第一九五話 デスストランディングなお話
「寒い…」
吐く息は白く、だがすぐに吹きつける強風によって夜の暗闇へと消えていく。仕事である夜間の巡回に出た少年は、バケツをひっくり返したような勢いで降る雨と横殴りの風、そして肌を刺すような寒さに顔をしかめていた。
風が吹く音が、まるで怪物の唸り声のように聞こえる。雨具のポンチョは気休めにしかならず、顔を打ち付ける雨が頬を伝って首筋から身体へと流れていく。
「さっさと終わらせようぜ」
今夜の巡回でペアを組む男が、雨で額に張り付いた前髪をかき分けながら少し大きな声で言った。普通の会話ではまともに声も聞き取れないほど、強い風が吹いていた。
昼前から降り始めた雨は次第に勢いを増し、夕方になる頃には建物の中にいても雨音がはっきり聞こえるほどに強くなっていた。同時に木の枝が大きくしなるほどの風も吹き始め、夜間の巡回の予定があった少年は天候が回復するのを祈っていたのだが、どうやらその祈りは天には届かなかったらしい。
悪天候とはいえ、巡回の仕事は雨天中止というわけにはいかない。ここしばらくの間埋立地周辺で目撃された感染者の数はほぼゼロだが、だからと言ってこれまでの警戒態勢が緩むわけではなかった。少年ともう一人の男は銃を肩にかけ、埋立地と陸地を繋ぐ橋を渡る。
「おっと…!」
手製の橋は強風のせいでかなり揺れていた。いざという時橋を跳ね上げるためのワイヤーが風で震え、手すりを掴まなければまっすぐ歩けないほど揺れは強い。
「まるで台風だな…」
隣の男が呟く。地面を見ると落ち葉や飛んできたゴミが吹き溜まり、ビニール袋が宙を舞っていた。胸元に留めたL字型ライトを点灯すると、降り注ぐ無数の雨粒が闇の中に浮かび上がった。大きな雨粒がバリケード代わりの廃車の屋根を叩き、規則的な金属音が鳴り響く。
天気がおかしくなっているのは人間の産業活動の一切が止まったせいで温室効果ガスの排出がほぼゼロになったためか、それともどこかの国でどさくさ紛れの核戦争でも起きたのか。例年に比べて気温は低く、荒れ模様の天気になる日も多い。
だが雨が降っても雪が降っても槍が降ろうとも見張りの仕事は誰かがこなさなければならない。少年たちは黙って決められたルートに従い、見回りをこなしていった。
見回りはサボることが出来ないように、きちんとチェックポイントが決められており、そこに置いてあるハンコを持参した紙に押して回らなければならない。それを持ち帰って全てのチェックポイントに置かれたハンコが押されていることを確認できなければ、正しく見回りが行われたと認められないのだ。
少年たちは最初のチェックポイントである倉庫に辿り着いた。元は資材倉庫だったが保管されていた建材や資材は全て埋立地の防備を固めるために運び出され、今やがらんどうの大きな建物でしかない。少年たちは降りしきる雨から逃れるように、倉庫へと転がり込んだ。
「くそっ、服がビショビショだ」
同行していた男が悪態をついて服を脱ぎ始めた。雨具をしっかり着ていなかったのか、その下の衣服は雨水を吸ってぐっしょりと濡れていた。男が服を絞って乾かすのを横目に、少年は倉庫の一角に置かれた事務机へと向かう。
事務机の上には茶葉用の空き缶が置かれており、ふたを開けると中にはハンコが入っていた。そのハンコを防水袋に入れた用紙に押すと、これで二人がきちんと見回りを行ったという証明になる。見回りの仕事は大事だが、何事も起きないとなると次第に緊張感が薄れていき手を抜こうとする者が出てくる。それを防ぐためのハンコだった。
しばらく休んでからまた見回りを再開する。あと数時間で夜明けだが、未だに雨は降り続いている。天候がさらに悪化したのか、爆発音のような雷鳴まで聞こえてきた。だが雷が鳴っているということは雨がやんだ後は晴れるということだ。早いところ雨が収まってくれればいいがと少年は思った。
その後も陸地側の見回りを決められたルートに従って行い、何事も無いことを確認した。外部からの侵入を防ぐフェンスやバリケードに破損は見られないし、侵入者阻止のために仕掛けられているワイヤートラップなどにも作動の痕跡はない。人間も感染者も、この埋立地に侵入はしていない。
「こんな見回り意味あんのかよ…どうせこの近くには生きた人間も感染者も残ってねえんだし」
一緒に見回りをする男が愚痴をこぼす。確かにその通りかもしれないが、かといって見回りをサボっていい理由にはならない。万が一のことがあれば、埋立地にいる全員の命が危険に晒されるのだ。
陸地での見回りを終え、二人は元来た道を引き返して埋立地に戻る。雨は今なお降り続き、雷鳴はさらに近づいている。時折空に紫色の稲妻が走り、轟く雷鳴が少し遅れて少年の耳に届く。空が光り、墓石のように立ち並ぶ建設途中のマンションが闇夜に照らし出される。
しかしまだ見回りは終わっていない。今度は埋立地の海岸沿いのパトロールをしなければならない。
感染拡大防止のため中型以上の船舶はほとんどが自衛隊によって沈められるか陸揚げされた状態で破壊されていたが、船外機などをつけた小型のボートまでは完全に破壊されていない。それらを使ったり、泳いで海から埋立地への侵入を試みる者がいる恐れもあった。
海面から岸壁までは高さがあるのでよじ登るのは容易ではないが、それでも侵入対策は行う必要があった。海岸沿いには有刺鉄線付きのフェンスを張り巡らせ、万が一上陸された場合でも埋立地の内部までには侵入できないようにすると共に、陸地側同様に定期的なパトロールを行っている。
そして陸地の後に海岸沿いをパトロールするのが巡回ルートでは決まっていた。正直なところ早い所ねぐらのショッピングモールに戻って眠りたい気分だったが、サボるわけにもいかない。普段は食料調達の魚釣りの時にしか開けられないフェンスの扉から岸壁に入ると、少年たちは海に沿って歩き出した。
時折岸壁の下を覗き込み、海から侵入しようとする者がいないかを確認する。が、こんな悪天候で波が荒れているような時にそんなことをしようとする者がいるだろうか。そんなことを考えながら、少年は手にしたライトで海を照らした。
岸壁に波がぶつかり、細かなしぶきとなって少年の顔に降りかかる。コンクリートの護岸に打ち付けているのは流木や発泡スチロール、ペットボトルなどのゴミばかりだ。しばらく前は大量の人の死体が流れ着いていたものの、今となっては見る影もない。
そのまま少年は男と海岸を歩き、時折岸壁の下を覗きながらパトロールを続けた。雷は遠ざかるどころか、ますます近づいてきているようだ。空が紫色に光り、まるで爆弾がさく裂したかのような雷鳴が空気を震わせる。
ノイズキャンセリング機能が付いたヘッドホンが欲しい、と少年は思った。佐藤が所持していた軍用のものは銃声や爆音だけをブロックし、人の声や物音は聞こえるような便利な代物のようだが、故障してしまって修理中だと聞いている。それさえあれば耳をつんざく雷鳴など屁でもないのだが。
それにしても、僕らはいつまでここにいるんだろうか。少年は何度繰り返したかわからない問いを頭の中で繰り返した。
この埋め立て地の外に安全な場所はあるのか。ここ以外にどれだけ生き残っている人たちがいるのか。いつまでここで暮らしていられるのか。あとどれだけここで文明的な生活を保ち続けることが出来るのか。
僕たちに未来はあるのか―――。
そんなことを考えながら海の方へと目をやった少年の視線が、一点を向いたまま固まった。稲妻が夜空を走り、紫色の閃光に照らし出された荒れ狂う海。そこに何か違和感を覚えた。
目を凝らしても見えるのは暗闇だけ。しかし時折雷鳴と共に走る稲妻の光が海を照らし、少年はその度に海を見て違和感の正体を突き止めようとした。
埋め立て地の沖合には数隻の船が沈んでいる。日本で感染爆発が発生した際、海上保安庁や自衛隊の制止を振り切って出航したり、出航直後に船内で感染者が発生して感染拡大防止のために沈められた貨物船やフェリーだ。それらは干潮の時には無残な船体をわずかに海面に晒しているが、満潮の時にはその残骸が海面下に沈んでしまっていた。
今の時間帯は潮位が高いから、それらの沈没船の残骸は見えないはずだった。それなのに稲妻に照らし出される夜の海には、一つの大きな影が見える。
「何だあれ。あんなところに船が沈んでたか?」
一緒にパトロールをしている男も海の上の影に気づいたらしい。少年はライトを海に向けたが、その影がある沖まではとても光は届かない。夜間パトロール要員に配布されている暗視装置を着けてみたが、視認可能範囲外の上に叩きつけるような雨のせいで何も見えなかった。
闇夜に目を凝らし、稲妻の閃光を頼りに双眼鏡でその物体の正体を突き止める。場違いなことだが、最初は巨大な箱か何かだと思った。だが上に突き出ているマストを見て、その巨大な箱の正体が客船であることを悟った。
「船…? 沈んでたのが浮かんできたのか?」
「そんなわけないだろ」
残骸の大きさと比較すると、その客船は高層ビルを横倒しにしたくらいの大きさは有りそうだった。だが少年は沖合のその客船を見て気になることがあった。船のどこにも明かりが灯っていない。
「難破船…?」
双眼鏡で客船を見続けていると、とあることに気づいた。双眼鏡の丸い視野に映し出される客船が、どんどん大きくなってきている。
「おい、あれこっちに近づいてきてないか?」
男がそう言った時には、少年は既に無線機のマイクを握っていた。
「緊急事態、緊急事態。沖合に船が見えるが、こちらに流されてきている模様。このままだと埋立地にくるかもしれません!」
ショッピングモールに設置された警備本部に詰めていた佐藤がすぐに通信に出た。ちょうど佐藤が起きているタイミングで良かった、と少年は思った。こんな事態、自分たちだけではどうしたらいいかもわからない。
『船? 軍艦か?』
「違います、物凄く大きい客船です! ビルが横倒しになって海に浮かんでいるみたいだ」
『人の姿は見えるか? 誰かが動かしているような動きか?」
「船に明かりは全く見えません。そのせいで気づけませんでした、すいません」
『誰かが動かしているかと聞いているんだ、謝罪を求めているわけじゃない』
「ええと…」
少年は再び双眼鏡を覗き込む。いつの間にか雷雲は去り雨がやんでいた。代わりに東の空が白み始め、夜の終わりを告げている。
黒から青に色を変え始めた空の下、こちらに向かって来る船の姿がやっと明確に視認できるようになった。白い塗装に、何階層にも渡って甲板の上に張り出した客室。一泊するだけで十万円単位の料金を請求されそうな、巨大な豪華客船だ。
だがその甲板の上には人影は見えず、航海灯も点いていない。天に向かって高く突き出した煙突からは、煙の筋は見えなかった。ということは、あの客船は動力に頼らず移動しているということだろうか。
「煙突から煙は出ていません。人の姿もない。風で流されてきたのかも」
『わかった。とにかく俺は警備班全員を招集する。お前たちはそこで待機しろ』
「船はどんどんこっちに近づいてきています。どうすれば?」
『残念だが出来ることは何もない。恐らく海流から船はこの埋立地に流れ着くだろう。中に厄介な乗客がいないことを祈るしかない』
佐藤の言う通り、今の少年たちに出来ることは何もなかった。佐藤がこの場にやって来たところで同じだろう。少年たちの手持ちの武器では、海流に乗って流されてくる巨大な客船の足を止めることはできない。魚雷かミサイルでも使わなければ、あの大きさの船を沈めることはできないだろう。
以前佐藤が海からの外敵侵入に備えて機雷を自作しようとしたことがあった。しかし爆薬の数が足りない上に長時間海水に浸かった状況で確実に作動する起爆装置を大量に作ることも出来ず、結局話は流れてしまった。
だがその機雷があったところであの船の足を止めることは出来ないだろう。海流と強風に流されるままの船はゆっくりと、だが着実にこの埋立地に近づいてきている。
少年はもう一度双眼鏡を覗き込む。今や客船の窓の一つ一つがはっきりと双眼鏡で見えるまで距離が近くなっていた。巨大な白い船体はまるで海に浮かぶホテルのようだ。だが客室の窓の向こうに人影は見えない。陸地に近づいているのに警笛すらならない。
あの船には誰も乗っていないのだろうか? 少年はそう思った。どのみち、あと数時間もすればわかることだった。
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