エピローグ-2 コマンドーなお話
それからも亜樹たちは北上を続けた。時に感染者と出くわし、時には別の生存者たちと遭遇して仲間に加えつつ、安全を優先してのゆっくりとした移動ではあったが、幸いにも誰一人として死ぬことなく旅を続けることが出来ていた。
しかし北に進むにつれて、通信障害もさらに酷くなっていった。以前は時折無線通信にノイズが混じる程度だったのだが、岩手県に入ったあたりからもはや無線機がほとんど使えないレベルにまで悪化した。数百メートル程度なら何とか通信は出来るが、それ以上の距離となるともはや電波を受信できない。
佐藤は何者かがジャミングを行っているのではと推測していたが、亜樹は誰が何のためにこんなことをやっているのか理解できなかった。感染者は無線機を使うわけではない。無線通信を妨害したところで、困るのは人間の方だ。それとも交信をされたら困ることでもあるのだろうか。
しかしこうなると亜樹たちたちも困った事態となった。亜樹たちは本隊に先行する偵察員を派遣する前にドローンで進路をある程度確認していたのだが、そのドローンが妨害電波のせいで飛ばせなくなってしまったのだ。ドローンといってもラジコンに毛が生えたような代物だが、カメラを搭載しているのでリアルタイムで周辺の状況を確認することができた。台数は少ないものの危険を冒さずに周辺を偵察できる便利な道具だったのだが、今では電波状況が不安定すぎて飛ばそうとしても100メートルかそこらで通信不能で墜落しかねない。
そしてそれは亜樹たち偵察隊の人間が傾向する無線機も同じだった。前まではアンテナを立てれば10キロほど離れた本隊とも通信できていたのに、強い妨害電波のせいで無線機からは絶えずノイズしか聞こえてこない。こちらも1キロ先の電波すら受信することができず、偵察隊が先行できる距離は大幅に縮まった。無線通信がほぼあてにできないせいで偵察状況の報告はほとんど口頭に頼るしかなく、車列が一日に前進できる距離は以前に比べて大幅に短くなってしまった。
「偵察隊には伝書鳩でも持たせた方がいいんじゃないか」
誰かが冗談で言ったことすら大真面目に検討されたが、誰も伝書鳩の訓練方法など知らないので当然却下された。
こうなると気になってくるのは、誰が通信妨害を行っているかということだった。どこかの無線基地局が誤作動か何かを起こして大出力で電波を送信してしまい、その電波が悪さをしているのではということも考えた。だがとっくにインフラは崩壊して電気など通っていない状況で、何か月も大出力で電波を送信し続けることが可能だろうか。非常用発電機が備わっていたとしても、一か月も保たないだろう。
感染者は無線機を使わないので通信妨害など必要ない。となるとこの通信妨害を誰かが意図的に行っているのなら、その対象は間違いなく人間となる。この日本で妨害電波を発することが可能な知識や装備を持っている組織は米軍か自衛隊くらいだろうが、それがなぜ生存者の活動を阻むような真似をする必要があるのだろうか。
しかしいいこともある。これだけの範囲で通信妨害を続けるにはそれなりの人員や装備、そして何よりも大量の電力が必要だ。この電波妨害を行っている連中は、今の日本でもそれを有しているということになる。東北地方には自衛隊や警察が安全地帯を作っているという話は何度も聞いたが、それは本当なのかもしれない。
なぜ自衛隊か米軍か、いずれにせよどこの誰が何のために通信妨害を行っているのかはわからないが、それでも亜樹たち一行は北を目指して移動を続けた。
―――そして今、亜樹は見知らぬ町を一人、息を切らして走っている。背後から聞こえてくるのは複数の足音と咆哮。
振り返ると、数体の感染者が大きく口を開け、血走った眼を見開いて亜樹を追いかけてきていた。亜樹は一瞬だけ足を止めて携えていた短機関銃を構え、単発で引き金を引いた。
軽い反動と共に消音器越しのわずかな銃声が民家に反響し、先頭を走っていた感染者の胸にぱっと血の華が咲く。しかし非力な拳銃弾が一発当たったくらいでは感染者は止まらない。さらに数回引き金を引き、銃自体の精度の良さから放たれた銃弾はほとんどが感染者たちに命中したが、死んだものはいなかった。
亜樹は舌打ちと共に再び感染者たちに背を向けて走り出した。さっきから自分がどこを走っているのか、地図を見る余裕もないからわからない。とにかく今は追ってきている感染者たちから距離を取ることしか考えられなかった。
いつものために本隊の進路を偵察するために出発したところまではよかった。しかし偵察隊は通信妨害のため無線機が使えず、口頭で報告するために頻繁に本隊へ戻るということを繰り返しており皆疲労が溜まっていた。それは亜樹も同じで数キロ進んでは安全を確認し戻るという行動を毎日していたせいで疲れており、注意力が散漫になっていた。
疲労からか亜樹は周囲の確認も不十分なまま前進してしまい、うっかり感染者たちに見つかってしまった。最初は自転車で逃げていたもののタイヤが割れたガラスか何かを踏んでパンクしてしまい、それから必死になって自分の足で走っている。
通信妨害のせいで電波が届かないので無線機で本隊に助けを求めることもできないし、そもそも無線機はさっき乗り捨てた自転車の荷台に取り付けてある。つまり助けは呼べないし、誰かが助けに来てくれる可能性も少ない。亜樹は自力でこの状況を何とかしなければならない。
重たい荷物は自転車と一緒に置いてきたので、今の亜樹は身軽だった。持っているものは武器くらい。世界がこうなってしまってから身体も鍛えてはきたが、それでもだんだん足が重くなってきた。
振り返ると、亜樹を追ってくる感染者は10体ほどまで増えていた。車のエンジン音一つしない町では、感染者の咆哮が遠くまで届く。それがさらに他の感染者を呼び寄せてしまっていた。これ以上叫ばれないように排除しようにも、銃を構えて撃っている間にほかの感染者たちに追いつかれてしまう。
「なんでぇ…?」
それでも走り続けていた亜樹は、前方に見えてきた光景に思わずそう漏らしてしまっていた。道路をぎっしりと車が埋め尽くしてしまっている。車道は言うもがな、歩道にまで車が乗りあげて行く手を完全に塞いでしまっていた。道の左右は建物が立ち並んでいて、横に抜けていくということはできそうにない。
車の上を歩くしかなさそうだが、まず車の屋根によじ登っている間に感染者に追いつかれて引きずりおろされてしまう。かといって直前の交差点まで引き返して別の道を行くことはもう出来ない。
覚悟を決めて行く手を阻む廃車の群れに進もうとしたその時、「伏せろ」とどこからか男の声が聞こえてきた。さっきまで誰の気配も感じなかったのに、幻聴か? 頭の片隅ではそう思ったが、身体は勝手に動いていた。
亜樹がその場にしゃがみ込んだ瞬間、くぐもった破裂音と共に頭上を銃弾が飛んでいくのがわかった。消音器付きの銃声だ、と気づいたのは亜樹の短機関銃にも消音器が取り付けられているからだった。
しゃがんだまま背後を振り返ると、亜樹を追いかけてきていた十数体の感染者たちが頭や胸から血を流し、次々と倒れていた。そしてしゃがんでいた亜樹の目の前に、ぬっと迷彩のズボンを履いた足が現れる。
顔を上げると迷彩服とポーチをいくつも着けたベストに身を固めた二人の男が、消音器付きのカービン銃を構えて発砲しながら感染者たちの方へと歩いていく。二人とも的確に感染者の頭や胸を狙って引き金を引いていた。走っている感染者に対してはまず二発胸に撃ち込み、姿勢を崩して動きが鈍ったところを頭にもう一発叩き込む。地面に倒れた感染者に対しても念には念を、ということなのか頭を撃っていた。
亜樹を追っていた感染者たちは、10秒も経たないうちに二人の男に殲滅されていた。訳も分からず二人組の顔を見上げている亜樹だったが、腕を掴まれて強引に立たされる。亜樹を立たせたのは迷彩服に不釣り合いな、野球帽を被った男だった。
「お前は一人か?」
何日も剃っていないのか無精ひげを生やした男たち。その奥に覗く瞳だけがギラギラと光っているように見えた。
「どうなんだ?」
そう急かされて亜樹は一瞬だけ考えた後、首を縦に振った。本隊のところに戻れば仲間は大勢いるが、今この場にいるのは亜樹一人だけだ。それにもう一人の男が亜樹に向かって銃を構えていて、その引き金に指がかかっているのが一瞬だけ見えた。もしもすぐに答えなければ撃たれるという雰囲気すらあった。
亜樹が首を振った直後、背後からまた感染者の咆哮が聞こえた。亜樹を追ってきた奴がまだまだいるということだろう。
もう一人の男———こちらはブーニーハットという麦わら帽子に似た帽子を被っていた―――が「まだ来るぞ」と野球帽の男に言う。野球帽の男は一瞬考える仕草を見せた後、「ついてこい」と首を振って走り出す。
本当に彼らについて行っていいものかと思ったが、「急げ」と背後から急かされては立ちすくんでいることもできなかった。慌てて亜樹も野球帽の男の後を追い、その後をもう一人の男が後方に銃を向けながら続く。
突然現れた男たちに頭が混乱していたが、それでも亜樹は走りながら彼らの様子を観察した。男たちが着ているのは佐藤と同じ自衛隊の迷彩服だ。だが銃や装備はテレビのニュースなどで時折目にしていた一般の隊員のそれとは違うようにも見える。感染者相手に銃撃戦の心配はないからなのか被っているのはヘルメットではなく帽子だし、分厚いプレートが入った防弾チョッキではなく弾倉や手榴弾のポーチがいくつも取り付けられたチェストリグというものを身体の前に身に着けている。
彼らは自衛隊員なのだろうか。それとも実銃を手にしただけのガンマニアか何か? 亜樹は急に不安になったが、さっき感染者たちをあっという間に殲滅した様は彼らが十分な戦闘訓練を受けた者たちであることを物語っていた。
一番の懸念点が彼らがヒャッハーな危ない連中なのではないかということだったが、もうこうなってしまってはどうしようもない。亜樹が少しでも敵対的な行動を取ったり、抵抗する素振りを見せれば彼らは容赦なく撃つだろうということが何となくわかっていた。今の亜樹にできるのは男たちの指示に従うことだけだ。
もしも彼らが危険な連中なら、わざわざ感染者に追われる亜樹を助けるなんてことはしないはず。見捨てても自分たちには何の影響もなかったのに助けてくれたということは、それなりに良識や常識があるに違いない。亜樹は必死に自分にそう言い聞かせて、前を行く野球帽の男についていった。
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