第二〇五話 俺の眼を盗みやがったお話
少年は手にした小銃を構えると、数十メートルの距離まで迫っている感染者に狙いを定めた。感染者の集団は5体から10体ほどの小さな群れをいくつも作っており、少年はその先頭集団に狙いを定めた。
取り付けた光学照準器の赤い光点を感染者の頭に重ね、引き金を引く。ここまで近いと逆に外す方が難しかった。いつもだったら軽くパニックを起こしていたかもしれないが、なぜか今は不思議と落ち着いて射撃に臨むことが出来ている。
4体の感染者を撃ち倒したところで、少年は後方にある交差点を確認した。橋の方へと向かう佐藤や亜樹たちの方に感染者たちが向かわないよう、ギリギリまで引き付けてから逃げなければならない。さらに3体ほど感染者を射殺したところで、少年は交差点に向かって走り出した。その後を咆哮を上げながら追う感染者たち。
少年が交差点を曲がると、感染者たちもその後を追ってきた。これでひとまずは佐藤たちから少年にターゲットが移ったことになる。少年は近づいてきた感染者をさらに数体射殺し、ポーチからパイプ爆弾を取り出した。一本しかない上に手榴弾に比べてはるかに威力の劣る手製の爆弾だが、音は派手に鳴る。感染者の注目を集めるにはうってつけの道具だった。
感染者の集団がぞろぞろと交差点を渡って姿を見せたところで、少年はポケットに入れておいたライターで鉄パイプの先端から伸びる導火線に火を点けた。そしてそのまま思い切りパイプ爆弾を投擲し、投げた方向とは正反対に走り出す。少年が投擲したパイプ爆弾は感染者の集団の真ん中に落ち、数秒の後に爆発した。
鉄片に加えて殺傷能力向上のために仕込まれていた釘やボルトがまき散らされ、感染者たちの身体を引き裂く。爆発の中心地にいた感染者たちがバタバタと倒れたが、それだけだった。黒色火薬を使った手製の爆弾ではそこまでの殺傷能力は無い。破片を食らった感染者たちも手足が千切れかけている者がいたが、それでもまだ動いていた。
だが大きな爆発音は埋立地中に轟いた。これで今度こそ、感染者たちは少年の方に向かってくるだろう。
爆発で感染者たちの動きが鈍っている隙に、少年は空になった小銃の弾倉を交換した。佐藤から渡された最後の一本だ。弾倉を挿入し、ボルトハンドルを引いて薬室に初弾を装填する。これを撃ち尽くしたら後は拳銃弾が数発と、ナイフと斧、そして短刀しかない。
再び少年は走り出した。佐藤の姿たちはもう見えず、時間稼ぎとしては十分だ。佐藤たちから感染者を引き離すのが目的だが、かといって置いて行かれるのも困る。佐藤たちが橋に着いたタイミングで少年も橋を目指す必要があった。
背後から聞こえる方向や呻き声に追い立てられるようにして、交差点に遭遇するたびに曲がり、少しずつ橋に近づいていく。だが走っている内に、背後からだけでなく横からも感染者たちの咆哮が聞こえてくるようになった。海岸に座礁した旅客船内に残っていた感染者たちが、少年のいる場所に到達しつつあるらしい。
背後から荒い息遣いと無数の足音、そして咆哮が聞こえてくるが振り返らないようにした。自分が今何十体の感染者を引き連れているのか、考えたくなかった。もしかしたら数百体はいるかもしれない。それだけの感染者を倒すだけの武器も力も残ってはいない。
少年は海岸に立つ倉庫の前を駆け抜けた。ここの倉庫は陸側から運んできた物資の中間貯蔵施設として埋立地の生存者たちが使っていたものだった。内部には機械類や材木などの資源の他に、燃料やガスも備蓄されている。
陸地で見つけたガソリンは大半が劣化が進み、車を動かすには不適当なものばかりだった。それでも単純な構造の発電機を動かす分にはまだ使えるし、プロパンガスは給湯や調理になくてはならない。そうして集めてきた燃料の類だが、万が一の事故を想定して生活拠点から離れた海岸の倉庫に備蓄してあった。
少年は備蓄倉庫を横目に見ながら中に何か使えるものが無かったか思い出そうとしたが、あるのはせいぜい丸太くらいだろう。そんなものを振り回せるような漫画の世界の人間ではない。感染者たちに火を放つということも考えたが、準備をしている間に食い殺されるのがオチだった。武器弾薬の類は一括してショッピングモールに保管されていたから、この倉庫に武器になりそうなものは残っていない。
映画ならこういう時にヒーローや騎兵隊が助けに来てくれる展開だが、生憎と少年を助けてくれそうな存在はどこにもいない。だから少年は逃げるしかない。だがずっと走り、戦ってきたせいで身体は既に限界を迎えていた。関節という関節が痛み、開いたままの口からは絶え間なく荒い息が漏れ、身体中の細胞が酸素をもっとよこせとばかりに心臓を破裂しそうなほどに脈打たせている。もはや走るというよりも早歩きのような状態だったが、それでも少年は足を止めなかった。
振り返り、近づいてきていた感染者の小集団に向けて小銃の引き金を引く。7発数えたところで、左側に突き出したボルトハンドルが後退したまま動かなくなった。いよいよ小銃の方は弾切れだ。
撃てない銃はただの鉄の棒でしかなく、3.5キロの錘を抱えたまま走る体力はもう残っていない。少年は弾切れになった小銃をその場に置き、代わりに背中に吊った鞘から短刀を引き抜いた。壊れたトラックの板バネから作り出した逸品で、勢いをつけて振り下ろしたら人間の手足も簡単に切り裂ける代物だった。
だが銃と短刀じゃリーチが違い過ぎる。体力もほとんど残っていない今、感染者との格闘戦に臨むことは自殺行為も同然だ。
少年は近づいてきた一体の感染者に向かって横なぎに短刀を振るう。刃の先端が感染者の喉元を切り裂き、真っ赤な血が噴水のように噴出した。ざっくりと裂けた傷口からはホースのような器官と、何本かの血管の断面が見える。叫んでいるのか、感染者はもはや肺とは繋がっていない口をぱくぱくと開閉させながらも、尚も少年に近づこうとした。その身体を蹴り飛ばし、少年は再び橋へと向かって走り出す。
亜樹たちは無事に橋を渡れただろうか。佐藤の怪我の様子は大丈夫なのだろうか。先に脱出した他の住民たちは無事にセーフハウスまで辿り着けたのだろうか。僕たちはこれからどうなるのだろうか…。
一瞬だけ、余計なことを考えてしまった。少年が仲間たちの行方に思いを馳せた一瞬だけ注意が緩み、その隙を見計らったかのように少年が今まさに渡ろうとしていた交差点の脇から何かが飛び出してくる。とっさのことに対応が遅れた少年の身体は、次の瞬間勢いよく吹っ飛ばされていた。
注意散漫でがら空きになっていた少年の身体に横から突進してきたのは、少年と同じくらいの年の少女の感染者だった。客船に乗っていた感染者らしく、東南アジア系のやや褐色を帯びた肌の少女の感染者は、不意打ちを食らって倒れた少年の身体に馬乗りになった。
倒れたまま両肩を押さえつけられ、大きく口を開いた感染者が顔を近づけてくる。咬まれる。そう悟った少年は、自身に馬乗りになった感染者の喉首を下から必死に掴んで押しのけようとした。何とか感染者の顔を遠ざけようとした少年だったが、次の瞬間視界の半分が真っ暗になった。
続いて襲ってきたのは猛烈な激痛だった。同時に何も見えなくなった左目の中で何かが蠢く気色の悪い感覚。感染者の指が自身の眼窩に突っ込まれたらしいと気付いたのは、涙の代わりに頬を伝うどろりとした熱い粘液の感触がしたからだった。
うわあああ、と少年は気の抜けた悲鳴を上げた。左目が見えない。目が痛い。パニックに陥りそうになり、感染者の首根っこを掴む手がの力が緩みそうになる。だが途端に顔を近づけてきた感染者を右しかない視界で捉え、頭の片隅に追いやられていた冷静さを総動員して再度両手に力を入れる。
ここで怯んではダメだ。わずかに残った理性で自身を叱咤した少年は、少女の感染者を押さえる右手を手放し、自身の太腿へと伸ばした。押さえつける力が半分になったことでますます馬乗りになった感染者が少年の首筋へと顔を近づけてきたが、少年はその一瞬の隙に太腿に巻いた鞘からナイフを引き抜いていた。
そしてそのまま目の前の感染者の頭に横からナイフを突き刺す。薄い鉄板すら貫くナイフは頭蓋骨を易々と貫通し、少年に馬乗りになった感染者は一瞬だけ身体を大きく痙攣させた。少年を地面に押さえつけていたその身体から力が抜け、少年は頭からナイフの柄を生やした少女の感染者を押しのける。
力なく感染者が地面に崩れ落ちると同時に、少年の左目に突っ込まれていたその指先も一緒に抜けていった。再び走る激痛と、指が抜けても回復しない左の視界。眼球自体が潰れてしまったらしい。自身の半分になってしまった視界に、少年は絶望しそうになった。どうにか立ち上がると、自分の左目から頬を伝い、血とどろっとした半透明の粘液が交じり合って地面に滴るのが右目で見えた。
だが再び聞こえてくる感染者たちの足音が、少年を現実に引き戻した。少女の感染者との戦いに時間を取られてしまったせいで、再び群れとの距離が縮まってきてしまった。左目は見えなくなってしまったが、右目は残っているし手足も動く。まだ咬まれてもいない。
であればここで立ち止まっている道理はない。早くみんなのところへ行かなければ。早くこの埋立地から離れなければ。早く逃げなければ。ズキズキと痛み、血が流れ出るもう見えない左目を片手で押さえ、ふらふらと少年は橋へと向かう。もはやほとんど残っていない体力と、左目を失ったことで萎えそうになる気力を総動員して、とにかく足を動かし続けた。