第二〇七話 言いたいことも言えないこんな世の中のお話
咬まれた。無線機から聞こえてくる少年の声はノイズだらけだったが、亜樹はその言葉だけははっきりと聞き取ることが出来た。
その言葉を聞いた佐藤の顔が一瞬だけ歪んだように見えた。感染者に噛まれたらどうなるか、それは今この場にいる全員がはっきりと理解している。今自分たちが撃ち殺している感染者の仲間入りをするということだ。
「ちょっとアンタ今なんて…」
亜樹は思わず無線機に向かってそう叫んでいたが、送話ボタンを押した途端にビープ音が鳴った。無線機での交信は一方通行、相手が話し終えて送話ボタンから手を離さない限りこちらから発信が出来ない。
『きっとバチが当たったんでしょうね。僕は人を殺し過ぎた。だからまあ、こうなるのも因果応報というか』
「何ふざけたこと言ってんの!そんなことどうでもいいから早くこっちに来なさい!もしかしたらなんとかなるかもしれないでしょ!」
ようやく少年が話し終え、すぐさま亜樹は送話ボタンを押してほとんど怒鳴りつけるように言った。だが、少年からの返事は無い。それになんとかなるだろうなんて、亜樹自身言ってて「そんなことはあり得ない」と頭の片隅ではわかっていた。咬まれた時点で手遅れであり、もうどうしようもないことは今までの経験から散々理解している。
「…行くぞ」
佐藤がそう言って皆に車に乗るよう言った。とたんに皆、それまでの持ち場を離れ脱出用の車列に一目散に駆け寄ってくる。その背後では押し寄せる感染者たちが、銃撃が無くなったのをいいことに陸地の拠点を囲むフェンスや有刺鉄線を乗り越え始めていた。
「待ってください! まだ…」
「俺たちに出来ることは何もない」
佐藤はそう言い切った。そして亜樹は反論できる言葉を何も持っていない。感染者に咬まれたらおしまいだというのはさんざん聞かされているし、実際に目の当たりにしている。早いか遅いかの違いだけで、咬まれた少年がいずれ感染者となることに変わりはない。
それでも亜樹は少年を置いていくことが出来ないと思った。今まで散々助けられたのに、最後がこれとは。そんなのはいやだった。
それにまだ亜樹は少年のことを深く知らない。亜樹たちが隠れていた学園に少年がやってきたあの日から、彼はずっとどこかで壁を作って誰も立ち入らせないようにしていた。同胞団との殺し合いや先生の死の一件があってからは少しずつ打ち解け始めていたような気もしたが、まだ知らないことが多すぎる。何も知らないままもう永遠に会えなくなるなど、そんな悲しいことはない。
だが佐藤は冷静でなおかつ現実的だった。「撤収だ!」と彼が叫ぶと、感染者の侵入を阻止すべく奮闘していた警備隊員たちが脱出用の車列へと後退を始める。少年を助けに戻る、あるいは少年が来るまでここに残るというのは、すなわち彼らを危険に晒すも同然の行為だった。そして少年をいくら待ったところで、彼が咬まれたという事実は変わらない。
すぐに死んだも同然になる人間を待つために、何人もの仲間を危険なこの場所に留めておいていいのか。本当は亜樹だって、少年を待つことが既に無駄なことであるとは理解していた。であれば一刻も早くここを脱出して、先に皆が避難しているセーフハウスに向かうのが最善の手であることも。
何よりこの場に残っている警備隊員たちの顔を見れば、亜樹はそれ以上何も言うことが出来なかった。皆恐怖と不安に支配され、一刻もこの場を離れたがっている。少年が自分の命を懸けて時間稼ぎをしてくれたおかげで、皆埋立地から脱出することが出来た。怪我をしながらも命からがら逃げのびてきたのに、こんなところで死にたくない。皆の顔はそう言っている。
『僕は…ケリは自分でつけます。あいつらの仲間入りをするのはゴメンなんで』
亜樹の気持ちにとどめを刺すかのように、無線機から少年の声が聞こえた。彼も既に自分がどうなるか理解している。そして埋立地から出てくる気はないようだった。
「…わかり、ました」
本当は何一つわかりたくもないが、そう言うしかなかった。佐藤の言う通り、もう何も出来ることが無いことだけは確かだった。
佐藤が合図を出して、背後の埋立地へかかる橋の操作盤を警備隊員が操作する。建設現場にあったクレーン車のウインチがケーブルを巻き取り始め、橋桁の役割を果たす鋼板が徐々に持ち上がっていく。埋立地への侵入防止のために爆破された元々の橋桁に代わって敷かれた鋼板は中央部で二分割されており、埋立地か陸地側のどちらかで橋を跳ね上げてしまえば対岸へ渡ることが出来なくなる。
陸地側から渡されている仮設橋の橋桁が垂直になり、埋立地と陸地を隔てる壁になった。元々あった橋桁は数メートルに渡って崩落しているため、埋立地にいる感染者の大群が陸地側へと渡ってくる恐れはない。感染者が泳げるかはわからないが、岸壁には手掛かりとなるようなものが無いため掴んで這い上がってくることも出来ないだろう。そしてそれはつまり、少年も埋立地へと閉じ込められたことを意味していた。
「乗れ!早くしろ!」
「急げ!」
完全に埋立地へのルートが遮断され、残っていた警備隊員たちが大急ぎで車に乗り込んでくる。感染者たちが殺到するフェンスは半ば倒壊し、バリケードもそれほど長い間保ちそうになかった。
『無線機がぶっ壊れてるのか皆さんの声が聞こえないのが残念です。最後にもう一度だけ話したかった。さようなら。今までお世話になりました。そして忘れないでください、僕という人間がいたことを…』
佐藤が車を出すように指示を出し、ボロボロの警備隊員たちを乗せた車列が一斉に走り出す。最後に少年と話したかったが、どうやら無線機が壊れているらしい。彼の言葉は聞こえるが、こちらからは何を言っても届かない。もう二度と話すことは出来ない。
『それと亜樹、お前に預けた手帳だけど…そこには僕が覚えている限りのこれまでの出来事が書いてある。僕がどんな人間だったのか、頼むから忘れないでくれよ』
その言葉で亜樹は胸元を抑えた。ジャケットの内側には、埋立地で少年と別れる前に彼から押し付けられた手帳が入っている。取り出して最初の数ページをめくると、そこには少年の名前や生年月日、住所に加えて卒業した学校の名前や家族の情報までびっしりと書き込まれていた。
それは少年の記録、生きてきた証だった。世界が終わってしまってから今まで少年がどこで何をして、何を考えて生き延びてきたのかが書かれている。そして彼が殺した人たちのことも、包み隠さずはっきりと書かれていた。
「忘れられるわけないでしょ、アンタみたいな奴…」
手帳を閉じ、亜樹は呟いた。だけどこんな風に手帳に残すくらいだったら、もっといろいろと話してくれればよかったのに。
もしかして少年は、とても内気な人間だったのだろうか。ふと、そんな場違いなことを考えてしまう。今度こそ無線機が沈黙し、そして二度と少年の声が聞こえてくることはなかった。
出発する車列を少年は対岸から見送った。跳ね上げられた仮設橋の向こうにある陸地では、警備隊員たちが乗った車が今まさに拠点から出ていく様子が見えた。
車列が発ってから少しして、フェンスやバリケードを破壊した感染者たちが拠点へとなだれ込んでいく。感染者たちは車列を追いかけて走っていくが、車列の出発が速かったおかげで追いつかれることはないだろう。きっと彼らは先に埋立地を脱出した人々が待つセーフハウスへ無事に辿り着くはずだ。
ふと少年は、自分が今まで生きていた意味を理解した。全てはこのためだったのかもしれない。感染者の大群が乗り込んできた埋立地から人々を無事に脱出させること、それが自分がこれまで死なずに生き残ってきた意味なのだと。
もしもここにいなければ漂着した客船の船内を探索し、外へ出てきた感染者たちを迎え撃つ人間が一人足りなかった。そのせいで防衛線がより早く破られ、避難が遅れていた非戦闘員に感染者が殺到して多くの犠牲が出ていたかもしれない。あるいは警備隊員たちの中に死者が出たかもしれない。
そして埋立地を脱出する途中で他の警備隊員たちが佐藤も含めて残らず怪我を負い、少年だけがほとんど無傷だった。もしもこの場に少年がいなければ、脱出の途中の車両事故で負傷した佐藤たちは感染者たちに追いつかれて確実に死んでいただろう。彼らが無事に橋を渡って埋立地から脱出できたのは、無傷の少年が一人埋立地に残り、囮となって感染者の大群を引き付け続けたからだった。
埋立地で暮らしていた多くの人々の命を救うこと。それが今まで自分が生きてきた意味なのではないか。少年はそう思った。
同時にそのことは皮肉でもあった。日本に感染者が表れて世界が地獄と化したあの夜から追い求め続けていた自分が生きる意味、大勢の人たちを殺してまで生き延びていた自分が生きてきた意味を理解できたのか、感染者に咬まれた後になるとは。今になって生きる意味を理解できたとしても、これから先の人生はもうないというのに。
だが少年は、少し肩の荷が下りたような気もした。他人を殺してまで生きてきたその意味がようやく理解できたのだ。それがわからないまま死んでいくよりかははるかにマシだろう。
決してこれまでのマイナスの出来事が全て帳消しとなってプラスになるわけではないが、それでもゼロには近づいたに違いない。
自分が生きてきた意味を理解できた。となればあとやることは、人間としての誇りを持ったまま死んでいくことだ。少年は背後を振り返った。
客船から飛び出してきた感染者は今や埋立地中を元気に走り回り、少年を追いかけてきている。見える範囲でも両手の指では数えられないほどの感染者がいて、少年に向かって走ってきていた。
少年が今いるのは陸地と埋立地を繋ぐ橋がある場所だが、その橋は陸地側から跳ね上げられてしまったのでもはや渡ることはできない。
だが少年がここまで来たのは逃げるためではなかった。そもそも感染者に咬まれた時点で、逃げても何の意味もない。最後にやらなければならないこと。それをやるための手段が必要だからわざわざ通れない橋のたもとまでやってきたのだ。
橋のたもとには埋立地で防衛戦闘を行っていた警備隊員たちが乗り捨てていった車と、何台かのトラックが放置されていた。トラックは元々は埋立地内の建設現場にあったもので、陸地から人力で仮設橋の上を通って運んできた物資を倉庫や生活拠点へと運ぶために使われていた。
だがトラックを動かすのも燃料を消費する上に、騒がしいディーゼルエンジンの騒音で陸地側の感染者に気づかれる恐れがあることから、電動車両が輸送の手段となってからは放置されたままだった。それでも燃料は入ったままで定期点検もしていたから今でも動くはずだし、キーも付いていたと思う。
その中の一台、工事現場の砂利運搬用に使用されていたダンプカーに目をやる。乗用車や軽トラではパワーが無いし車体も貧弱だ。ダンプカーであれば感染者を多少轢き殺したところでびくともしないほど頑丈だし、重い土砂を運ぶためにパワーもあるから途中で止まる恐れも無い。ただ一つ問題なのはマニュアル車だということだけだが、そこはなんとか頑張って動かすしかないだろう。
青い塗装があちこち剥げて錆が浮き、泥だらけのダンプカーの運転席に少年は駆け寄った。仮設橋を渡れないため警備隊員たちが放棄していったワゴン車は、エンジンが掛けっぱなしのままだった。
背後から足音がして振り返ると、感染者がすぐ近くまで迫っている。手にした拳銃を持ち上げ、引き金を引く。3体ほど倒したところで拳銃のスライドが後退したまま動かなくなり、少年に弾切れを知らせた。
もう残弾は無い。そのまま手にした拳銃を、眼前の感染者の顔面向けて投げつける。顔に金属の塊を食らって鼻血を噴き出しのけ反った感染者に、引き抜いた短刀の一撃を叩き込んだ。
さらに数体の感染者が迫ってくる。ダンプカーの運転席は高いところにあり、身体を持ち上げて乗り込まなければならない。当然その間は背中を晒すことになり無防備の状態となる。乗り込む際に外へ引きずり出されてはたまらないため、少年は今近くにいる感染者を倒しておく必要があった。
3体の感染者がそれぞれ違う方向から襲い掛かってくる。まず最初の一体の突進を飛びのいて回避した少年は、そのまま横を通り過ぎる感染者の首目掛けて背後から短刀を振り下ろした。ゴリゴリという刃が背骨を砕く嫌な感触と共に、力を失った感染者の身体が地面に倒れ込む。脊髄を損傷してしまっては感染者といえども動くことはできない。
その間に二体目の感染者が少年の背後に迫っていた。骨に当たって先端がやや欠けた短刀を、振り向きざまに感染者の顔面へ突き立てる。眼窩に突き刺さった短刀が眼球を抉り、頭蓋骨を貫通して脳にまで到達すると、感染者の身体が大きく痙攣した。
少年は最後の一体に対処すべく感染者の顔面に突き刺さった短刀を引き抜こうとしたが、度重なる戦いで限界を迎えていたらしい短刀は、鋭い金属音を立てて柄の部分から折れてしまった。
即座に他の獲物に持ち替えようとした少年だったが、その前に感染者の体当たりを食らってダンプカーのドアへと叩きつけられていた。あまりの勢いに、背中から運転席のドアパネルが歪む感触が伝わってくる。
いわゆる壁ドンの構図で食らいついてこようとする感染者の顔を左手で押さえつけ、少年は腰にぶら下げたケースから斧を取り出した。その間にも感染者は両手を無茶苦茶に振るって少年の身体を打ち据えて、殴打された場所の骨が折れたのではないかと思うほどの激痛が少年を襲う。
激痛に耐え、眼前の感染者の側頭部に斧を叩きつけた。ヘルメットすら貫通する斧の刃は容易に感染者の頭に突き刺さり、とたんに少年を殴りつけていた感染者の動きが止まった。
崩れ落ちた感染者の身体に一瞬だけ目をやり、少年は周囲の状況を窺った。相変わらず感染者はあちこちから少年に迫ってきているが、車に乗り込むだけの余裕はある。ドアのカギはかかっていないままだった。
運転席に乗り込むべく身体を持ち上げようとして、左手でアシストグリップを掴もうとした瞬間、少年は気づいた。左手の指先が無くなっている。
正確には薬指と小指の第一関節から先が消えていた。先ほど感染者の顔を抑えている時に食いちぎられたらしく、ささくれだった筋肉と折れた骨がむき出しとなった指の切断面からはどばどばと血が流れ出ていた。戦闘の興奮と感染者の殴打による激痛で、食われたことすら気づかなかったようだ。
食いちぎられたことに気づいた今ですらそんなに痛みを感じていなかったし、左目を失った時のようにパニックに陥ることも無かった。まあどうせ後1時間も無い命だしな、などと場違いにも呑気なことを考えて、少年はダンプカーの運転席に座る。
しっかりとドアをロックし、少年はハンドルやレバーの類を確認した。キーは刺さったままだ。オートマならキーを捻るなりイグニッションスイッチを押すなりすれば簡単に車は動くのだが、マニュアル車はそうもいかない。車の運転方法は大人から教わったが、マニュアル車だけは運転するのが苦手なままだった。
ダンプカーの周りに集まってきた感染者たちが車体を激しく殴打する。幸いなことに運転席が高い位置にあるため、窓を破って乗り込まれるまでは多少時間がありそうだった。
少年は太鼓のようにダンプカーを殴りつける感染者たちのことは意識から外して、一つ一つマニュアル車の運転方法を思い返していく。まずはクラッチペダルとフットブレーキを思いっきり踏み込んで、薬指と小指が短くなった左手でシフトレバーを掴みギヤがマニュアルに入っていることを確認する。そしてキーを捻ってエンジンを始動させた。
途端に座席の下から調子のいいエンジン音と振動が伝わってくる。この分ならダンプカーも動きそうだ。
が、少年はここからが苦手だった。マニュアル車はギヤの切り替え時にはクラッチペダルを使って上手くギヤを入れなければならないが、失敗すると途端にエンストしてしまう。このギヤの切り替えが一発でうまくいった試しが今までなかった。
シフトレバーを操作してギヤを一速に入れ、サイドブレーキを解除する。フットブレーキからアクセルペダルへ右足を移すが、この時まだクラッチペダルは踏んだままにしないといけない。これを忘れると途端にエンストだ。そして少年はマニュアル車の運転練習ではいつもエンストを起こしていた。
そしてアクセルペダルを軽く踏み込むと同時にクラッチペダルを徐々に戻していくと、途中で何かが引っ掛かるような感触と共に車が前に進みそうな感覚がした。いわゆる半クラの状態でクラッチペダルを戻すと、とたんにダンプカーが力強くゆっくりと走り出した。
「おお」
思わず声が出ていた。まさかエンストなしの一発でマニュアル車を発進させることが出来るとは。最悪なことばかりが続いていた今日という一日だったが、いいこともあるもんだと少年は思った。
車の前にいた感染者たちが、発進したダンプカーに巻き込まれ車体の下へと消えていく。ボキボキと足元から骨が折れ肉が潰れる音が聞こえてきたが、車の運転には何の支障も出ていない。さすがに何十体と感染者を轢いたらさすがに車も壊れるかもしれないが、それまでには目的地へとたどり着けるだろう。
マニュアル車の運転方法を理解できたってことはカッコいいスポーツカーとかも運転できるかもしれない。度重なる戦闘の疲労のせいか、そんな考えが頭に浮かぶ。残念なのは、もうスポーツカーを運転する機会など少年には訪れないであろうということだった。
食いちぎられた左手の指からはもう血がほとんど出ていなかった。その左手で巧みにシフトレバーを操作し、少年は目的地———海沿いに設けられた燃料倉庫へと向かってダンプカーを走らせ始めた。