第一九七話 闇の中のお話
闇の中、ふと何かが動いた気がした。同時に微かな物音がして、少年と佐藤は足を止める。
二人は前方に向けて銃を構えたまま、視線だけを巡らせて物音の正体を突き止めようとした。扉が開いたままの客室から、何かが出てくる。
それは丸々と肥え太った鼠だった。まるで子猫のようなサイズの鼠は少年たちを見ても逃げ出すことはせず、呑気に廊下を歩いて闇の中へと消えていく。まるで「この船の主は自分だ」とでも言わんばかりの姿だ。
「…デカかったですね」
少年は思わずそう口にしたが、佐藤は無言のまま鼠が出てきた客室を覗いた。すぐに、「見てみろ」と彼の声が聞こえた。
客室の中にあったのは死体だった。死後に鼠に食い散らかされたのか、あまり肉が残っていないその死体は、どうやら頭を銃で撃たれたらしい。むき出しになった頭蓋骨の額に小指の先ほどの穴が開いた死体が、ベッドにもたれかかるようにして倒れていた。
床には空薬莢が一つだけ落ちている。大きさからして拳銃の薬莢のようだった。部屋の中に銃などは見当たらず、持ち主は発砲後にすぐこの部屋を立ち去ったようだった。
「感染者…ですかね」
「わからん。こうも食い散らかされていたんじゃ殺される前に人間だったのか感染者だったのかも区別もつかないな」
さっきの鼠はどうやらこの死体を食ってあんなに大きくなったらしい。骨に肉がこびりついていると言った体の死体が、何故撃たれたのか原因はわからなかった。何らかの原因で感染者になったのか、それとも生きた人間同士の争いの結果撃たれて死んだのか。
「何が起きたかはブリッジに行けばわかるだろう。先を急ぐぞ」
死体を見つけたことを他の班に無線で連絡し、佐藤はケミカルライトを追って床に放りつつ再び船の奥へ向かって進み始める。蛍光オレンジの光を放つケミカルライトが、少年たちの後に点々と続いていく。
さらに進んでいくと客室は通路の舷側だけに並ぶようになり、反対側―――船の中心部に当たる側には扉のない壁が続くようになった。きっとこの奥にスタッフ用の設備があるのだろう。寝具の回収や掃除などを行う際、乗客用の階段やエレベーターを使用せずとも済むように各フロアに従業員の出入り口があるはずだ。
すぐに、「Staff only」のプレートが貼られた扉が見つかった。試しにドアノブを回してみたが、当然と言うべきか動かなかった。ドアの脇にはカードキーの認証機器が設置されていて、スタッフ用のカードが無ければこの先には進めないようだった。
これまで気づいていなかったが、客室のドアノブにもカードキーの認証機器が設置されていた。だが船全体の電源が落ちてしまっている今、それらの機器は動いていない。映画では停電したらドアのロックは解除されるところだが、実際のところセキュリティ面からロックは解除されないのだろう。
「突入するぞ。援護を頼む」
佐藤の言葉で、少年は今まで背中に背負っていた物体を手に取る。丸太の上部に二つの取っ手が着いたといった体のそれは、特殊部隊が建物の突入時にドアを破壊するための破城槌だった。機関銃一丁並の重さのラムをずっと背負っているのは大変苦痛だったが、これでようやくその苦労も報われるというものだ。
10キロ近い重量のラムの取っ手を両手で握り、勢いをつけてその先端をドアノブ付近に叩きつける。轟音と共にドアがひしゃげ、ロック部分を破壊されたドアがゆっくりと開いた。すかさず脇に控えていた佐藤が破壊されたドアを蹴り開け、銃を構えてその奥へと突入する。
「クリア」
従業員用の区画には誰もいないようだった。非常用電源が落ちた従業員通路には真の暗闇が広がっており、頼りになるのは銃に取り付けたフラッシュライトだけだ。少年は再び重たいラムを背負うと、自身も銃を構えて佐藤の後に続く。
綺麗な絨毯や豪華な装飾が施された乗客用の区画と異なり、従業員用の区画は簡素で機能優先といった印象だった。少年はしゃがんで床を触ったが、埃はそれほど積もっていない。この船が出航してからいつまで掃除を続けていたのかはわからないが、誰もいなくなってからそれほど時間は経っていないらしい。
従業員用の区画にも死体は見当たらなかった。船に乗り込んでから見かけた死体は、先ほど鼠に食われていた奴が一つだけ。何があったのかはわからないが、死体が無いというのも奇妙な話だった。それとも船内が広大過ぎるせいで、たまたま今まで通った場所に死体が無かっただけなのだろうか。
同じく突入し、今は最上階のデッキへ向かっている他の二班から特段の連絡もない。接敵した場合は即座に共有、もし脅威が多ければ即座に脱出するように命じている。何か見つけた場合も情報共有するように事前に指示されているが、連絡が無いということはまだ何も見つけていないということなのだろう。
それにしても初めて乗る船なのに、佐藤の足取りに全く乱れはなかった。どこの通路を通り、どこの階段を上れば目的地にたどり着けるか知っているかのようだ。
そのことを尋ねると、「船に突入する訓練もしていたからな」とこともなげに帰ってきた。テロ対策や大量破壊兵器拡散防止の臨検といった訓練で、今まで何度か船を制圧する訓練を行ったことがあるらしい。おかげでよっぽど変わった船でなければ、ある程度はどんな構造かなんとなくわかるのだという。
「まあこんな豪華客船を使った訓練は一度もやったことがないけどな」
静まり返った船の通路に二人分の足音だけが響く。殺風景な通路を進み、さらにいくつか階段を上る。死体も感染者も、生きている人間もいない。10キロの重さがあるラムを背負っているせいで正直階段を上るのはきつかったが、文句は言っていられない。
「ここがブリッジだ」
そう言って佐藤が目の前の扉を銃口で指し示す。昔は航海中にブリッジの見学ツアーなども行っていたらしいが、テロ対策のため今はほとんどやっていないらしい。でかでかと英語で立入禁止の警告文のプレートが貼られた扉は見るからに頑丈そうだったが、おかしなことにロックは掛かっていなかった。半開きのままの扉の隙間から、わずかに光が差し込んできている。
佐藤が扉を軽く銃口で押したが、何も起きる気配はない。罠が仕掛けられていないことを確認してから、佐藤と少年は一気にブリッジへと突入した。
豪華客船のブリッジを初めて見た少年が抱いた感想は、まるで高層ビルの展望台のようだというものだった。船の操舵室と言えば狭くてたくさん機械があるというイメージだったが、何十メートルも幅があるブリッジは所々にディスプレイを備えたコンソールが配置されているだけで広々としており、どこかのオフィスビルの一角のようにも見える。クルーがリラックスして航海に臨めるようにするためか、ブリッジの端には観葉植物とソファーを備えたスペースまであった。操舵室正面の壁は全てガラス張りとなっており、そこから外の景色が一望できた。
だが優雅な労働環境に見とれるのは後だ。銃を構えて少年と佐藤は操舵室内部を進み、そこに誰もいないことを確認した。ここにも死体はない。
「この船、いったいどこに行くつもりだったんでしょうね」
普段は整理整頓されているのだろうが、終末世界での航海となればそうもいかなかったらしい。操舵室にいくつかあるテーブルの上には海図と地図が広げられ、あちこちに〇や×がサインペンで書き込まれていた。
危機的状況下でも問題なく異国人の乗客と意思疎通を図れるようにするためか、床やテーブルには様々な言語の辞書が積み重なっている。床に散らばったお菓子の包み紙や空のペットボトルが、ここにも人がいたことを佐藤と少年に伝えていた。
「中を調べろ。何か書かれているものがあれば教えてくれ。ノートや付箋、何でもいい」
佐藤の指示で少年は操舵室を歩く。佐藤はといえば、テーブルに広げられた海図や床に散らばったメモ書きを拾い集めてこの船で何が起きたのか調べようとしていた。
少年も操舵室を回り、何か有益な情報が書かれたものがないか調べる。床には英字新聞が散らばっていたが、日付はどれも全世界的に感染が広がり始めた前後のものだった。英語が苦手なので記事の内容まで把握は出来ないが、それでも「パンデミック」だの「殺人」だのということを書いているのだろうなということはわかる。炎に包まれるどこかの都市や、感染者を射殺する兵士のモノクロ写真がくしゃくしゃになった新聞紙に印刷されていた。
船と言えば一抱えもある大きな舵輪を使って進路を変更するものだと思っていたのだが、それは古い映画の中の話らしい。少年が操舵室のちょうど中央、一番船首に近い場所へ向かうと、そこには旅客機の操縦席のようなシートとコンソール、そしてスロットルのレバーやジョイスティックが鎮座していた。
今の船は立ったまま舵輪など回さず、座ったまま手元のレバーやジョイスティックで全ての操作が行えるらしい。隣り合って並んでいる二つの操舵席に設けられたモニターは真っ暗で、表面にはわずかにと埃が積もっていた。
その操舵席の床に、一冊の手帳が落ちていた。本革のカバーに収まったその手帳はいくつも貼られた付箋やページに挟まれたメモ用紙のせいで、カバーがはちきれんばかりに膨らんでいる。
ただの落とし物ではなさそうだ、と少年は直感した。操舵席のコンソールにも埃は積もっていたが、一か所だけちょうど手帳と面積でそこだけ埃が積もっていない箇所があった。この手帳はコンソールの上に置かれていたが、恐らく船が埋立地に座礁した時の衝撃で床に落ちたのだろう。
これは誰かが残していったメッセージではないか。そう思った少年は手帳を拾い上げ、海図台の上に航海日誌を広げていた佐藤の元へと持って行った。
佐藤は航海日誌を海図台の地図と見比べ、この船がどこから来てどこへ向かっていたのか、どこへ寄港したのかを調べていたらしい。少年が拾った手帳を佐藤に渡すと、彼は英語で書かれたその手帳を読み始めた。
佐藤が手帳を開いた時、ページの間に挟んであったメモ紙や写真がいくつか床に落ちる。少年がそれらを拾い上げていると、一枚の写真に目が留まった。
それは親子と思われる外国人の写真だった。客船の制服を着て白い帽子を被った壮年の男性が、娘らしい少女を間に挟んで同じ歳くらいの女性と並んで立って微笑んでいる。
写真を裏返すとそこには撮影したらしい日付が書かれていた。今から一年ほど前、パンデミックが始まる少し前だ。
「この手帳の持ち主はこの船の船長だ。この船で何が起きたのか、日記を残しておいてくれたらしい」
そう言われたので少年が振り返ると、佐藤は眉間に皺を寄せていた。どうやら、日記の内容は楽しいものではなさそうだ。
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