第二〇六話 覚悟の準備をしておくお話
少年が左目を失っていたその頃、佐藤たちはようやく埋立地と陸地を繋ぐ橋にたどり着いていた。先に逃げてきた生存者たちが乗り捨てていったトラックやバンが何台も連なり、その先に手作りの貧弱な橋が陸地に向かって伸びている。
陸地側からの侵入を阻止するために元々架かっていた橋を佐藤が爆破し、その後に出来たのがこの橋だった。建設現場にあったクレーン車のウインチと資材を流用し、真ん中から二分割する跳ね上げ式の橋を架けた。普段は陸地からの物資搬入などで下ろしたままとなっているが、いざという時には陸か埋立地どちらかの側の橋桁をウインチを使って巻き上げてしまえば侵入が出来なくなる。だが外からの侵入を防ぐためではなく、背後から追ってくる感染者たちを埋立地に留めるためにこの機能を使う羽目になるとはだれも思っていなかった。
陸地と埋立地は20メートルほど離れており、元々あった鉄筋コンクリート製の橋は中心部分から10メートルに渡って崩落していた。崩落個所に架けられた跳ね上げ橋の向こうの陸地では、佐藤たちが乗り込む予定のミニバンが二台、いつでも出発できる状態で待機していた。ハイブリッド駆動なのでアイドリングはしていないが、既に運転手が乗り込んでいる。
「早く!早くこっちへ!」
亜樹の同級生である葵が、佐藤たちの姿を目にして大きく手を振った。老人や子供などを乗せたバスがエンストしたため出発が遅れていると話を聞いていたが、陸地側には見えないことから修理が完了して既に出発したようだ。亜樹たちが命を懸けて埋立地で時間稼ぎを行っていたのは彼らを脱出させるためだったので、これで彼女たちの奮闘は無駄にならなかったということだろう。それがわかっただけでも佐藤や亜樹は報われた気持ちになった。
しかし陸地側でも散発的が響いており、埋立地での派手な戦闘の音が陸側の感染者たちの注意を惹いてしまったことを示していた。橋を渡ったからといってそこでのんびりしていては、今度は陸側からやってきた感染者たちに追いつかれてしまう。早いところここから離れ、万一の事態に備えて用意しておいたセーフハウスに逃げるしかない。
足を負傷した佐藤を先に、事故現場からここまで走ってきた警備隊員たちが荒い呼吸と共に橋を渡っていく。手製の橋なので車が通れるだけの耐荷重はなく、歩いて対岸に向かうしかない。歩くたびに足の裏から軽い金属音が聞こえる。
下を見ると、海が荒れ始めていた。空模様も怪しく、先ほどから風も吹いてきている。岸壁に波が打ち付け、白波が立っていた。
「あいつはまだ来ないのか」
橋を渡り、陸地側に着くと開口一番佐藤はそう言った。その言葉で亜樹は振り返ったが、埋立地側に人影はまだ見えない。さっきまで響いていた銃声も、少年がとうとう弾切れになったのかもう聞こえなくなっていた。
佐藤が無線機で少年に呼びかけたが、返事は無い。しぶといあの少年が殺されたとは思えなかったが、それでもいつまでも待っているわけにはいかない。少年より感染者が先に姿を見せたら橋を跳ね上げて陸地側への追撃を阻止しなければならないし、そうでなくても陸地側からも感染者が殺到しつつある今、ずっと彼を待っていてはこちらが感染者に食われてしまう。
全員でここに居残るわけにもいかないので、先に怪我をした警備隊員たちを車に乗せ、セーフハウスである前進基地に送る。陸地側でも何人かの警備隊員が残って橋の周辺を警備しているが、彼らも早くこんなところを離れたいというのが本音だろう。銃を手に周囲を警戒しているが、時折背後を振り返って「出発はまだか」とでも言いたげな目を向けてくる。
だが少年を置いてさっさと出発するという選択肢は亜樹には存在しなかった。負傷者を先に行かせるためにわざわざ危険な囮役を買って出た少年を置いていくなんてあまりにも非情すぎる。出来ればそんな真似はしたくはないし、佐藤にそんな決断をしてもらいたくもない。
だが時間は刻一刻と迫ってきている。対岸に少年より先に感染者が姿を見せるか、あるいは陸地側の拠点が感染者の侵入を阻止できないと判断すれば、佐藤は容赦なく少年を見捨てるだろう。
「何してんの…」
亜樹は思わずそう呟いた。別れ際に少年から押し付けられた懐の手帳が、ずっしりと重たくなったような気がする。
一方少年も橋まであと少しのところまで近づいていた。潰された左目は歩きながらバンダナで覆って応急手当していたが、それでも未だに痛みが引かない。だらだらと頬を伝う血と体液と眼球の中身の液体の感触が気色悪い。
背後から再び足音が近づいてきたので少年が振り返ると、迷彩服を着た感染者が少年に突進してくるところだった。茶色く乾いた血でだいぶ汚れているが、迷彩服は自衛隊のものではなく、また人種も日本人とは思えない感染者だった。
おそらく客船に乗り込んでいた外国の軍人だろう。埋立地に座礁した客船は途中で軍人や警官なども拾っていたらしいからその中の一人かもしれない。
その感染者が身に着けている装備に少年は注意を惹かれた。感染者と化してしまった際に落としてしまったのか小銃などは持ち合わせていないようだが、サスペンダーにはいくつかの弾倉収納用ポーチと共にホルスターがぶら下がっていた。そこから覗く拳銃のグリップを見て、少年は足を止めて弾が残り数発の自分の拳銃を引き抜く。
片目が見えないせいで一瞬距離感を掴めなかったが、構わず引き金を引いた。二回、三回と引き金を引き、四発目でようやく感染者の胸に命中する。動きが鈍ったところでさらにもう一発、今度は頭に命中した。
五発を撃ったところで拳銃のスライドが後退したまま動かなくなった。弾切れだ。予備の弾倉も銃弾も無いのでただの鉄の塊と化した拳銃を放り捨て、額に人差し指が入りそうなほどの穴が開いた感染者の死体を探る。兵士の感染者のホルスターに入った拳銃には、まだ弾が装填されていた。
乾いた血で汚れていた自動拳銃を自分のホルスターに突っ込み、死体から脱がせている暇が無いので予備弾倉のポーチがぶら下がったサスペンダーをナイフで切って自分の身体にたすき掛けにする。拳銃のスライドを軽く引くと、金色の薬莢が薬室に収まっているのが見えた。どうやらこの銃の所持者である兵士は拳銃を一発も撃たないままやられ、感染してしまったらしい。
切断したサスペンダーには拳銃の弾倉が収まったポーチがいくつかと、手榴弾が一つぶら下がっていた。これまた、古く塗装があちこち剥がれたパイナップルに似た形の手榴弾だ。
銃と弾は手に入れたが、気休めでしかない。押し寄せてくる感染者の数は銃弾よりもはるかに多いのだ。何としても早く橋へたどり着かなければ。
少年は背後から迫ってくる感染者に向けて、手に入れたばかりの拳銃を撃った。映画好きの少年にはジョン・マクレーンが使っていた銃だとわかったが、今は銃の種類などどうでもいい。
汚い咆哮と共に突進してきた感染者が少年の腹に体当たりを食らわせる。それをまともに受けてしまった少年は文字通り数メートルは吹っ飛ばされ、背中からアスファルトの地面に叩きつけられた。それでもなお拳銃は握りしめたままだったが、立ち上がろうとすると脇腹が酷く痛んだ。
客船から脱出する時に船の甲板から地面に叩きつけられたせいで肋骨が折れていたようだが、今の体当たりでさらに何本か折れたようだった。痛みに思わず浅い呼吸を繰り返したが、それでも冷静に近づいてくる感染者を撃った。下から銃撃を食らった感染者はアッパーカットを食らったかのようにのけ反り、頭頂部から血と脳味噌の破片をまき散らしつつ倒れる。
折れたのか、それともヒビが入ったか。折れた肋骨が肺に刺さっていたら今頃呼吸も出来ず血を吐いているだろうから、少なくとも重症ではない。まだ足は動く。
立ち上がったところで、今度は別の感染者がとびかかってきた。とっさにプロテクターで覆った左腕で顔を庇う。感染者は少年の腕にかみついてきたが、プロテクターのお陰でその歯が少年の腕を食いちぎることはなかった。
だが感染者の驚異的な顎力に、金属製のプロテクターがあっという間にひしゃげていく。折れ曲がった金属板が少年の腕に食い込み、そのまま万力のように押し潰そうとする。腕の骨がみしみしと音を立てるのを聞いた少年は、腕に食らいついている感染者に拳銃のマガジンに残っていた銃弾を全て撃ち込んだ。
一発撃つごとに感染者の身体ががくがくと揺れ、力の抜けたその身体が地面に崩れ落ちる。感染者の唾液に塗れたプロテクターにはきっちりと歯形が残っていて、ひしゃげた金属板が少年の腕にめり込んでいた。アルミ板を加工して作ったプロテクターだが、感染者の歯を通さないという役割は果たしてくれた。
さらに数体、少年目掛けて感染者が走ってくる。たすき掛けにしたサスペンダーのポーチから弾倉を取り出し、交換してスライドストップを下げる。金属音と共にスライドが前進して装填された。形は違っていても操作方法はだいたい同じなんだな、と少年はなんとなく思った。
拳銃を構え、先頭の一体に狙いを定める。長い髪を振り乱した女の感染者だ。頭に向けて引き金を引くと、放たれた銃弾が一発でその額に命中した。頭から血と髪の生えた皮膚の一部を吹き飛ばし、女の感染者が倒れる。
両手で拳銃を構えて、続けて引き金を引く。空気は冷えているのに走り続けてきた身体が熱い。額から流れた汗が潰れた左目に入って、変な声を上げそうになるほど激痛が走った。
撃つ。撃つ。撃つ。撃つ。弾が尽きたら弾倉を交換し、また撃つ。それを2回ほど繰り返し、ようやく少年の目の前にいた感染者は全て地面に倒れ伏した。せっかく兵士の感染者から奪った拳銃とその弾も、既に半分近くまで減っていた。
だが少年を追ってきていた感染者の先頭集団はひとまず撃退できたようで、見える範囲に感染者の姿は無かった。走り通しの上左目も潰され、疲労と痛みで全身ガタガタだった。
そのせいだからか、視界の端で何かが動いたように見えた時、少年の対処が一瞬だけ遅れた。何か動いたのが目を潰され死角となっている視野の左端だったからかもしれない。少年がそちらを剥いた時には、既に目の前に感染者がいた。
なんで、全部倒したはずなのに。だが今まさに少年の眼前にまで迫っている感染者の顔には見覚えがある。さっき頭を撃って殺した長い髪の女の感染者だ。だがよく見ると額の銃創からは白い頭蓋骨が覗いていて、銃弾が貫通していないようだった。
そういえば聞いたことがある。ライフル銃などに比べて威力の弱い拳銃弾だと角度によっては頭に当たっても弾かれたり、頭蓋骨に沿って頭皮の中を滑っていって致命傷を与えられないということがあるらしい。一発で頭に当てたことと、迫ってくる感染者の数が多かったせいできちんとトドメをさせていなかった少年のミスだった。
だが今さら後悔しても遅かった。女の感染者は両手で少年の肩を掴み、大きく開けたその口が右半分しかない視野いっぱいに広がる。とっさに再装填したばかりの拳銃を向けようにも間に合わない。感染者になったせいで磨いていないのか女の開いた口から覗く黄ばんだ歯と血の混じった唾液、そして酷い口臭が少年の五感を塗りつぶす。
ああ、これはダメっぽいな。少年はなんとなく、そう思った。
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