第一九六話 ゴーストシップなお話
嵐と共にやって来た豪華客船は並に流されるまま、少年たちの目の前で埋め立て地へと漂着した。もっとも、正確には激突だったが。
まず豪華客船の舳先が埋立地の海岸に突き刺さり、海岸にいた者たちは巨大地震が起きたのではないかと勘違いするほどの衝撃を味わった。コンクリートの護岸は総トン数20万トンはある客船の重量にあっさりと砕けたが、陸地に激突しただけでは船の勢いは収まらなかった。
客船は陸地にめり込んだ舳先を軸に90度回転し、その横っ腹を岸壁にぶつけてようやく止まった。今は海岸と平行になるようにして、見上げるほどの大きさの豪華客船は止まっている。
「あれ、この船…」
舳先に描かれた船名を見て少年が思い出したのは、少し前に埋立地に漂着していた死体のことだった。あれらの死体が着ていた救命胴衣にも、今目の前に鎮座している船と同じ名前が書かれていた。
だとするとあれらの死体はこの船に乗っていた人々の成れの果てなのだろうか。見れば船の両脇から吊り下げられているはずの救命艇は一つもない。この客船で何かがあって人々は脱出したが、悪天候で救命艇が沈むか転覆して大勢が亡くなり、その遺体が先にこの埋め立て地に漂着したということだろう。
「嫌な予感しかしないんですが」
「だとしても中を調査しないわけにはいかないだろう。この船が自分からここを離れてくれない限りはな」
少年の隣で船へと突入する準備を整えていた佐藤は、こともなげにそう答えた。今から少年たち警備班は、この漂着した豪華客船の内部を調査に入るのだ。
船が漂着してからは無線機の様々な周波数で呼びかけたり、感染者を呼び寄せる危険を覚悟の上で拡声器を使い生存者がいたら姿を見せるように促した。だが一向に甲板に人影は見えない。船内に誰もいないか、あるいはこちらの呼びかけを無視しているか、それとも無線機に応答できる人間は船の中には残っていないのか。
この船が無人であるならばそれが一番だった。だが誰か敵対的な人間が船に乗り込んでいて埋立地を制圧しようと考えているならばそれを阻止しなければならないし、もっと言うならば船に感染者がいる可能性だってある。そうなった場合、感染者の上陸は何としても阻止しなければならない。
残念なことに今の警備班に船を丸ごと沈められるだけの武器はない。もしも内部に敵性集団がいるのであれば、直接乗り込んで制圧する必要がある。まるで中世の海賊のようだ、と少年は思った。
「船を動かせる人がいればよかったんですけどね」
「どのみちタグボートが無いんじゃ動かせないさ。ないものねだりをしても仕方ない」
もしも船内に感染者がいた場合も、広大な船内の全ての部屋や区画を一つ一つ調べるには相当な時間が掛かってしまう。だからまずはこの漂着した客船を沖合に持っていくことを考えたのだが、残念ながらこのクラスの豪華客船の操縦経験がある者など埋立地には誰一人としていなかった。せいぜいがモーターボート程度で、その程度の経験では巨大な客船を動かすことなど出来ない。
そもそも目の前の客船は岸壁を押し潰して座礁している状態で、自力での離岸は出来るはずも無かった。大型船舶が出航する際は自力で移動するのではなく、最初はタグボートなどに引いたり押してもらう必要がある。だが自衛隊が感染阻止のために徹底的に船舶を破壊したせいで、港湾地帯に残っていたタグボートは全て港で沈んでいた。タグボートが無いのでは、ほとんど座礁に近い形で接岸しているこの巨大船を動かすことはできないだろう。
いずれにせよ、誰かが乗り込んで内部を調査しなければならなかった。そして今少年たちはその準備を整えている。銃の弾倉をポーチに詰め込み、武器がきちんと動くか確認する。
少年は前腕部に金属製のプロテクターを装着した。万が一船内で感染者と遭遇したら、確実に閉所での接近戦となる。
自衛隊や警察、その他一般市民が感染者に襲撃された際、最も怪我が多かった場所は前腕部だった。近づいてきた感染者は人間を食い殺す、あるいは咬むことで感染を広げようと牙をむき出しにして食らいついてくる。その際とっさに両腕で顔を守ろうとして、そのまま腕を噛まれてしまう事例が多かった。咬まれてしまえばたとえ死なずとも、体内にウイルスが侵入し自らも発症してしまう。そうなってしまえば打つ手はない。
それを防ぐためのプロテクターだった。作ったのは埋立地の生存者で金属加工の経験がある者たちだった。全身を覆うような鎧ではかえって動きづらいし、感染者に襲われたらそのまま地面に押し倒されて人並外れた力でボコボコにパンチを食らってしまう。だから動きを阻害しない必要最小限のプロテクターのみ身に着けることになっていた。
「全員集合!」
佐藤の掛け声で準備を終えた警備班の隊員たちが一列に集合する。今回客船内部の調査を行うのは二人一組で3チーム、それ以外は万一の事態を想定し地上に待機だった。既に岸壁には土嚢と自衛隊の軽機関銃を組み合わせた銃座が二つほど構築されており、もしも船内から感染者なり敵なりが出てきた場合は即座に迎撃出来る体制を整えている。
「船内の様子は全く分からない。中に何がいるかも不明だが、敵がいると想定して行動してくれ」
船内の構造がわかれば調査も捗るのだが、あいにくと豪華客船の船内レイアウトを記した資料などどこにもなかった。だがブリッジの位置だけは船の前方で見晴らしのいい上層部にあると決まっている。今回佐藤と少年の班はブリッジを目指して船に何があったのかを突き止め、他の2班は甲板上部から船の内部を調査していく予定だった。
「もし生存者がいた場合は?」
隊員の一人が手を挙げた。救命ボートがすべて無くなっていることから船に生存者がいる可能性は低いだろうが、いないとは言えない。
「その場合は保護しろ。と言っても日本語が通じるとは限らないから、何としても誤解されるような行動は避けるんだ」
「襲われた場合は?」
「自由に撃っていい。ただし、感染者や敵対的な生存者がいた場合は即座に来た道を引き返して脱出することを優先しろ」
内部構造は不明な上に、そのような状況で戦うなど無茶を通して無謀もいいところだ。今回の調査はあくまでも船内に何があるかを確認するだけで、戦う必要があればまた改めて装備と人員を整えてからになる。
「内部に何があろうと一時間経った時点で撤収だ。万が一感染者がいた場合は何としても埋め立て地への上陸を許すな」
周囲を海に囲まれ橋でしか陸地と行き来が出来ない埋立地は、外敵からの侵入を阻止するには格好の場所だ。だが反面、一度侵入されてしまえば内部の人間は容易に脱出できなくなる。既に万が一の事態を想定して非戦闘員の避難の準備が進んでいるが、脅威は船内に留めておきたかった。
準備を終えた隊員たちの横では、船内へ突入する作業が進められていた。幸いなことに、乗降口のドアは座礁した時の衝撃か漂流中に他の船にぶつかったのか、内側に向かって大きく歪んで隙間が開いていた。今は工事現場で働いた経験のある作業員たちの手で、その隙間を人が通れるほどさらに広げている最中だった。
スプレッターやジャッキを使って人一人が通れるほどの空間が出来ると、少年たちは銃のボルトハンドルを引いて初弾を装填した。作業員たちが下がり、代わりに佐藤を先頭にして少年たちは船内に足を踏み入れる。
初めて乗る豪華客船の中は非常灯も含めて照明ががすべて消えており、ひたすら暗闇が広がっていた。各々が銃に取り付けたライトを点灯すると、絨毯が敷かれた床と絵画の額縁が壁にいくつも並ぶホールがそこにはあった。扉のすぐ脇にはスタッフが客を案内するための場所なのか、大きなカウンターがある。
「見取り図を探せ」
佐藤の指示で、少年たちは壁を照らして船内の見取り図が無いか確かめる。この船の情報について、少年たちは何も情報を持っていなかった。
すぐに船内の構造が描かれたパネルが見つかった。今少年たちがいるのはちょうど船の中央部分の入り口で、船尾に行くと階層をいくつもぶち抜いたホールがあり、映画館やレストラン、さらには公園もあるのだという。もっとも少年は英語が苦手なので、船内図の内容は全て佐藤に読み上げてもらったのだが。
それに船内の案内図はあくまでも乗客向けであって、乗客が立ち入ることを想定していない機関室や倉庫、ブリッジの位置などは描かれていなかった。だが、船首に向かえばブリッジにも辿り着けるだろう。
「事前に伝えた通り俺たち一斑は操舵室で状況の確認、二班と三班は最上階のデッキに上がってそこから船内の調査だ。些細なことでも何か気づいたことがあればすぐに報告しろ」
船内図をスマートフォンで撮影していつでも確認できるようにした後、佐藤と少年は他の4人と別れて船首へと向かう。来た道がわかるように、時折ケミカルライトを床に置いていく。点々と連なるケミカルライトの道は、万が一何かあった場合に引き返すための道しるべでもあった。
入口付近の舷側の壁には窓が開いているが、ちょうど日陰になっているせいでほとんど明かりが入って来ることはない。それに先へ進むとすぐに客室の区画に入り、廊下の両脇には客室が並んでいることもあって窓は一つも無かった。細い廊下の両脇に、いくつもの扉が延々と連なっている。それらはほとんど閉じられたままだったが、中には開いている部屋もあった。だが、全ての部屋の内部を確認していく余裕は今はない。案内図を見ただけでも客室は1000はありそうなのだ。
扉が開いたままの部屋を一つ、そっと覗いた。海に面したその部屋は恐らく一番安いグレードの部屋なのだろうが、それでも高級ホテルのような質感の部屋だと少年は感じた。もっとも、高級ホテルに泊まったことなど一度も無かったが。
大きなツインベッドが部屋の中央に鎮座する客室の窓のカーテンは閉め切られたままだった。佐藤と少年はライトで部屋の中を照らし、誰もいないことを確認してから足を踏み入れる。
最初は気づかなかったが、部屋の中は少し荒れていた。脱ぎっぱなしであろう皺だらけの衣服が床に散らかり、毛布と布団はベッドからずり落ちている。乗客のものらしいキャリーバッグは開いたままで、中から下着や服が溢れていた。
だが血痕や遺体などは通路にも部屋の中にも見当たらない。部屋の中で感染者が暴れたというわけではなさそうだった。
港には戻れず、かといって行く当てもない長い航海の最中で、乗客たちの精神も荒れていったのだろうか。そんなことを思った。
しかし船には誰もいないはずなのに、部屋に残された荷物は多い。恐らく乗客たちは大慌てで最低限のものだけ持って船から脱出したのだろう。何があったのかは、ブリッジに辿り着けばわかるかもしれない。
「行くぞ。この先は階段だ」
佐藤が少年の肩を叩き、先へ進むように促す。少年は頷くと、目印のケミカルライトをベルトから引き抜き、折り曲げて床へと放った。
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