第二〇二話 詰んだ、出れないお話
目を覚ました時に襲ってきたのは、全身に感じる激痛と耳鳴りだった。ぼやけた視界の中で地面が垂直に見えて、そこで少年は自分が地面に倒れているらしいということに気づく。
一体何があったっけ? 回らない頭の中、少年は直前に起きたことを必死で思い返した。暗い船内、襲い掛かってくる感染者、そして墜落—―—自分がロープで船から降りている途中、落ちてきた感染者にぶち当たって一緒に転落したことをようやく思い出す。
全身に痺れにも似た激痛が走り、呼吸をするたびに胸に鋭い痛みを感じる。まるで冷たいナイフで胸を刺されているかのようだ。どうやら転落の衝撃で肋骨が折れているらしい。
折れたのは肋骨だけか。手足はきちんとついているのか。なおも霞む視界の中、どうにか自分の身体を視野に入れようとして、そこで死体の山をクッション代わりに岸壁に着地してくる感染者の群れが見えた。
その中の一体と目が合い、感染者が何体か倒れたままの少年に向かって突進してくる。少年は何も考えられず、痛む身体を無理やり動かしてホルスターから拳銃を引き抜こうとした。が、視界がぐわんぐわんと揺れ、激痛が走る身体は思うように動いてくれない。
傾いだ視界の中で、少年に向かって走ってくる感染者たちの頭からぱっと血が飛び散った。そして同時に視界に佐藤の顔が大写しになり、「大丈夫か!?」と佐藤が怒鳴るのが見えた。どうやら佐藤は無事に船から脱出できていたらしい。
殺到しつつある感染者たちに向けて佐藤が拳銃を構えて発砲するが、焼け石に水だ。今も少年の視界の端っこではぞろぞろと船から降りてくる感染者たちの姿が見えているし、それらの多くはもはや怪我一つすることなく地上へ降りてしまっている。こうなってはもう感染者の阻止など不可能だ。船にはあと何千体感染者が残っているかすらわからない。
「手伝え!」
佐藤が叫び、防衛陣地の方から何人か駆け寄ってくる姿が見えた。佐藤が少年の身に着けたチェストリグの肩を引っ張り、陣地の方へと引きずっていく。二人に突進する感染者に、陣地の機関銃が弾幕を浴びせた。
陣地から出てきた警備隊員の一人に倒れたままの少年の運搬を任せ、佐藤が再び近寄ろうとする感染者に向けて発砲する。コンクリートの岸壁の上で引きずられているせいで尻が痛かったが、それがようやくまともな痛覚が戻りつつあることを少年に教えていた。
二つある陣地の周辺にはいくつもの感染者の射殺体が折り重なって倒れていて、文字通り死体の山を築き上げていた。警備隊員たちは自分たち目掛けて突撃してくる感染者たちに銃弾の雨を浴びせていたが、それも最初ほどの勢いは無くなっていた。押し寄せる感染者たちに向けて景気よく弾幕を張っていた機関銃も、今では二発から三発ほどのバースト射撃で弾を節約しようとしている。もともと武器が豊富にある方ではなかったが、その残り少ない銃弾も尽きつつあった。
陣地内に引っ張り込まれた少年の顔を不安そうに覗き込む者がいた。亜樹だ。どうやら彼女も少年が船から転落する一部始終を目撃していたらしい。
「アンタ大丈夫なの!?」
「大丈夫…だと思う」
そう答えた少年は自分の身体を見まわした。変な方向に折れ曲がっている個所はないし、ひどく出血している場所もない。おそらく先に転落していた感染者たちの死体がクッションとなり、墜落時の衝撃を和らげたのだろう。
まだ身体中に痛みが走っていたが、だからといって休んでいるわけにもいかない。少年は背中に吊っていたカービン銃を手に取ったが、墜落時に少年の下敷きになったせいかカービンは銃身部分が根元から折れて真っ二つになってしまっていた。元々弾なんて残っていなかったが、これで正真正銘ただのガラクタだ。
「武器、なんか武器ないか?」
「これしかないよ!」
そう言って亜樹が渡してきたのは、陣地に事前に運び込まれていた予備の武器である上下二連式の散弾銃だった。どこかの銃砲店から徴発してきたものらしく、弾もたったの二発しか装填できない。だが今の状況では使える銃が一丁あるだけでもマシだった。
「装填する!」
陣地の真ん中に据え付けられたミニミ機関銃の射手がそう叫び、機関部の装填カバーを開けた。連射を繰り返していたことでその銃身は真っ赤に加熱されていたが、予備の銃身も先ほど交換したばかりでまだ冷えていない。そして銃弾の残りは200発のベルトリンクが一本だけで、これを使い切ってしまったらこの陣地は意味を失ってしまう。
「聞け!この陣地を放棄して全員ショッピングモールまで後退する!そこで武器弾薬を補充した後ここを放棄する」
「ここって…海岸をですか?」
「この埋立地全体をだ。もうここはダメだ」
佐藤の言葉に全員が言葉を失った。元々その可能性を装填して今まで避難の訓練も積んでいたとはいえ、いざその時が来るとやはり抵抗があった。だが眼前の光景を目の当たりにすると、ここで暮らし続けるのは無理だと誰もが悟っていた。
船にあとどれだけ感染者が残っているかわからないし、あれらの感染者を全て倒すには銃弾が足りない。そもそも全ての感染者を倒す前にこちらが全員死ぬか、あるいは連中の仲間入りをしてしまうだろう。
しかしこれまで安全に暮らしていた場所を捨てるというのはやはり抵抗がある。こうなることを見越して外にも拠点をいくつか作ってはいたが、埋立地ほど快適に暮らせる場所でもない。それに他の拠点で安全に暮らせるという保証もない。でもここで踏みとどまっていても客船に残っているすべての感染者を排除することはできないだろう。
「後退!後退だ!」
その声が上がると皆浮足立った。逃げるのであればさっさと逃げたい。その心理に陥るのは当然だが、古来より軍隊が戦闘で一番被害を出すのは撤退時に追撃を受けた場合だ。早く戦場を離脱したいという心理から統率が取れなくなり、我先に敵に背中を向けて戦いながら後退することを放棄してしまうからだ。なので現場で指揮を執る佐藤としては、何としても全員の統制を保ったまま脱出用の車両が待機している地点へ後退させなければならなかった。
「俺のチームを1班、ハンのチームを2班として交互に後退だ。20メートル下がったらその場で他の班の後退を支援しろ。皆慌てるなよ」
この中で軍隊の経験があるのは現役の自衛官である佐藤と、兵役経験者のハンだけだった。その二人が指揮を執り、互いに援護しながら海岸を離れてショッピングモールまで下がり、そこで武器弾薬を補充してから陸地にある脱出地点まで向かう。
だが今いる埋立地の海岸から陸地までは直線距離でも1キロはあるし、実際の距離はそれ以上だ。それに感染者の侵入の備えは陸側からを想定していたせいで、海岸からショッピングモールまでの道中に感染者の進撃を阻むバリケードや柵などの設備はほとんどない。あっという間に感染者は埋立地の端まで到達してしまうだろう。脱出用の車両に感染者が追いついてしまっては何の意味もないので、その前に埋立地から出ていかなければならない。
少年は陣地の中に置かれていた弾薬箱から散弾銃のシェルを鷲掴みにすると、自分のポケットに詰め込めるだけ詰め込んだ。といっても弾は30発かそこらしかない。それは周囲の皆も同じで、ずっと撃ち続けていたせいで早くも弾切れを起こし始めている者もいた。いくら射撃の訓練を受けたとはいえ、走る人間サイズの目標の、それも頭や頸椎などの弱点を一発で撃ち抜ける者などこの場にはほとんどいない。感染者一体に対して何発も撃ちこみ、ようやく動きを止めることが出来ているような現状では、いくら弾があっても足りなかった。
「皆弾を無駄にするなよ。2班、後退だ!」
佐藤が叫ぶと隣の陣地からの射撃が止み、武器を手にした男たちがハンを先頭にショッピングモールの方へと走っていく。それまで感染者に向けられていた銃口が一気に半分になったので、船から降りてくる感染者たちがさらに陣地の方まで近づいてきた。
少年も散弾銃を構え、陣地の目と鼻の先まで迫っていた感染者へ向けて引き金を引いた。強烈な反動が肩に伝わり、痛む身体をさらに痛めつける。銃口の先で感染者の額から上が吹っ飛び、小さな塊となった脳髄がまき散らされるのが見えた。
もう一発発砲し、銃身を折って空薬莢を輩出する。二発撃つごとに弾を込めなければならない散弾銃は不便だったが、ここにはもう他に銃はない。予備の武器が保管してあるショッピングモールまで後退出来れば自衛隊の自動小銃の一丁くらいは残っているかもしれないが、果たしてそれまで銃の弾が残っているだろうか。
少年は周囲を見回して他に武器がないか探した。空薬莢が散らばる陣地の中、接近戦を想定して誰かが持ってきたらしい槍が数本転がっている。槍と言っても鉄パイプの先端にスパイク状の剣を取り付けただけの手製のものだが、ナイフや斧よりもリーチがある分マシだろう。
今や感染者は陣地の目と鼻の先まで迫ってきている。銃を撃つ警備隊員たちの顔には焦りと恐怖の色が浮かんでいた。ここ数か月安全な埋立地で暮らしていたことが、彼らに感染者の恐怖を忘れさせてしまっていた。
「入ってくるぞ!」
その言葉と共に感染者が陣地を囲む有刺鉄線に取りつき、乗り越えようとしていた。最初の数体は衣服に有刺鉄線が絡まり、身動きできなくなったところを射殺された。だがその死体の上を他の感染者が乗り越え、土嚢や机などのバリケードで囲まれた陣地に侵入してくる。
少年は散弾銃から手を放して槍を持つと、中段に構えて一気に感染者目掛けて突き出した。槍の先端が感染者の胸に深々と刺さり、肋骨の背中側に当たって止まる。まるで昆虫標本のように槍が刺さってその場でもがく感染者に亜樹が銃口を向けて引き金を引いた。動かなくなった感染者から槍を引き抜き、少年は再び散弾銃を手に取った。既に数体の感染者が陣地に侵入し、拳銃や短刀を手にした警備要員たちとの間でほとんど格闘戦の様相を呈していた。
「皆後退だ!下がれ!」
どうやら2班が援護可能な位置まで移動できたらしく、佐藤が後退の合図を出す。後退の号令を待ちかねていたためか、号令と同時に同時に陣地に残っていた警備隊員たちが一斉に駆け出した。
陣地に留まっていた1班の警備隊員たちが背中を向けた途端、十分な距離を稼いだ2班の面々が援護射撃を開始する。しかし距離が開いた上に残弾も心もとない状態では後退する1班に近づく感染者を阻止しきることが出来ず、何人かが感染者に追いつかれそうになった。
少年と佐藤はパニックを起こす寸前の有様で逃げ惑う1班の警備隊員たちの殿を務めていた。手が届きそうな距離まで近づいた感染者には槍を突き刺し、離れた距離からこちらを狙うやつには散弾銃をお見舞いする。佐藤も弾切れになったカービン銃を背中に吊り、拳銃と短刀を巧みに持ち替えて感染者と戦っていた。
これは保ちそうにもないな。少年はなおも座礁した客船の中から溢れ出てくる感染者の群れを見て、何となくそう悟った。
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