第一九二話 マグロ、ご期待ください。なお話
春になったというのに、一向に温かくならない。曇りの日が多く、時には気温が氷点下近くまで冷え込むこともあった。
ショッピングモールで子供たちと戦ってから半月が過ぎていた。制圧した警察署は前進基地としての改築が日々進められ、並行して街の探索も進められている。
とっくに新学期の季節だというのに、気温は中々上がらなかった。「どっかの国がどさくさ紛れに核戦争でも起こして、地球に核の冬が訪れているんじゃないか」と誰かが冗談交じりの憶測を口にしていたが、笑えなかった。
「…だって! 本当だ!」
「鳥か何かを見間違えたんじゃないのか?」
この日も日課通り少年が埋立地周辺の巡回に出る準備を進めていると、そんな声が聞こえてきた。銃を肩に掛けた警備部隊の男たちが、歩きながら何かを話していた。
「どうした、トラブルか?」
「こいつが飛行機を見たって言うんだ。そんなのありえないよな」
喧嘩かと思い割って入った少年に返ってきた言葉は、意外なものだった。
「見間違いじゃねえ、あれは確かに飛行機だった」
「飛行機? いつ、どこで見たんだ?」
「さっきパトロールを終えて帰ってくる時だよ。街の方でちらっと何かが見えたんだ。あれは絶対に鳥なんかじゃねえ」
男の話ではその飛行機らしき物体は市街地のビル群の上方をぐるぐる旋回していたらしい。あまりにも遠かったのでどんな機影だったかまでははっきりと見て取れず、慌てて仲間を呼びに行こうとした時にはどこかへ消えてしまっていたらしい。
ここから街までは何キロも離れている。そこを飛んでいる鳥なんか米粒以下のサイズで見ることも出来ないだろうから、ここから視認できるほど大きな飛行物体と言えば飛行機くらいしかない。
「佐藤さんには報告したのか?」
「今戻って来たばかりなんだ、これから報告に行こうと思ってたんだよ」
「本当に飛行機なのかよ。飛行機なんかどこの誰が飛ばすってんだ?」
二人組の片割れが言う。彼は飛行機らしい物体の目撃証言を疑っているようで、少年も内心それに同意見だった。
「そりゃ、自衛隊とか…」
「たとえ自衛隊が残ってたとして、飛行機を飛ばせるほどの戦力が残ってるなら何で俺たちの無線に応答してくれないんだ? 返事してくるのはどっかで細々と生き残ってる連中だけで、自衛隊も警察も返事してくれたことなんか一回も無いだろ」
彼の言う通り、飛行機を飛ばそうと思ったらそれなりの規模の人員や設備、物資が要る。飛行場に燃料、きちんと飛行機を飛ばすための部品や整備士、無事な機体にそして飛行場を警備するための人員。十人や二十人ではとても足りない。
それにもしも自衛隊が無事でいるのならば、どうして生存者の無線に応答がないのか。生き延びた自衛隊の部隊が東北に集結して、安全地帯を作っているという噂なら何度も聞いた。それならば何故生存者の呼びかけに応えないのか。戦力が足りなくて救助に行くのが難しいというのならばわかる。だが無線にすら応答がないのでは、そのような大部隊が残っているというのはやはりうわさに過ぎないのだろう。
「ビルの窓ガラスの光の反射か何かを見間違えたんじゃないか? それとも、助けが来て欲しいってお前の思いが幻覚を見せたとか」
「助けが来るかなんてとっくに諦めてるよ…やっぱり俺の見間違いだったのかな」
きっとそうだろう。少年がそういう前に、一人の男の子が慌てた様子で少年たちのいるショッピングモールの広場にやって来た。彼は今日、岸壁で食料調達の釣りを担当していたはずだ。
「大変だよ、早く来て!」
「どうした、何があった」
「海が…海に…」
男の子はそれだけ言うと後の言葉が思い当たらなかったのか、すぐさま引き返していった。
「海岸で何かあった模様。これから向かう」
少年は念のため無線機で佐藤にそう報告すると、男の子の後を追って走り出した。警備要員の二人も互いに顔を見合わせながら少年の後に続く。
「…うわぁ」
埋立地のショッピングモールから海岸まではそれほど離れていない。男の子について行って海に出た少年は、そこで異様な光景を目の当たりにした。
灰色の海にいくつも人間の死体が浮かんでいた。一つや二つではない、ダース単位の死体が波に乗って漂い、コンクリートの岸壁に打ち付けられている。怯えた様子の子供たちを、監督役の老人たちが必死に宥めていた。子供たちは基本的に埋立地の外に出ることはなく、武器を持った危険な仕事を割り当てられることも無い。普段は食糧確保のための農作業や釣りをすることになっていたが、それが仇になったか。
「何があったんですか?」
「皆で釣りに出たら、沖に何かが浮かんでいたんだ。最初はゴミか魚の死骸かと思ったが、まさか人間の死体だったとは…それも見ての通り一つや二つじゃない」
「ええ、一体どれだけあるんだ…」
「その通りだ。…これ以上は子供たちに見せない方がいいだろう。わしはこの子らを連れて帰る。すまないが、後は頼んだ」
老人はそう言って、子供たちをショッピングモールの方へと誘導して帰っていった。やはりこういう時は歳がモノを言うな、と少年は思った。亀の甲より年の功といったところか。死体を見続けることが子供たちにとって良くないということを、少年はとっさに思い至らなかった。
「どこから流れて来たんだこの死体…」
死体のいくつかはオレンジ色のライフジャケットを身に着けている。まるで沈没する船から脱出してきたかのようだが、周囲を見回してもそんな船は見えない。どこかで船が難破し、脱出したもののそのまま死亡して海流に乗ってここまでたどり着いたのだろうか。
空を見上げると、無数の海鳥が少年たちの頭上を旋回していた。浮かんでいる死体に降りて、その肉を啄んでいる。鳥たちにとって浮かんでいる死体は絶好の餌だった。
「どうする?」
「どうするって…引き揚げるしかないだろ」
「この死体全部を揚げるのか? どれだけ手間がかかるんだよ」
「じゃあお前、明日から釣る魚は全部人間の死体食った奴になるが、それでもいいんだな?」
船が沈んで大勢人が死んだ翌年には、蟹が豊漁になるという話を聞いたことがある。皆もそのことを考えたのかどうかはわからないが、少なくとも死んだ人間の肉を食って大きくなったかもしれない魚を口にするのは気が引けるだろう。
佐藤に指示を仰ぐと、「可能な限り死体を陸に揚げろ」とのことだった。埋立地の食料は保存食だけでなく、岸壁からや手漕ぎボートを使った釣りでも賄われている。今後もそれを続けるうえで、いつまでも死体が海に浮かんでいるというのは精神衛生上良くない。それに死体を放置していては、疫病が発生する可能性もある。
佐藤の指示により、埋立地の対岸で警備に当たる者以外は交代で死体の収容に当たることとなった。先端にフックを取り付けた長い棒を海に伸ばし、波に漂う死体を岸壁まで引き寄せる。そして釣りに使っているたも網を頭や足に引っかけて、一気に上まで持ち上げた。
流される途中でサメや魚に食われたのか、身体の一部が無くなっている死体も多かった。そして気温より海水温が高いせいか、死体の腐敗も進んでいる。腐敗で発生したガスが溜まり、腹が大きく膨らんでいる死体がいくつもコンクリートの岸壁に打ち付けられる。
「引き上げるぞ、せーのっ!」
合図と共に、たも網やフックの付いた棒を引っ張って死体を岸壁の上まで持ち上げる。だが漂流中にサメにでも食われて脆くなっていたのか、引き揚げようとしていた死体の足が根元から千切れ、再び死体は海へと落下した。その隣ではガスが溜まって脆くなった腹をうっかり突いてしまったのか、ぼん、という破裂音と共に腐った内臓を海に撒き散らしている死体もあった。
「うげぇぇえっ」
死体は見慣れているとはいえ、それを収容するのはまた別だ。今街に転がっている死体のほとんどは干からびるか骨になっていて、こうした腐っている途中の死体を目の当たりにするのは数か月ぶり、という者も多い。たちまち数人が海に向かって嘔吐し、死体の浮かぶ海をさらに吐瀉物で汚す。
海から引き揚げられた死体は岸壁に並べられ、佐藤がその所持品などを確認していた。いくつも並べられるそれらの死体を見て、少年はマグロの卸売りの光景みたいだ、と思った。本物の卸売りなど一度も見たことはなかったが。
「何かわかったことは?」
「彼らは日本人じゃないってことが一つ。そして死んだのが大体二週間から三週間前ってことが一つだな」
死体は腐敗が進んでいて容貌などもわかりにくくなっていたが、確かに肌の色などから日本人ではないような気がしていた。それに来ているライフジャケットに英語で書かれている船の名前も、なんとなく日本の船舶のものではないような気もする。東南アジア系だろうか、と少年は思った。
「タイとかシンガポール、マレーシア…そんなところだろう」
衣服を身に着けていた死体の服から財布を取り出し、身分証らしきものを確認していた佐藤が続ける。
「外国語、読めるんですか?」
「英語は出来る。中国語とロシア語はそれなりだが、それ以外の言語はさっぱりだ」
「じゃあ死亡時期の根拠は?」
佐藤が男性の死体の腕を指さした。肩から千切れかかったその腕はかなりゴツい腕時計を手首に着けているが、時計にあるべき文字盤が無い。スマートウォッチ、というものだろうか。
「そのスマートウォッチは軍用規格の防水性能で電池も長持ちするタイプだ。日常モードなら大体二十日くらいは保つ。まだバッテリーがギリギリ残っているし、死体の腐敗具合から見てもそんなところだろう」
「よく知ってますね」
「同じものを持ってたからな」
少年が恐る恐るその死体が身に着けているスマートウォッチに触れると、画面が点灯し現在の時刻が表示される。何日も海水に浸かっていたのに動作するとは、流石に軍用規格を満たしているといったところか。
少年が着けている腕時計よりも時間が遅れているのは、彼らが住んでいる場所が日本よりも西だったからだろうか。画面に表示されている電池のマークはほとんど残っておらず、要充電の意味の「!」が点滅していた。
「何があったんでしょうね」
「わからん、これからそれを調べる。英語で書かれた日記か何かを持っている人がいればいいんだが」
少年と佐藤が言葉を交わす間も、死体が続々と海から引き揚げられる。しばらくの間魚を食べたいと言う奴はいないだろうな、と少年は思った。
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