エピローグ-3 北へ還れなお話
亜樹は野球帽の男の後の追い、その後を後方を警戒しつつブーニーハットの男が続く。まだ後ろから感染者たちが追ってきていたが、男たちは背後を一瞥すらしない。先を進む野球帽の男が何事か無線機に吹き込んでいたが、逃げることに一生懸命の亜樹には何を言っているのか聞き取ることができなかった。
感染者から逃げているというのに、男たちは見通しのいい大通りを選んで進んでいるようだった。道の左右にコンビニやホームセンターが立ち並ぶ片側二車線の幹線道路で、遠くからでも道路を走っている人間の姿を見つけることができるだろう。彼らは感染者から逃げる気がないのだろうか?
そんなことすら思ってしまった亜樹だが、先に進むにつれて奇妙なことに気づく。道路が車で埋め尽くされている。それ自体はよくあることだったが、奇妙なのはどの車も道路の左右に立ち並ぶガードレールやコンビニの建物に激突していたり、前の車に追突していることだった。
まるでどの車も運転中に制御を失ったかのようだ。さらに地面にはつい最近できたらしい、血痕らしい赤黒い液溜まりもあちこちで見られる。だがおかしなことに、周囲に死体は一つもない。
一体ここで何が起きているのか。そのことを聞こうとした矢先、先を進む野球帽の男が突然立ち止まって振り返った。彼が構える銃ははるか後方の、今まさに亜樹たちに追いつこうとしている感染者たちの集団を狙っている。
いくつもの銃声が轟いた。亜樹の目の前にいる二人の男だけでなく、他の誰かも発砲しているかのようだった。
消音器越しの銃声が大通りに響き渡り、亜樹たち目掛けて走ってくる感染者たちが次々と血を噴き出して倒れた。やや大き目なこの銃声は大口径のライフル銃だな、単発のやや軽い銃声はカービン銃のものだな、この連続した銃声は機関銃のものだな、と、亜樹は何となく理解した。これまでいくつも銃声を聞いてきたせいで、発砲している銃の種類がおおよそ察しが付くようにはなっていた。
消音器越しの銃声のせいで他の射手たちの姿は見えなかったが、それでも近いところにいることだけはわかる。亜樹たちを追いかけてきた十数体の感染者の集団はあっという間に身体中を穴だらけにして地面に倒れ伏し、動かなくなった。
地面に倒れた感染者たちが完全に動かなくなったのを確認し、ようやく野球帽の男が銃を下ろす。それと同時に道路を塞いでいた事故車の群れの間から、二つの人影がすっと立ち上がってこっちに来るのが見えた。一人は機関銃を、もう一人は狙撃銃を手にしており、彼らがさっき一緒に発砲していた人たちだとわかった。やはり彼らも自衛隊の迷彩服を着用し、装備が詰まっていると思しき大きなリュックを背負っていた。
「ええと、その、助かりまし…」
命を救ってもらった礼を言う間もなく、野球帽の男が下ろしていた銃口を今後は亜樹に向けた。「手を上げろ」という言葉が彼の口から出るのを待たずして、いつの間にか横に回っていたブーニーハットが亜樹の手から短機関銃を取り上げる。さらに腰のホルスターからも拳銃を奪い取り、亜樹はあっという間に武装解除されてしまった。感心するほど見事な手つきだった。
「動くな」
ぞっとするほど恐ろしい声だった。潜んでいた機関銃手と狙撃手が周囲を警戒する中、他の二人が亜樹を手早くボディチェックして武器になりそうなものをすべて取り上げていく。ナイフはもちろん、ポーチに入れていた小型のドライバーやカッターですら奪われた。そして亜樹からすべての武器を没収したところで、彼女を後ろ手にしてその両手首を結束バンドのようなプラスチックカフで拘束する。
「ついて来い。抵抗はするな」
リーダー格らしき帽子の男が言った直後、亜樹の視界が真っ暗になった。目隠しをされたのだ、とわかったのは、「進め」という言葉と共に背中を銃口で突かれたからだった。
この迷彩服の男たちは一体なんなのか。助けておいてなぜ拘束するような真似をするのか。自分はこれからどこへ連れていかれるのか。聞きたいことはいくらでもあったが、今はそれを口にすべき時ではないと感じた。目隠しのせいで視界は真っ暗だが、男たちが殺気立っている気配は十分に感じ取れる。
そのまま10分ほど亜樹は目隠しをされたまま歩かされた。何も見えなかったが、音の聞こえ具合が変わりおそらく自分が建物に入ったのだろうということは分かった。
ドアが開く音が聞こえ、そこでようやく亜樹は目隠しを外される。彼女が連れてこられたのは、どこかの店の事務所らしい窓のない部屋だった。ランタンの明かりだけが照らす真っ暗な部屋のど真ん中にパイプ椅子が二つ、向き合うように置かれている。
「座れ」
そう言われ、亜樹は大人しく従った。ブーニーハットの男がペンチを取り出して手首に巻かれたハンドカフを切ったが、亜樹が椅子に座ったとたん今度は背もたれを後ろ手で抱え込むように再び拘束される。
「あんたたち、誰…?」
「まずはこちらの質問に答えてもらう。お前は一人か?」
間髪入れずに目の前のもう一つの椅子に座った野球帽の男が口を開いた。用は済んだとばかりに、他の三人が部屋を出ていく。部屋に残ったのは亜樹と野球帽の男だけだったが、彼を倒して脱出するのは無理だろうと思った。銃こそこちらに向けてこないものの太腿のホルスターに差さっている拳銃はいつでも抜けるようになっていたし、何より亜樹は拘束されていて動けない。
ここは素直に質問に答えて、その後に彼らの正体や目的を教えて持った方がいいだろう。もっとも、彼らに亜樹を生かして返すつもりがあればの話だったが。
男の質問に亜樹は素直に答えた。自分は一人ではないこと。仲間が何人いるか、今どこにいるか、武器はどのくらいあるか、何のためにここにやってきたのか。
本隊の仲間のことを話してしまうのはマズいかと思ったが、嘘をつけるような雰囲気ではなかった。それに無線が使えないせいで偵察隊として派遣されていた亜樹と本隊との距離はさほど離れていない。たとえ亜樹が仲間のことを言わなくとも、男たちはすぐに本隊も見つけてしまうだろう。隠し立てしてあらぬ疑いをかけられるよりかは、少しでも彼らからの信用を得た方がいい。
「お前の仲間もここに来るのか?」
「わからない…私が戻ってこなかったらこっちの進路は危険だと判断して別のルートを行くかもしれない」
「仲間のために一人で何キロも偵察に出たのか。度胸があるな」
「別に。まともに動けて戦える若い人なんて少ないし、それに…」
亜樹の脳裏にかつての仲間の姿が浮かぶ。皆を逃がすために一人で危険を背負い、そしてついに帰ってこなかった少年。
「ビビッて自分だけ安全な場所にいようとしてたら、あいつに申し訳が立たないし」
「あいつ?」
「私の仲間。皆を逃がすために死んだヤツ」
「…そうか」
その一言に、恐ろしい尋問官のように思えた野球帽の男から、わずかに人間味を感じられた。
その後も質問は続いた。彼らがこの情報を頼りに本隊へ襲撃を掛けないか不安になったが、亜樹が戻らなかったということで危険を察知し移動していてくれることを願うしかない。本当ならばとっくに本隊へと帰還して偵察結果を報告している時間だから、佐藤たちも亜樹に何かあったことは把握しているはずだ。
「お前たちの目的地はどこだ」
「特に決まってない。安全なところを探して…」
「ならばわざわざこんなところまで来る必要はないだろう。どこへ行こうとしている?」
これも素直に言うべきか。特に決まっていないというのも嘘ではない。あくまでも北を目指したのは人口が少ないから感染者も多くはいないだろうという理由が大半で、自衛隊や警察が安全地帯を確保している噂を心の底から信じている者はいなかった。途中でどこか感染者や他の生存者がいなくて物資がそこそこ確保できるような場所があれば、そこで旅を終えてもいいと思っているものが大半だ。だがそんな場所が見つからないのでずるずるとここまで来てしまったわけだが。
「…北へ」
「なぜ北へ向かっている?」
「北には自衛隊とか警察が感染者を排除して、安全地帯を作っているって話を聞いたから」
そう言った途端、目の前の男が何か憐れむような視線を向けてきたのを亜樹は感じた。もしかして言わなかった方がよかったのかとも思ったが、後の祭りだ。
「…そうか。これでもうお前とその仲間を生かしておく理由は無くなった」
溜息と共に野球帽の男が立ち上がり、ホルスターから拳銃を抜く。冗談を言っている雰囲気ではなかった。やっぱり素直に答えない方がよかったのかもしれない。そう感じたが手遅れだった。亜樹の顔からさっと血の気が引き、両手を振って敵意がないことを示そうとしたところでようやく自分が後ろ手に拘束されていることを思い出す。
「待って待って待って! 別に誰かを襲ったり何かを奪ったりしたいわけじゃない! 安全な場所があるならそこに行きたいと思うのは当然でしょ! 平和に暮らしたいって思うことの何がいけないの!?」
「それが問題なんだ」
男が拳銃のスライドを軽く引き、薬室に初弾が装填されているかを確かめている様子を見て、彼が本気で撃つつもりだと亜樹は悟った。脅すつもりなら拳銃を抜くだけでいい。そんな仕草は必要ない。
「だいたいあんたら何なの!? 自衛隊? アメリカ軍? どっちにしてもなんでこんなところにいるの? なんで私たちを殺そうとすんの!?」
「俺たちも命令を受けてここにいる身でな。お前にそれを話す権限は与えられていないし、教えても意味のないことだ」
命令、ということは彼らはより上位の部隊などから指揮を受けてここにいるということだろう。生き残った自衛隊員たちがサバイバルしているというわけではなさそうだ。となると本当に自衛隊の部隊が生き残っているのかもしれない。が、なぜ彼らが生存者を殺すような命令を下しているのか亜樹には理解できなかった。
質問したいことはいくらでもあり口が勝手に動きそうだったが、目の前に突きつけられた銃口がそれ以上の質問を拒んだ。亜樹に拳銃を向けている男の目にあるのは怒りや恐怖ではなく、ただ哀れみの感情だけだった。
「これも命令だ、悪く思うな」
男の指が引き金にかかる。
こんなところで、こんな死に方をするのか。唐突に浮かんできたのは悔しさだった。自分がなぜ殺されるのかを知ることもできず、仲間に危険が迫っていると教えることもできない。ここで自分が死んでもまったく意味のない死だ。死ぬのであればせめて少年のように、誰かの役に立って死にたい。出なければこれから死ぬのだとしても納得ができない。
「班長、来てください!」
唐突にドアが開き、ブーニーハットの男が強張った面持ちで部屋に駆け込んできた。彼はまず拳銃を構えている野球帽の男を見て、それから彼の銃口が向いている亜樹に目を向けた。銃口を前に怯えている亜樹を見て、なぜだかブーニーハットの男は安堵したかのように大きく息を吐いていた。
「どうした?」
「本部から緊急の連絡が…とにかく早く来てください」
「わかった、その前にこいつを…」
「現時刻を以て全ての作戦行動を中止、だそうです」
その言葉を聞いて班長と呼ばれた野球帽の男は顔をしかめ、そして拳銃を下ろす。彼らに与えられていた指令とやらが何なのかは知らないが、中止と聞いた途端亜樹を殺すのを止めたからにはきっとよくないものに違いない。
「…すぐに行く」
そう言って班長は暴発しないよう拳銃の撃鉄を戻し、ホルスターに仕舞った。少なくとも命拾いしたらしい。いつの間にか止まっていた呼吸に大きく息を吐き、ついさっきまで死ぬ運命にあったことを思い出して震える亜樹に班長は言った。
「命拾いしたな」
部屋を出て行ったあと、彼が外からドアのカギを閉める音が聞こえた。拘束されたままだし部屋からも出られる見込みはないが、少なくとも自分が殺されることは無くなった。なぜだか亜樹はそう確信していた。
それにしても一体彼らは何なのか。何のためにここにいて、何のために生存者たちを殺そうとしていたのか。彼らに与えられていた指令とはいったい何なのか、なぜその指令が中止されたのか。知りたいことはさらに増えた。
ともかく今は命拾いしたことを喜ぼう。そう前向きに考えようとしたところで、亜樹の腹の虫が鳴った。
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