第二〇四話 ただひたすら走って逃げ回らないお話
停止してしまったバンに感染者が迫る。止まって乗員を救助すべきか、それとも一刻も早く脱出すべく置いていくか。佐藤の判断は前者だったらしい。「止まれ!」という佐藤の声と共に運転手が急ブレーキを踏み、二台のバンが急停車する。
「早く乗れ!」
少年はバンのスライドドアを開け、エンストした車の乗員に叫んだ。感染者の集団はもはや10メートルかそこらにまで迫ってきている。車体の下から白煙を上げる車のドアが開き、必死の形相で乗り込んでいた警備隊員たちが下りてきた。その中には亜樹もいた。
残りの弾は少なかったがやむを得ない。少年は開いたドアから小銃を構えると、近づいてくる感染者に向かって発砲した。佐藤も助手席の窓からカービンの銃口を突き出し、亜樹たちへと手を伸ばす感染者を撃つ。
まずエンストした最後尾の車に近かった後方のバンに乗員が乗り移り、乗り切れなかった分は少年と佐藤が乗る先頭の一号車へと移ってきた。先に警備隊員を収容した後方の二号車が出発し、地面にタイヤの跡を残さんばかりの勢いで急発進する。
少年は伸ばされた亜樹の手を掴み、一気に車内に引っ張り込んだ。全員が乗ったことを確認した佐藤の「出せ!」という言葉を待たずして、運転手が一気にアクセルを踏み込む。既に感染者は一号車に手が届く距離まで近づいてきていた。
少年がドアを閉めようとしたその時、急に外から伸びてきた手が少年の腕を掴んだ。そして開きっぱなしのスライドドアからぬっと感染者が姿を見せ、車内に乗り込もうとしてくる。感染者の馬鹿力で握られた腕がみしりと音を立てたような気がして、少年は思わず呻き声をあげた。
「この!!」
すかさず今乗り込んできたばかりの亜樹が鞘から鉈を引き抜き、少年の腕を掴む感染者の手に振り下ろした。骨を叩き折り、刃が半分ほど突き刺さったことで感染者の力が緩み、その隙に少年がドアから覗く感染者の上半身に思い切り蹴りを入れる。腕に鉈が刺さったままの感染者の姿が少年の視界から消え、地面を何かが転がる音がしたがそれもすぐに後方へと流れていった。
「もっとアクセル踏め!」
「踏んでます!」
運転席の方ではそんな悲鳴にも似たやり取りが交わされている。停車していたのはたったの10秒かそこらだったのに、もう車のすぐ近くまで感染者が近づいてきてしまっていた。そしてエンストした車両の連中が乗り込んできたことで、車のスピードもだいぶ落ちてきてしまっている。
「もっと早く走ってくれよ!」
「もう弾が無いよ!!」
少年らは車の窓から近づいてくる感染者に発砲を続けていたが、もはや銃弾はほとんど残されていなかった。車両に取りつこうとする感染者がボディを叩く音が響き、窓からは感染者の血走った瞳がはっきり見えるほど距離も詰まってしまっている。
ドン!ドン!と鈍い衝撃音が車の前方から聞こえ、続いて車が何かに乗り上げる感覚がした。感染者を轢いたのだ、と少年は悟った。ほんの数体だけだったが、既に前方にまで回り込まれてしまっているらしい。
「やめろ轢くな! 車がイカれる!」
佐藤がそう叫んだが、運転手の耳には届いていないようだった。恐怖に飲み込まれてしまったのか、運転手は目を見開いて車両の前方にいる感染者に向かって積極的に突っ込んでいく。フロントガラスに白いヒビが走り、跳ね飛ばされた感染者の身体が宙を舞った。
その後も何度か車は感染者を轢いたようだが、ぼん!という破裂音が足元でしたかと思うと急速にスピードが落ちていった。ガタガタと車が上下に揺れ、少年はタイヤがパンクしたのだと悟った。
感染者を車で轢いてしまうとよくあることだ。車のパワーで感染者を轢き殺すことが出来ても、折れた手足から突き出した鋭利な骨がタイヤに突き刺さり、パンクしてしまう。行く手を感染者に塞がれて強行突破しようとした、あるいは車を過信した生存者が感染者を何体も跳ね飛ばしている内にタイヤがパンクし、あるいは車体下の配管が損傷したりで身動きが取れなくなってしまった光景を少年は何度も見たことがあった。
パンクしてコントロールが利かなくなったのか、バンの車体が蛇行を始めて道路から逸れていく。パニックに陥ったのか、それともアクセルとブレーキを踏み間違えたのか、パンクしたバンがさらに加速した。もう何体か感染者を跳ね飛ばし、ガードレールを紙のように突き破り、街路樹をなぎ倒し、そして電柱にぶつかってようやく止まる。ぶつかった衝撃でシートベルトなど身に着けていない少年たちの身体は一瞬宙を舞い、そして重力に引かれて落下した。全身がバラバラになるのではないかというほどの衝撃だった。
「うう…」
車内を呻き声が満たす。エアバッグが展開した運転席で運転手は顔をハンドルに突っ伏したまま動かず、助手席にいた佐藤は何とかドアを開けようとしているようだった。
そんな中我に返った少年は、ガラスが粉々に砕けた窓から外を見た。感染者が近づいている。レールが歪んでしまったのかびくともしないスライドドアを開けることは諦め、何度か窓から外へと這い出した少年は、これだけはきちんと手にしていた小銃を構えて近づいてくる感染者に向かって発砲した。
どうにか無事だった二号車は先に行ってしまったらしい。さすがにもう止まって事故車の人間を回収している時間はないし、そもそも全員が乗り込めるスペースもない。となると、ここから先は徒歩で陸地を目指すことになる。
「早く降りろ! 奴らが近づいてきてるぞ!」
少年は右手で小銃を保持しつつ、左手で窓から外に出てこようとする乗員を外へ引っ張り出した。亜樹も車から這い出してきたが、衝突の瞬間にどこかへぶつけたのか腕を押さえている。その他の乗員も手足に怪我を負っているようで、無事なものは一人もいない。
「佐藤さん、無事ですか!?」
亜樹が潰れた運転席から運転手を引っ張り出す一方、少年は助手席の佐藤の様子を見た。どうにか意識を取り戻しているが、ドアが開かない。少年が外から力いっぱい引っ張るとようやくひしゃげたドアが開いたが、助手席にいた佐藤は座席に足を挟まれて身動きが取れないようだった。
少年が佐藤を助手席から引きずり出すと、とたんに彼は呻き声を上げた。どうやら足の骨が折れたらしい。何とか立ち上がろうとするも一人では無理そうで、とっさに少年は肩を貸した。
「早く走れ! 行け!」
外に這いだしてきた警備隊員らは手にした銃で感染者を迎え撃っていたが、怪我でろくに照準も定まらずその上弾もない。それにほとんどの者が怪我を負っており、佐藤のように誰かの助けが無ければ身動きできない者もいる。
「…俺のことはいい、お前らは先に…」
「何言ってんですかあんたは! あんたがいなくちゃ僕たちも生き残れないんですよ!」
少年は佐藤に一喝し、足が折れた彼に肩を貸して橋のある方向を目指す。旅客船から距離が取れたせいか襲ってくる感染者の数が減ったのは幸いだが、それでもなお感染者たちは警備隊員たち目掛けて走ってきている。そして移動手段を失った生存者たちは怪我で移動速度が大幅に落ちており、このままでは橋にたどり着く前に感染者たちに追いつかれるだろう。
何か方法はないのか。少年は考えた。だが名案など浮かばない。今すぐここにアメリカ軍の爆撃機が飛来して感染者の群れを焼き尽くすとかそういった奇跡でも起きない限り、ここにいる人間たちが全員無事に揃って橋までたどり着く手段はない。
だが全員でなければ―――怪我をした人間を置いていけばある程度は助かるだろう。足を怪我した人間は移動速度が遅く足手まといになる。彼らを置いていけばその他の者は走れば何とか感染者に追いつかれずに橋までたどり着けるかもしれないし、もしかしたら置いていった者たちが感染者の餌になることで他の生存者に対する注意をそらすことも出来るかもしれない。
だが、そんなことは出来ない。自分が生き延びるために誰かを見捨てる真似はしないと少年は誓った。昔の自分であれば自分が生き延びるために他人を見捨てて一人で逃げていただろうが、そんな生き方はしないと決めたのだ。人間らしく助け合って生きる。たとえ死ぬのだとしても人間として生きて人間として死にたいと少年は思っていた。
バンに乗っていた乗員は少年以外のほとんど全員が事故のせいでどこかしらを負傷している。移動するにしても全力で走ることは難しいだろう。彼らが橋まで辿り着くまでには時間がかかる。だが、その間誰かが感染者たちを足止め、もしくは注意を惹いて別方向に誘導することが出来ればその時間を稼ぐことが出来るかもしれない。
そしてこの場にそれが出来る人間は一人しかいなかった。
少年は懐に仕舞っていた手帳を取り出すと、足を負傷していた警備隊員に肩を貸していた亜樹にそれを押し付けた。突然手帳を押し付けられた亜樹は目を白黒させ、少年の行動の意味を推し量っているようだった。
「僕があいつらを足止めする、その間に橋に行くんだ」
「あんたちょっと何を言って…」
「早くしろ! これからもっと感染者が押し寄せてくる! その前に行くんだ!」
少年は空になった小銃の弾倉を交換しつつ叫んだ。これが最後の一本だった。近くにいた感染者はあらかた倒せたが、少年たちが来た方向からは尚も感染者たちがこちらに向かって走ってくる姿が見える。
「あんた馬鹿なの!? そんなことしたらあんたが死んじゃうでしょうが!」
「じゃあ怪我した連中を置いていくのか? そんなこと出来ないししたくないだろ! 誰かがあいつらを足止めして時間稼ぎをしなきゃならないんだよ!」
「だから俺が残るって…」
そう言った直後、佐藤が呻き声を上げる。ナイフを添え木代わりに折れた足の応急手当てをしていたが、この様子ではしばらく走るのは無理だろう。
「佐藤さん走れないでしょ? そんなんじゃあっという間に奴らに食われて足止めにもなりませんよ。弾も無いんですから」
「子供は大人の言うことを聞くもんだぞ…」
「生憎ですけど僕はもう18歳、未成年じゃないんです。立派な大人なんです。それに佐藤さんがいるのといないのとじゃ、この先皆が生き延びられる確率が変わってきます」
たとえ負傷していたとしても、佐藤は戦闘経験豊富な特殊部隊の人間だ。この埋立地を脱出した後もその知識と技術が生き延びる上で役に立つことは間違いなしだ。そんな彼をここで失うわけにはいかなかった。
かといって他の者がここに残ったところで、負傷しているからまともに戦うことも逃げることも出来ないだろう。となると、現状おとり役が務まるのはほとんど無傷の少年しかいない。
「亜樹に預けたそいつは僕の日記だ。預けておくだけだから中身は見るなよ」
「何馬鹿なこと言って…」
「僕だって死ぬつもりはない。せいぜい奴らの鼻先で注意を惹いて逃げ回って、皆が橋を渡ったら後をを追うさ。だから車は一台残しておいてくれよ」
確かに数千体の感染者のおとりとなって時間稼ぎをするのは危険な行為だ。だが死を前提とした作戦じゃない。埋立地から陸地にかかっている橋は陸地側からの操作で跳ね上げて封鎖することが出来る。ここにいる負傷者たちが何とか橋を渡り、その後に続いて少年も陸地に渡り橋を跳ね上げてしまえばそれ以上感染者たちは追ってこられなくなる。
中心部に大穴を開けたせいで車両は通行できないが人間は通れる橋がもう一本埋立地にはかかっているが、そこは今回の脱出地点からだいぶ離れているし障害物も設置されている。感染者たちがもしもう一本の橋を渡ったとしても、かなり時間が稼げるだろう。
「早く行けよ! もう時間が無い!」
そう叫んだ少年に、佐藤が何かを押し付けた。銃弾が装填された小銃用の弾倉だった。佐藤が最後に持っていた一本だった。
「頼んだぞ」
そう言って佐藤が皆に橋を目指すよう指示を出す。ここから橋まではさほど遠くない距離だが、負傷した皆がたどり着くには10分から20分は時間を稼ぐ必要があるだろう。その間を何とかしのぐことが出来れば少年の「勝ち」だった。
負傷した警備隊員たちが少年と佐藤の顔を見比べ、悔しそうな、あるいは残念そうな顔をして移動を始める。負傷したものを支えての移動なので走ることはできないが、それでも今は歩き続けることが大事だった。
「…死なないでよ」
そう言って亜樹が、足を怪我した隊員に肩を貸して橋の方へ向かって歩いていく。何となくその顔をもう一度見たいと思った少年だったが、亜樹が振り返ることはなかった。
近づきつつある感染者たちの咆哮で、少年は我に返った。感染者たちの先頭集団はすぐそこまで迫ってきている。佐藤から貰ったもう一本の弾倉をポーチに突っ込み、少年は小銃を構えて感染者たちに向かって走り出した。自分でも気づかない間に、口を大きく開けて雄たけびを上げていた。
これまで少年は自分が生き延びることだけを考え、他社を利用し見捨ててただひたすら走って逃げ回ることしかしてこなかった。これからも少年は逃げる。だが自分だけが生きるために逃げるのではない、皆を守るために感染者たちと戦い、そして逃げる。少年が感染者たちを引き連れたまま逃げれば逃げたぶんだけ、皆が橋まで無事に移動できる時間を稼げる。
今までいろいろなことから逃げ回ってきたツケを払う時が来たのかな。何となくそう思った。
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