第一九四話 漂着者なお話
自衛隊の自動小銃や警察の短機関銃を手にした男たちが、マンションの階段を音を立てずに上っていく。その先頭に立つ少年は自身も油断なく小銃を構え、物陰からの奇襲に備えていた。
やがて最上階に到達した一行は、玄関の扉が開いたままの部屋の一室の前で立ち止まる。少年が手を右手を上げると一行は玄関の左右の壁に張り付き、手にした小銃を構える。
後ろに続く者たちの準備が完了したのを確認した少年は、右手を振って小銃を構えて部屋に突入していった。その後を数名が続き、最後尾の者が背後を警戒しつつ玄関の中へと足を踏み入れる。
階段を上っていた時と違って足音も荒い少年らは、マンションの一室にある部屋を全て調べていく。少年は玄関から一番近くにあった部屋へと突入した。閉まったままの木製のドアを蹴破り、中へと足を踏み入れる。学習机とベッド、箪笥が置かれた子供部屋の中心には、一つの人影が立っていた。
それを目にした瞬間、少年は手にした小銃の引き金を躊躇なく引いた。銃声の代わりに響いたのはモーター音と小さな圧縮空気が漏れる音で、銃口から飛び出したのは小さなBB弾だった。
発射されたBB弾は部屋の中心に置かれた、人型の的紙の頭部と胸にそれぞれ小さな穴を開けた。BB弾が壁に当たって地面に落ちる小さな音と共に、マンションのあちこちから「クリア!」という声が聞こえてくる。
少年たちが行っていたのは、建物の制圧訓練だった。感染者や敵対的な生存者たちがいると思われる建物に突入・制圧して安全を確保するのがこの訓練の目的だ。
とはいえ実弾を使って訓練するわけにはいかない。弾薬は今手元にある分しか無いのだし、むやみやたらに銃声を響かせるのもよくはない。訓練に使っているのは埋立地にある家主が避難して無人となっていたマンションだったが、埋立地周辺の安全は確保できているとはいえ銃声を轟かせるのは危険だった。
そのため少年たちは埋立地の外のホビーショップで見つけてきたエアガンを使って、近距離での戦闘訓練を行っていた。佐藤の話によれば自衛隊でも訓練でエアガンは使われているのだという。実弾や空砲を使わないので管理が楽だし、弾が当たっても痛くはない。実銃だったら訓練用のゴム弾でも当たり所が悪ければ骨折や最悪死亡の場合がある。
BB弾は実弾と弾速も弾道も違うが、至近距離での訓練に使う分には問題なかった。埋立地の守備隊は外から調達してきたエアガンを使って、日夜感染者や暴徒を想定した訓練を繰り返していた。
このところの状況はすこぶる順調と言えた。埋立地への感染者の侵入は一件も報告されておらず、死者も誰一人出ていない。警察署を改装した前進基地を拠点として市街地の探索も進めており、物資の収集も問題なく行われている。
訓練が終わり、使用したエアガンを指定の場所に戻した少年たちは、それぞれ割り当てられた仕事をこなすべく散っていった。この後見張りや歩哨の仕事がある者は埋立地の外へと繋がる橋へ、仕事が無い者は居住区格となっているショッピングモールへと向かう。少年は埋立地からの移動手段となる車両の改造という仕事があるため、見張りをこなす者たちと一緒に橋へと向かった。
元々開発途中だった埋立地と陸地を繋ぐ橋は多くなく、その橋も感染者の侵入を防ぐため一つを残して佐藤の手によって爆破されていた。残された一つにはバリケードを築き、外部からの侵入が出来ないようにしてある。
しかしそれでは陸地との移動が不便になるので、もう一つ掛けられたのが跳ね上げ式の橋だった。工事現場の資材で作られた橋は陸地と埋立地それぞれにウインチを設置し、ワイヤーを伸ばすことで橋を繋げるというものだった。これならば陸地か埋め立て地のどちらかの橋桁を跳ね上げておけば侵入を防げるのと、万一埋立地に感染者が進入して陸地側へ脱出する場合も、陸地側の橋桁を跳ね上げてしまえば追撃を防げる。
陸地側には万が一の事態を想定し、脱出用の装甲バスも用意されていた。市バスの窓ガラスを鉄板や金網で塞ぎ、座席を取り外して生活空間を拵えた装甲バスは、埋立地の生存者全員が乗れる数を準備している。
万事順調だった。物資が減る一方であることも含めて全てが計画通りに進んでいる。今のところ病死者や餓死者も出ていない。戦闘訓練が功を奏し、感染者に殺された者もいない。食料等も一応は確保できているせいか、物資の欠乏でストレスが溜まることもなく生存者同士での諍いが起きることも無い。
何もかもが上手くいっている。が、少年はこの先何か大変なことが起きるのではないかという不安を常に感じていた。何かが上手くいっていればその後に悪いことが起きる。よくあることだ。
不安と言えば、相変わらずどこからも救援や援助がくる気配はなかった。時折日本の各地で生存している者とアマチュア無線で通信する機会があったが、警察や自衛隊の部隊と交信したことは一度もない。所属部隊が壊滅して散り散りになった警官や自衛隊員はいたが、皆自分たちが生き延びるのに必死で他者を救助する余裕などない状況だった。集団であっても5人がそこらで、とても統制の取れた部隊とは言えない。
奇妙なことに、通信が出来るのは関東から西の範囲のみで、東北地方や北海道の生存者との通信は一切出来ていない。東北地方や北海道も都市圏では感染者が発生していたと報道されていたので大きな被害を受けたのかもしれないが、生存者が一人もいないということはないだろう。それなのにこちらから呼びかけても誰も応答しないというのは、とても不気味なことだった。まるで誰かが意図的に電波を遮断しているかのようだ。
だが東北地方に生存者がいるにしろいないにしろ、今の少年たちがそこまで行くことはできない。主要な幹線道路は自衛隊などの手によって封鎖されたか避難時のパニックが招いた事故でほとんど塞がっており、安全に走れるルートもわからないまま数百キロも彼方を目指すというのは現実的ではない。感染者や暴徒に襲撃される可能性だって高い。
だから埋立地の生存者たちはここから移動することが出来なかった。助けはもはや当てにせず、自力でどうにか安全地帯を作って生き延びる。それしか道はなかった。
戦闘訓練を終えた少年は使用したエアガンを返却し、橋を渡って陸地へと向かった。埋立地の生存者たちが確保している陸地側の安全地帯も徐々に面積を増やしてはいるものの、外部との境界線が増えればそれだけ侵入される恐れも増える。パトロールやバリケードを増やして対応はしているものの、これ以上の安全地帯の拡張は難しいところだ。
クレーンのウィンチと鉄板を組み合わせて作り上げられた橋は重量物の通過には向いておらず、車両の整備や保管はもっぱら陸地側で行われている。元は倉庫だった建物の一角では、今まさに新しい車両の改装作業が行われているところだった。
自動車整備や工作の経験がある男たちが一台のSUVに取りついて、内装を片っ端から引っぺがしている。今までは物資の調達などで外に出る際は乗用車をそのまま使用していたが、流石に危険ということもあって新しく戦闘車両を製作することになった。この車両は万が一埋立地を放棄する際の生存者たちの護衛用車両としても使われる予定で、武装と装甲を施す改造作業が行われている。
車両の機能に関係のない内装は重量削減のために最低限を残して取り外され、車体の強度を向上させるロールケージが車内にボルト留めされていた。感染者などに車両を横転させられても、屋根が潰れないようにするためだ。さらに屋根のサンルーフを取り外した上で開口部の強度を増やし、機関銃を据え付けていた。
一台しかない自衛隊の装甲車はライフル弾も弾き返す虎の子の戦力だが、軍用なのでエンジン音は悪いし燃費も悪く、さらに乗り心地も最悪だ。図体もでかいとあっては普段から街中で乗り回すには不向きであり、佐藤の指揮のもとこのような車両が数台製作され、既に埋立地と前進基地である警察署の間の移動手段として使用されている。
今日の少年の仕事はこの車両の改装作業だった。以前は自動車のエンジニアだったという壮年の男の指示のもと、車の窓に感染者の侵入防止用の金網をボルト留めし、屋根に荷物を積載するためのラックを取り付ける。
「この車、使う機会あるんかね」
事前に屋根に開けられていた穴にラックをボルト留めし、車内に雨水が侵入しないようシーリング材を塗っている少年の隣では、作業者たちがなにやら言葉を交わしていた。
「今のままでも安全なのに、どこに行く必要があるっていうんだよ?」
「まあ確かに、ここ最近は感染者の唸り声も銃声も聞こえないしな…」
「このままここで暮らしていれば、そのうち先に感染者が全滅するんじゃないか?」
「そもそもここより安全な場所が他にあるのかもわからないよな」
彼らの言わんとしていることはわかる。万が一の事態を考えるのは当然だが、今の備えはやりすぎではないのかということだ。
既に埋立地周辺に脅威はほとんどない。生存者たちの命を脅かしていた同胞団はとっくに壊滅し、生き残った奴らは逃げるか投降した。埋立地周辺の感染者の排除もだいぶ完了し、普通に生活している程度の騒音では気づかれないレベルまで感染者と距離を取ることが出来ている。各所に設けられた監視所からの報告で、もし敵対的な集団がやって来たとしても埋立地に接近される前に対処が可能だ。
なのにこれ以上何に備えろと言うのか。作業者の言った通り、現状ここは少年が知る限り最も安全な場所だ。それを放棄するような事態が起きるとでもいうのだろうか。
万が一の事態に備えてという名目では誰も反対できないが、今の佐藤の姿勢に内心不満を抱いている人はいる。埋立地では生存者たちの合議制で物事が決まっているが、その中でも佐藤はもっとも影響力のある人間だった。
自衛隊の特殊部隊の隊員で、生存者たちの命を脅かしていた同胞団を壊滅させた功績があり、さらには物資の収集や埋立地の警備などでも手腕を発揮している。そんな佐藤が非常時への備えを提案すれば表立って反対出来るものは誰もおらず、準備は佐藤が計画した通りに進められている。
だがそのリソースを他のことに使うべきだという意見ももっともだった。動かせる車両も燃料も、物資だって無制限に使えるわけではない。脱出用のバスなんか作るのであれば、その資材を拠点維持のために使うべきではないか。そんな意見も一部では出ている。避難訓練も行われているが、それだって子供や年寄には体力的に大変なことだ。
備えあれば患いなし。だが備えすぎてもそれが使われなければ何の意味もない。今は人も物も無駄遣いが出来る環境ではない。
「口を動かす暇があったら手を動かせ!」
監督役のエンジニアが一喝し、作業者たちは口を閉じて黙々を手を動かす。少年も彼らを横目で見ながら、この埋め立て地を捨てなければならない事態が来るのだろうかと想像を巡らせた。
車両の改装作業を終え橋を渡って埋立地に戻ると、岸壁に数名の男が集まっていて何やら海面を覗き込んでいた。
「何かあったのか?」
「また漂流物だよ」
また、というのはここ最近埋立地の海岸に何かが流れ着くことが増えたからだった。以前は大量の死体が漂着していたが、今は空の救命ボートやライフジャケット、衣服に船の一部と思われる破片などが波に乗って岸壁に打ち寄せられている。今も男たちがフック付きのロープを使って、ワイヤーで束ねられた丸太を岸壁の上に引き上げていた。
「なんだろうな、これ」
「筏の一部なんじゃないか?」
漂流物の中には使えそうなものもあるが、役に立たないゴミが大半だった。それでも放置していたら食料調達の釣りの邪魔になってしまうため、いちいちこうやって除去するのを余儀なくされている。
「どうせだったら食い物とか大量に流れ着いてくれればいいのによぉ」
違いない、と少年は思った。それと同時に何か悪いものが流れ着かなければいいが、とも一抹の不安を覚えたのだった。
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