にやかましかったノイズが全く聞こえない。班長が言っていた通り、北海道から発せられていた妨害電波が止んだのは間違いないようだ。
亜樹は無線機のマイクを握りしめ、本隊を呼び出す。ふと自分たちが北海道にたどり着いたとして、元いた人たちから受け入れてもらえるのかと不安に思った。
北海道で厳しい制約を課されながらも生きている人たちからしてみれば、本州から渡ってくる避難民は安全な土地にウイルスを持ち込みかねない危険な存在であり、貴重な物資をさらに消費する厄介者でしかないだろう。そんな人たちが素直に自分たちを受け入れてくれるか。もしかしたら追い返されるんじゃないか。そんな考えが一瞬だけ浮かんだ。
だが今は皆に希望を持たせることが先だった。希望があれば明日のことを考える余裕が生まれる。明日のことを考えれば明後日のことだって考えられるし、1年後10年後のことだって考えらえる。未来のことを考えれば生きる気力が湧いてくる。危険な長旅で疲れ切った今の皆に必要なのは希望だった。
ご意見、ご感想お待ちしてます。