最終話 ただひたすら走って逃げ回るお話
その爆発音は埋立地から離れつつあった亜樹たちの耳にも届いた。一瞬だが車の窓が震え、続いて車内にいても耳をつんざくような、まるで近くに雷が落ちたかと思うほどの爆発音が轟く。その爆発を起こしたのが少年であることは、車内にいる誰もがわかっていた。
そして亜樹は、もう二度と少年には出会えないのだと理解した。彼は皆を守るために一人で埋立地中を逃げ回り、そして皆を守り切ったことに満足して死んでいった。それでも彼には死んでほしくなかったと思うのは、自分のエゴなのだろうか。
車内にいる誰もが無言だった。皆、少年が負傷者たちを逃がすために一人で残り、そして咬まれた彼を置いて埋立地を離れたことに少なからず負い目を感じていた。だがあの場で彼らに出来ることが何もなかったことに違いはない。少年と一緒で、皆必死になって戦っていた。
「…先にセーフハウスに到着した奴らから連絡があった。全員、無事だそうだ」
無線機を握る佐藤が、振り絞るように言う。大量の感染者を積んだ旅客船が埋立地に突っ込んできたというのに、一人の死者を出しただけで全ての住民が無事に逃げ出せたことは奇跡に近い。
もっともその一人が、先ほど大量の感染者を巻き添えに自爆したであろう少年だった。彼には助けられてばかりだったな、と亜樹は思う。今回だって少年は危険な旅客船内の探索をこなし、住民たちが逃げ出す時間を稼ぐために戦った。そして今度は負傷した佐藤たちを逃がすための囮役すら務めた。それなのに最期は一人孤独に死ぬだなんて。
彼の人生は一体何だったんだろうか。何を思い、そして死んでいったのか。既に大勢の人間が死んでいる今の世の中で改めて考えるべきことではないのかもしれないが、それでも亜樹はもっと少年のことを知りたかった。
そして両手で握りしめていた黒い手帳をじっと見つめる。別れ際に少年から託された彼の日記。彼が戻ってきたら帰そうと思っていたのに、その機会は永遠に失われてしまった。
セーフハウスに到着するまでにまだまだ時間はある。車列を感染者が追ってきていることもない。亜樹は手帳の表紙をそっとめくった。
最初のページには氏名と住所、電話番号やメールアドレスが記載されていた。埋立地から遥か遠方で暮らしていた、どこにでもいそうな平凡な名前。その下に書かれている家族の名前の前にはバツ印が書き加えられていて、彼の家族が既にこの世にいないことを亜樹に示している。
あんたのことは忘れない。亜樹はそう呟いた。
初めて出会った時から今まで、少年に助けられたことは何度もあった。途中誤解から敵対してしまったこともあったけれど、命を何度も救われた。その借りを返すことも出来ないまま、少年と再会することはできなくなってしまった。
ならばせめて、自分だけでも彼がどんな人だったのかをずっと覚えていよう。昔何かの漫画で言っていた。人が本当に死ぬのは皆に忘れ去られた時だと。
既に何百万、何千万という人々が死に、感染者と化してしまった。葬式待ちの延々と続く列の中に新たに加わった一人のことを覚えていたって仕方がないのかもしれない。次に死ぬのは自分の番かもしれない。それでも自分が生きている限りは少年のことを記憶し続け、そして語り継ぐ。そうすれば少年が本当の意味で死ぬことは少しでも先延ばしに出来るだろう。それが今亜樹に出来る精一杯のことだった。
亜樹は手帳のページを捲る。そこに綴られていたのはどこにでもいる平凡な少年がただひたすら走って逃げ回り、隠れ、そして必死に生き延びようとしていたお話だった。
閉じた瞼越しに突き刺さる眩しい陽光が意識を現実に引き戻した。
僕は、俺は、私は、自分はいったい誰だ。ここはどこだ?身体が揺れ、左半分が見えない視界の中、明るい太陽の光が目に突き刺さる。
急いで太陽から目をそらしたつもりだったが、首を横に振るだけでも亀の歩みがごとく緩慢な動作しか出来ない。そして視界の端に映る燃え盛る建物を見て、自分が何者であるのかを思い出す。
僕はまだ死んでいなかったのか。少年は炎に包まれる倉庫を眺めながら思った。かつて燃料貯蔵庫として使われていた倉庫は外壁と屋根が残らず吹き飛び、わずかな鉄骨の柱だけが残っている。赤い炎と黒煙が天高くまで立ち上り、時折ガスボンベに引火しているのか爆発音も聞こえていた。
やたらと揺れる視界のおかげで、少年は自分が海を漂っているらしいと理解した。手榴弾の爆発で気化したガソリンと放出したガスに引火し、自分が狙っていた通り感染者を巻き込んでの大爆発が起きたのは間違いないらしい。
計算違いだったのは自爆するために使った手榴弾が手元から離れて遠ざかってしまったせいで、手榴弾の殺傷範囲から離れてしまっていたこと。そこへ少年を貪り食おうと覆いかぶさってきた大量の感染者たちが偶然盾の役割を果たし、奇跡的に少年が手榴弾とそれに引火した燃料の爆風を直接受けずに済んだことだろう。倉庫が海沿いにあったせいで爆発に巻き込まれた少年は即死することなく、感染者たちやその死体、そして瓦礫もろとも爆風に乗って海まで吹っ飛ばされたらしい。
見れば少年の周囲にいくつもの死体が漂っていた。どの感染者の死体も手足や首が変な方向にねじ曲がっていて、中には胴体が引き裂かれているものもあり爆発の威力を改めて思い知る。倉庫を吹っ飛ばすほどの爆発のほとんど中心地にいながら即死せずに済むなんて、悪運というより強運というべきだろうか?
だがその強運も無意味だ。海に浮かびながら少年は空を見上げた。感染者に咬まれた時点でとっくに自分の命運は尽きている。それにもう身体の感覚が無い。指一本動かすことが出来ない。
というか、まだ両手両足が揃っているのかすらどうかもわからない。もしかしたら爆発のせいで手足が無くなってしまっているかもしれなかったが、それを確かめる気力ももはや残っていなかった。倉庫を見る際一瞬だけ視界に入った自分の胴体に、大小無数の破片が刺さっている有様だけは見えた。
燃え盛る倉庫がどんどん視界の中で小さくなっていく。どうやら引き潮で沖まで流されているようだ。もしも沖合で感染者に変異してしまっても、誰かを襲う心配はない。その前に失血死するのが先かもしれないが、いずれにせよ自分という命が消えてなくなることだけは確かだ。
「最後の最後まで一人かよ…」
本当なら倉庫で自爆した時に死んでいたはずなのに、下手に生き延びてしまったせいで感染者たちを道連れにして死ぬことも出来ない。今の少年に出来ることは波間にぷかぷか浮かびながら、青い空を眺めることだけだった。感染者すら、自分と一緒にあの世に行きたくないということか。僕のこれまでの旅は一人で始まり、そして一人で終わるらしい。
空は晴れ渡り、青空が広がっている。死ぬにはもったいないくらいの青空だ。いや、こんな青空の下で死ねるのならばそれはそれでいい思い出になるのか?
「…やっぱ、死にたくないなぁ…」
倉庫で覚悟を決めたつもりだったのに、寿命がほんの少し先延ばしにされてしまったせいでまたこうして未練が湧いてくる。こんなに青空が素敵だと思ったのは初めてかもしれない。もっと見ていたいと思うが、その願いが叶うことはない。
でもまあ、人生で最後に見る空が最高に綺麗な青空でよかったな。これまで色々と散々な目に遭ってきたから、神様がせめてものお詫びにとこの青空を見せてくれたのだろうか。
暖かい陽光のせいか、大量出血のせいか、それともとうとうウイルスが脳まで達して感染者になる時が来たのか、少年はとても眠たかった。海水の冷たさも、咬まれたり破片が突き刺さった身体の痛みももう何も感じない。
海を漂い空を見上げる。死への恐怖も過去を懐かしむ気持ちも、亜樹たちとの別れを惜しむ気持ちもどんどん消えていく。ただ、もう何も考えなくていいということだけはわかった。そしてもう何も感じずに済むのだということに、少年はどこか安心感を覚えていた。
誰かを失う悲しみも、自分が死ぬかもしれないという恐怖も、僕はもう味わうことはないのだ。もう死への恐怖に怯え、隠れ、走って逃げ回ることもしなくてよいのだ。
眩しい太陽の光の中、少年の意識は徐々に薄れていく。世界が白く染まっていく。
これにて「ただひたすら走って逃げ回るお話」の本編は終了となります。
12年もお付き合いいただき誠にありがとうございました。
本編が終わったので次回からはエピローグとなります。
最終回じゃないぞよ。もうちっとだけ続くんじゃ。