第一九三話 考えるな、感じろ。なお話
手すきの者を交代で動員して続けられた遺体の収容作業は三日にも及んだ。回収された遺体はおよそ60体で、その多くが外国の者だと見られた。
彼らの多くは海に入ってから死亡したと考えられた。なぜ彼らが大海原を漂流する羽目になったのかまではわからなかったが、収容した遺体の一つが日記帳を所持していた。ライフジャケットのポケットに入っていたそれはビニール袋で二重に密閉されており、それでも少し濡れていたが内容は十分把握できた。英語で書かれていたその日記には、彼らが感染者から逃れるために大型客船に避難したことが書かれていた。
ウイルスの蔓延を防止するため、船舶を避難所にするということは日本でも行われていた。船は一度沖に出てしまえば、外から感染者が乗り込むのはほとんど不可能だ。半面船内で一人でも感染者が発生してしまえば、枯草が大量に入っているゴミ箱に火のついたマッチを放り込むも同然になってしまうが。
日本でもそうやって各地の港にあった船が、それこそ豪華客船からタンカーまで徴用されて臨時の避難所となっていた。それらの多くがどうなったのか、少年は知らない。安全な土地を目指して航海を続けたのか、それともどこかの沖に投錨してひたすら事態の収束を待っているのか。
水死体となった彼らが乗っていた豪華客船が出航したのはシンガポールで、そこから東南アジア各国を巡るツアーを行っていたらしい。だが途中立ち寄った国で感染爆発が発生し、乗客ではない避難民も受け入れて航海を続けたようだ。
客船は食糧や水、燃料が無くなると時折どこかに立ち寄っては物資を集め、基本的には感染者が入ってこれない沖で生活していたらしい。日記にはその時の生活の日々が綴られていたが、肝心の彼らが何故船を離れざるを得なくなったのかについてまでは掛かれていなかった。
悪天候で船が難破したか、海賊にでも襲われたか。あるいは運悪く船内で感染が広がってしまったのかもしれない。とにかく、彼らは船を離れた。だが誰にも救助されることなく救命ボートが転覆したか何かで命を落としてしまったというわけだ。
彼らがどこで船を降りたのかはわからないが、それほど痩せていた様子もないため、漂流していた期間は短いのだろう。もしかしたら日本の近くまで来ていたのかもしれない。
収容した遺体については埋葬する暇など無い上、疫病防止の観点からまとめて荼毘に付すこととなった。埋立地にはマンションなどの基礎工事が進められていた個所がいくらでもあり、その際に掘られた穴が放置されたままとなっている。そこに死体を並べた上で、劣化したガソリンや薪と共に火を点ける。
ガソリンは半年も経てば保存状態の悪いものは車のエンジンが掛からなくなってしまうほどに劣化が進む。街に放置されている車にガソリンが残っていても回収できるのは劣化したものばかりで、そういった車に使えないガソリンは文字通り山ほど確保出来ていた。もっとも車に使えるような保存状態の良いガソリンは貴重だったが、劣化したガソリンは暖を取るための燃料として有効活用されている。
並べられた遺体が燃える臭いは埋立地中に広がっていた。遺体は燃やした後に上から土を掛けて埋葬する予定だ。身分証なども無く水死体の大半は身元もわからずじまいで、彼らが何者だったかを判断するにはDNA鑑定をするしかないだろう。そんなことが出来る日がいつ来るのかまではわからないが。
水死体の火葬を終えた翌日、与えられた警備の任務で少年は久しぶりに亜樹と組むことになった。ショッピングモールの一件以降、彼女と話すのは久しぶりだった。
聞いた話によるとここしばらく、亜樹は誰とも口を利かずに部屋に引きこもっていたらしい。拉致されて殺されかけたのだから仕方がないと、皆も彼女に配慮してしばらく各種任務のシフトから外していたが、ようやく復帰できるようになったのだろう。
いつも通りクレーン車を利用した跳ね上げ式の橋を通って埋立地の対岸に渡り、そこで敷地の縁にそって築かれた金網やバリケードに異常が無いかを確認していく。警察署を前進基地として確保してからはそちらの機能向上に力を入れているため、前みたいに埋立地を中心として生活範囲を広げるなんてことはしなくなった。それでも埋立地が生存者たちの生活の拠点であることに変わりはなく、こうして日々のパトロールも重要な仕事の一つだった。
少年と一緒に歩いている時、亜樹は無言のままだった。仕事に必要な言葉は交わすが、それ以外は黙り込んだまま。まだあの男を射殺した時のことを引きずっているらしい。
こうなることが予想できたからこそ、少年は可能な限り彼女を人間相手の戦いに巻き込みたくないと思っていた。亜樹たちはずっと人里離れた全寮制の学校で暮らしていたせいで、感染爆発が起きていた時の混乱を知らない。生き延びるために誰かを殺したりするなんてことは今までになかった。
だからこそ彼女たちには自分の手で誰かを殺すなんてことをしてほしくはなかった。人を殺すのはもう手が血で汚れている自分たちだけでいい。彼女たちにはこのまま平穏な生活を送ってもらって、いつか訪れる復興の時に平和な時代を知る人間として生きていてもらいたい。それが少年と佐藤の望みだった。人を殺したことで悩んだり、苦しんだりしてもらいたくはなかった。
「…聞きたいことがあるんだけど」
亜樹がそう言ってきたのは、パトロールも終わりに近づいてきた頃だった。金網のてっぺんに巻いた有刺鉄線に隙間が無いか、バリケードがきちんと固定されているかを確かめている最中、ふと亜樹が口を開く。
「初めて人を殺した時ってどんな感じだった?」
思わず手が止まる。
「その…もしも気分を悪くしたならごめん。でもどうしても知りたい。私が今感じていることを、あんたも同じように感じていたのか」
埋め立て地の一角を振り返ると、海沿いで小さな閃光が瞬いていた。技術者たちが埋立地からの脱出用にバスを改造しているのだ。
物資も武器も豊富にあるが、それでも万が一の事態は常に想定しておかなければならない。感染者たちや同胞団のような暴徒に襲撃されても負けるつもりはないが、最悪の場合は埋立地を放棄して脱出しなければならないこともあり得る。その時のために埋立地の住民全員を乗せて脱出できる移動手段の準備が進んでいた。
光っているのは溶接のスパークだろう。脱出手段として用意されたのはディーゼルエンジンで動くマイクロバスとバンが数台ずつだった。それらは今余計な座席等が取り払われ、窓には金網や鉄板を溶接する作業が進んでいる。あれが使われるときは、埋立地で大勢死人が出た時だろうなと少年は思った。
改造されるバスを見て、少年の脳裏に一つの光景が蘇る。猟銃を手に少年たちを追い詰める男たち、暗い防空壕とそこに閉じ込められた感染者たち。そして家族のために狂気に走った警察官。
少年が初めて生きた人を直接殺したのはその時だった。
「…初めて僕が人を殺した時は、無我夢中だった。何も感じなかったよ」
人を殺した理由は仲間を助けるためだった。そのために立ち塞がる者を殺した。亜樹と違う点は彼女は襲われ身を守るためのとっさの行動で人を殺めたが、少年は仲間を助けに行くために明確な殺意を持って自ら殺しに行ったことだ。
「あの時は仲間を助けることが第一で、それ以外は二の次だった。そもそも相手は僕らを殺そうとしてきた奴らだったからな。殺さなきゃ自分が殺されてた。だからその時は何も後悔なんて感じなかったし、むしろ仲間を助けるためなら何人でも殺すつもりだったよ」
少年の言葉を聞いた亜樹が少し落胆したような表情を見せた。彼女としては今自分が抱いている後悔や恐れといった感情にどう立ち向かえばいいのかを知りたいのだろう。だが少年はカウンセラーではない。自分が感じたこと、思ったことをありのまま伝えることしか出来ない。
「でもそのうち僕はどんどんタガが外れていった。何人も殺してしまった、だったらもうあと十人二十人殺しても同じだって。自分やの身を守るためなら人を殺してもいいと思うようになっていった。そのうち、『いつか自分たちを襲ってくるかもしれない。その前に脅威は排除しなければいけない』とまで思うようになったよ」
仲間を失ってからはその傾向はますます加速し、いつしか少年は当たり前のように人を殺すようになった。
やがて少年は自分と敵対した者は、その仲間も含めて皆殺しにするようになった。直接少年を襲っていない者も、襲ってきた奴と同じグループに所属していれば殺した。「放っておいたら報復されるかもしれない」という恐怖に少年は支配されるようになっていった。
「でもいつまでも自分は誤魔化せない。僕は心を壊して何も感じない人間になることは出来なかった。仕方ない、やられる前にやるしかない、襲ってきたあいつらが悪い。そんな言葉で自分を正当化しても、たとえ自分が生き延びるために仕方のなかったことだとしても、いつかは罪悪感で心を押し潰されるだろう」
だから亜樹には人を殺して欲しくないと思った。人を殺して何とも思わない奴はサイコパスか、心が壊れてしまった人間くらいだろう。人を殺すための訓練を積んだ自衛隊員である佐藤ですら、これまで殺してきた人たちのことをどこかに背負っている。一度人を殺し、その手を血で染めてしまえば、もうそれが落ちることはない。
「だからもうこれ以上、自分以外の人が誰かを殺すことが無いようにしてほしい。自分は人を殺した、だから相手も殺しにかかってくる。そんな恐怖を誰にも味わってほしくはないんだよ」
「それってこれから先誰かに殺されそうになっても、黙って殺されろってこと?」
「そうじゃない。他の誰にもそんなことはさせたくないから、僕たちが頑張るってことだ」
人は殺したくないが、それでやっていけないのが今の世の中だ。こっちが争いを望んでいなくとも相手はそう考えていないことは普通にあるし、誤解や行き違いから殺し合いに発展することだってある。生きるために物資を奪い合って血を流すことだって普通だ。
起きてしまったことは変えられない。人を殺した事実が無くなることもない。だったら既に手を血で汚した自分たちが、他の人に代わって誰かを殺せばいい。
少年はあの世を信じていないが、仮に地獄があるとすれば自分は確実にそこに行くだろう。この世は既に地獄も同然だが、今生きている人全てが地獄に落ちる必要はない。苦しい思いをする人間は少ない方がいいだろう。
人を殺したことで憎まれ、いつかは報復を受けるかもしれない。仲間に危害が加えられそうになったら、その時は復讐の対象として自分一人が犠牲になればいい。それで争いが収まるのなら本望だ。
「どうしても戦うことが避けられない、誰かを殺さなきゃならないという時が来たら、その時は僕がやる。亜樹たちが手を汚す必要はない」
「でも私はあの男を…」
殺した。亜樹がその言葉を口にする前に、少年が言った。
「あの男は感染者だった。直前まで理性を保っていただけで、亜樹を襲った時には感染者になっていた。相手が人間であれば何も考えずに誰かれ構わず襲う存在だ。亜樹は間違ったことをしていない」
「本当にそうなのかな…」
「そうだよ。そう考えておいた方がいい。そしてもうこれ以上そのことについて深く考えるのは止めるんだ。考えたってどうせ答えなんて出ないんだから」
「でもあんた、殺してしまった以上自分を正当化するのは意味がないって…」
「それは殺した相手が人間だった時の話だ。理性も記憶もなく誰かれ構わず人を襲って喰い殺す存在なんて獣も同然だ。感染者になった時点で、その人は死んだも同然なんだ。むしろ人の姿をしているのに人格も記憶も失われて人ならざるものと化した彼らを殺すことは、彼らの魂を救うことにも繋がるんじゃないかな。僕はそう思う」
感染者になってしまった人も、自分が家族や友人を平気で殺してしまうような存在になってしまいたいとは思ってもいないだろう。大切な人たちを手に掛けるくらいなら、殺して欲しいと願うに違いない。もっともそんなことを考える知性すら、感染者からは失われている。
「生き延びるため、自分の身を守るため、襲ってきた感染者を殺したんだ。そこに何も責任を感じることはない。自分の身を守ることが、ひいては仲間の身を守ることにもつながる。感染者が一体減ったことで、僕たちはちょっとだけ安全になった。亜樹がやったことは正しかった。相手は人間じゃなかったんだから。悩むのは本当の人間を殺した時でいい」
そんなことは僕がさせないけど。亜樹は少年がそう小さく呟くのを聞いた。
その目ははるか遠く、海の向こうを見ている。数多くの人を殺してきた少年は、その瞳に何を見ているのだろうか。重い銃を手に無言で佇む少年が、罰せられることで救われようとする罪人のようにも見えた。
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