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ただひたすら走って逃げ回るお話  作者: 残念無念
第四部:未来へ向かって脱出するお話
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第二〇七話 もう殺すしかなくなっちゃったお話

 亜樹は埋立地の方から再び銃声が聞こえてきたような気がした。気がした、というのは自分の周囲でも銃声が鳴り響いているせいで、はっきりとそう確信できなかったからだ。

 橋の周辺に設けられた陸地側の拠点もいよいよ陥落寸前といった有様であり、先ほどから絶えず感染者たちが姿を見せては警備隊員たちに射殺されている。しかしこちらの銃弾も手持ちがわずかとなってきているせいで、さっきから銃声も散発的になっていた。

 埋立地であったような感染者の津波といった程ではないが、それでも数体ほどの感染者の集団が継続的に橋の付近にやってきている。このままでは銃声を聞きつけてさらに感染者が、それこそ大群でやってくるだろう。そうなった時に慌てて逃げ出そうとしても遅い。この拠点を放棄してセーフハウスに向かうなら今しかないと誰もがわかっていたが、それを口にする者はいなかった。言い出せなかったのだ。


 まだ橋の向こうの埋立地には少年が残っている。無線機で何度も呼びかけたが、調子が悪いのか電波が届いていないのか返事も無い。だが銃声が聞こえたかもしれないということは、まだ少年が生きている証拠だった。今の埋立地で生きている人間は、少年一人しか残っていないはずだ。


「佐藤さん、もう無理です!ここを離れましょう!」


 警備隊員の一人が悲鳴にも似た声を上げる。銃声が短く連続して響き、陸地側拠点の周辺に張り巡らされたフェンスや有刺鉄線に組み付いた感染者が頭から血を流して倒れた。

 足を負傷した佐藤は脱出用に残された車両の助手席に座っていたが、ドアを開け放って小銃を構え、近づいてくる感染者を撃っていた。だがその銃弾も残り少ない。埋立地で使い果たした銃弾は橋を渡って辿り着いた陸地側の防衛拠点でいくらか補充できたが、それだって潤沢な量があるわけでもない。この分ではあと5分もしない内に再び弾切れとなり、後は感染者になすがままにされてしまうだろう。


「あと少しだけ待ってくれ、あいつがまだ…」

「さっきから感染者の数が増えてます!それにもう弾も残ってないですよ!」


 その言葉を聞いた佐藤の顔がわずかに歪んだように見えた。もしかしたら少年は既に死んでいるかもしれない。生き残っているとしても間に合うかわからない。ギリギリまで少年を待った挙句、ここに残った全員を道連れにするわけにはいかない。しかし彼が生きてここにたどり着く可能性にも賭けたい。佐藤の顔にはそんな様々な思いが浮かんでいるように見えた。

 だが警備隊員が言ったようにあと5分もこの場所で持ちこたえられるとは亜樹には思えなかった。亜樹自身も弾を補充した拳銃を片手に周辺警戒に当たっているが、本当だったら今すぐここを離れてセーフハウスに移動したい気持ちだった。今まで何度か危険な目にはあったが、感染者の大群に追われて本気で死を覚悟したあの経験はもうしたくない。今すぐ逃げたい。

 でも少年を見捨てることはできない。思考が堂々巡りを始めそうになった時、無線機のスピーカーからビープ音が鳴り、その後少年の声が聞こえてきた。


『あー、あー、聞こえますか。こちら…』


 生きていてくれた。そのことが嬉しかったが、すぐに亜樹は少年の声に違和感を覚える。なんだか声に元気が無い。戦いの連続の最中で元気を持てという方がおかしいのかもしれないが、それにしたって何かがおかしい。まるで生気が抜けてしまったかのような声だ。

 嫌な予感がした。佐藤も同じだったのか、亜樹と一瞬目が合った。そしてその予感は、すぐに現実のものとなった。





「…すいません、やっちゃいました」


 一方の埋立地。少年は自身の右手を顔の前にかざしながら、無線機に言った。

 少年の右の手の甲には、人間の歯形の傷跡がくっきり刻まれていた。傷自体はそこまで深くない。皮膚がざっくりと裂けて血も出ているが、出血はさほどではないし手も普通に動かせる。手当をして二週間もしたら完全に傷口も塞がるだろう。

 

 だが問題なのは何がその傷をつけたかということだった。そして少年の手を噛んだのは、足元に転がっている長い髪の女の感染者だった。その感染者の頭は撃ち込まれた数発の9ミリ弾で上半分が吹き飛ばされて脳味噌が零れ落ちており、今度こそ確実に死んでいた。


 だが殺すのが遅すぎた。少年が頭を撃って殺したと思っていたその感染者は弾が貫通していなかったせいで生きており、疲労で油断していた少年に襲い掛かった。そして、このザマだった。


 感染者の口内には無数のウイルスが存在していて、咬まれるとそれが人間の体内に侵入する。そして咬まれた人間もウイルスのせいで、咬んだ連中の仲間入りをしてしまうというわけだ。


 一瞬だけ、咬まれた右手を切断したらウイルスが身体中に回らず、感染者にならずに済むのではないかという考えが少年の頭をよぎる。本当かどうかはわからないが、咬まれた部位を即座に切断したおかげで感染者にならずに済んだ人もいるらしい。自分の身体の一部を永遠に失うことと引き換えに人間でいられるのであればそれもいい考えかもしれないが、無駄だなと少年は自身の首筋に手を触れながら自嘲した。


 ハイネックのシャツの首筋部分にも唾液が付着しており、襟元を下げるとそこにも傷口があった。ここも、女の感染者にやられたものだ。こっちもそこまで深い傷ではないが、手で触れるとべっとりと血が指先に着いた。

 少年に襲い掛かった女の感染者はまず首筋に食らいついてきた。すぐに身体を押しのけたおかげで首の血管まで食いちぎられることなく皮膚が裂ける程度で済んだものの、咬まれてしまったことに変わりはない。咬まれたことに動転して動きが鈍った少年の右手に感染者は続けて咬みつき、そこで弾倉に残っていた銃弾全てを頭に叩き込まれて絶命したというわけだった。


 咬まれた右手を切断したところで、首筋も咬まれてしまっているのだからもうどうしようもない。上手く止血と応急処置が出来れば右手の手首から先を切断しても生きていられるかもしれないが、首を切られて生きていられる人間はいないだろう。


 脳に近い場所を噛まれるほど感染者へと変貌する時間も早くなるというが、個人差や咬まれた際に体内に侵入したウイルスの量によっても時間が変わってくるという。最短で数分、最長で十数時間という話を聞いたこともある。だが咬まれてから感染者にならなかったという人間の話は噂でしか聞いたことが無い。個人の肉体的な抵抗力によって時間差はあれど、最終的には感染者になってしまう。その事実が少年を絶望のどん底に叩き落とした。


 少年は無線機のマイクに口を近づけた。電波が届いていないのか、それともスピーカーが壊れてしまっているのか、待っても佐藤や亜樹からの返事は無い。たぶん聞いているだろうと考えて、少年は無線機の送話ボタンを押す。


「咬まれました。つまり、僕はもうおしまいです。そっちには行けなくなったので、皆さんは早くここから脱出してください」


 努めて明るく振舞っているつもりだが、自分でも声が震えているのがわかった。これから自分も散々殺してきた感染者たちの仲間入りをするのだと思うと、絶望しか湧かなかった。

 だがこうなってしまってはもうどうしようもない。少年に残された道はこのまま自分の頭がパーになって理性と知性を失い感染者になるのを待つか、それともそうなる前に人間のまま死を迎えるかのどちらかだ。どっちも自分という人間が死ぬという意味で違いはない。


 であれば、と少年は背後を振り返った。もう長く生きられないのであれば、せめて死に方は自分で決めよう。


「僕は…ケリは自分でつけます。あいつらの仲間入りをするのはゴメンなんで」


 そして少年はまた橋の方へ向かって歩き出す。といっても橋を渡って埋立地から脱出するためではない。むしろその逆だった。


「僕がここに残ったのは自分の意志です。だから僕が死のうとこれは自己責任、気にしないでください」


 確かに囮を務めると決めた時、それ以外に方法が無かったのは事実だ。少年と亜樹以外の全員が負傷し、満足に移動も出来なかった。

 だがここに来る前の少年であれば動けなくなった彼らを足手まといとして見捨て、さっさと一人だけ脱出することを選んでいただろう。だが少年は皆を逃がすために一人残ることを選んだ。その時にこうなることも覚悟はしていた。


「きっとバチが当たったんでしょうね。僕は人を殺し過ぎた。だからまあ、こうなるのも因果応報というか」


 今までどれだけの人間を殺してきたのか、両手の指では数えきれないほどだ。恐怖に駆られ自分一人が生き延びるために容赦なく他人を殺し続けてきた、その報いを受ける時が来たのだと少年は思った。


 無線機の送話ボタンから手を放したが、相変わらずスピーカーはうんともすんとも言わない。皆がこれを聞いていなければただの独り言でしかないなと、少年は自分の行動を滑稽に思った。だが、最後に彼らと話すことが出来ないのが寂しい。


 本当はもっとやりたいこともあった。もっと話したいし、もっと皆のことを知りたい。世界がいつか平和になったら行きたい場所だってあったし見たい映画だって山ほど残っている。ショッピングモールの少年の自室には読みかけの小説だってあるからその結末も知りたい。


 だがもうそれらは全て叶わぬ夢だ。あと数分か、数十分か、あるいは数時間かはわからないが、少年は感染者の仲間入りをするだろう。人間だった時の記憶なんて欠片も持ち合わせず、口から涎を垂れ流しながら血走った目で生存者を追い求めては食い殺す怪物になる。そんなの死んだも同然だ。


 ならばやることはひとつしかない。自分の理性と知性と記憶が失われるのを恐怖と共に待つよりかは、自分で自分にケリをつける方が遥かにマシだろう。

 少年はサスペンダーにぶら下がるポーチに目をやった。その中にはさっき兵士の感染者から拳銃と共に奪い取った手榴弾が入っている。それを使えば確実に死ねるだろうが、自分一人だけで使うのはもったいない。


 少年は再び送話ボタンを押した。


「無線機がぶっ壊れてるのか皆さんの声が聞こえないのが残念です。最後にもう一度だけ話したかった」


 背後から一人の感染者が走ってくる。拳銃を構え、撃つ。これから死ぬというのに、不思議と心は落ち着いていた。さっきまで感じていた疲労も軽くなっているのは、心境の変化かそれとも既に感染者への変貌が始まっているのか。

 頭を撃ちぬいた感染者を一瞥し、少年は拳銃の弾倉を交換した。奪った拳銃の弾倉も残りは一本だけだ。それでも、橋まで辿り着いて目的を果たすまでは十分保ってくれるだろう。


「さようなら。今までお世話になりました。そして忘れないでください、僕という人間がいたことを…」


 相変わらず無線機のスピーカーは沈黙を保ったままだ。少年は最後にもう一言だけ呟いてから、無線機を地面に放り捨てた。どうせもう誰とも話すことは出来ないし、これ以上一人でしゃべり続けていたら止められそうになかった。自分の思いを全て言葉にして伝えたいが、そんな時間は残されていない。首筋を噛まれた以上、いつ感染者になってしまうかもわからないので時間を無駄にするわけにはいかなかった。


 どうせ死ぬのであれば道連れは多い方がいいだろう。言葉を理解できない感染者たちがツレなのは残念だが、どうせ彼らも心臓が動いているだけでもう人間としては死んでいるようなものだ。であれば、今度こそきちんとあの世に送ってあげた方がいいだろう。それが人情ってものだ。

 

 ふと仲間たちの顔が脳裏をよぎる。亜樹たちと出会う前、少年の目の前で死んでいった仲間たち。その後も幻覚として少年を悩ませていた彼女たちの姿は、今はもう見えない。


「今から僕もそっちに行くから」


 そこまで行って、少年は一人笑った。たとえあの世があるとしても、人を大勢殺してきた少年が行くのは地獄だろう。

 でもようやく終わる。この地獄のような世界で散々味わってきた悲しみや苦しみも、じきに少年とは無関係になる。そう思うと少しだけ心が安らいだような気がした。


 

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― 新着の感想 ―
まさかここで終わるとは思いませんでした…せっかくヒーローみたいになれ始めていたのに最後まで脇役で残念です。最初に脇役って書いていたのでいつかは死んでしまうだろうとは思っていました。最後は「主人公」に会…
[一言] 完結なのか続くのかわからん状況...
[良い点] 少年〜!!! ついに、終わってしまうのか‥長く読んでたけど、少年だけは生きていると思ったんだけどね‥しょうがない、、つらすぎる‥ [気になる点] 少年の日誌読みたいです。 [一言] 最後ま…
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