第一八七話 羊たちの沈黙なお話
「あの子たちはあんなんじゃなかった。あんな、人を食うような奴らじゃなかったんだ」
座り込んだ男の口から言葉が漏れる。取り落としたナイフを拾う素振りもない。亜樹がそっと彼の落としたナイフに手を伸ばしても、何も言わなかった。
「…何があったの?」
殴られて拉致され、その上彼らは今まで大勢の人を殺しているのだ。相手が子供で、どんな理由があろうと、彼らに殺されかけた身としてはあまり同情する気持ちになれない。だが何故子供たちがあんな狂気に飲まれてしまったのか、その理由を知っておいても無駄ではないだろう。
「以前、ここにはもっと人がいた。自衛隊や警察が撤退して、取り残された人たちの避難所になっていたんだ」
ここというのは、今亜樹がいる建物のことだろう。構造からしてショッピングモールか何かだと思うが、それならば大勢人がいたのも頷ける。
亜樹は男が取り落としたナイフをいつでも振れる体勢を維持しつつ、彼の話を聞いた。
陸路は事故車両などで塞がれ、海路は感染拡大を阻止する自衛隊に封鎖され、市内の人はどこかに隠れるしかなくなった。その一つがこのショッピングモールだった。
よく知られた施設ということで、当初は大勢人が避難していたのだという。しかしいつまでも来ない救助に、人々の多くはここから出て自ら市外へ出ることを決めた。それでも外に出ることを恐れたり、身体が弱く感染者に到底太刀打ちできない女子供や老人の多くはこのショッピングモールに残ることになった。
最初は大人と子供が半々程度で200人がいたという。混乱の中で親とはぐれた子供も多く、そういった者は大半がこのモールに残ることになった。彼らは先に脱出した人々が救助を呼んでくれると信じて、ひたすら待った。
だがいつまで待っても救助は来ない。ショッピングモールの中は安全だが、外には感染者が蠢いている。そんな状況では迂闊に外に出ることも出来ず、食料や物資はモールの中にあった分しか使えない。日に日に物資が減っていくが、ひ弱な人間ばかりではどうすることも出来なかった。
今は神父のような服を着ている目の前の男は、元々は医学生だったという。ショッピングモールに残ったのは単純に自分が戦える人間ではないと思っていたのと、残った人たちの役に立ちたいと思ったからだった。
だが物資が無くなってくると、男も外に出ざるを得なくなった。夜になり、外の感染者が減ったのを見計らっては密かにショッピングモールから出て、周辺の店などから物資を持ち帰る生活。しかし彼らがショッピングモールに閉じこもっている間に他の生存者たちに持ち去られたのか、他の店にはほとんど物資が残っていなかった。
「あの頃は何も食えるものがなかった。皆すぐに救助が来ると思っていたから、そこまで食料を節約していなかった」
飢えていく人々。しかしショッピングモールに残された食料は尽き、外から調達するにも通りを感染者がうろついていては外に出ることすらできない。
まず栄養失調で高齢者が死んでいった。その遺体は屋上の駐車場で、車から抜いたガソリンをかけて荼毘に付した。漂って来る肉の焼ける臭いに、誰もが涎を垂らしたという。
その後も食糧難は続き、男たちは飢えた状態で物資の調達に出かけた。しかし十分に動かない身体では感染者から隠れることも逃げることも難しくなり、徐々に犠牲者も出始めた。
そして幾度目かの調達から帰ってきたある日、それは起こった。
「仲間が一人、途中で感染者に咬まれてたんだ。でも俺たちはそれに気づかなかった。疲れてたんだ」
「…それで?」
「そいつはショッピングモールの中で死んでた。恐らく極度の疲労と栄養失調が原因だったんだろうな。発症してモール内で暴れ回る前に死んでくれて良かったとその時は思ったが―――今思うと感染者になってくれてた方がだいぶマシだったな」
それまでモール内で出た死体は全て屋上で焼いていた。今度も同じように自殺した仲間の死体を焼こうとしたが、それに待ったをかけたのが子供たちだった。
「ある子が言い出したんだよ。その人食べようって」
元々人間だった感染者は人間を食べている。だったら人間が人間を食べたっていい。自分たちは飢えている。生きている人間を殺して食べるのは悪いことだけど、自分たちが生きるために死んだ人間を食べることは悪いことなのか?
その意見にモール内の人々は賛同した。今は極限状態だ。本当はやりたくないが、やらなければ自分たちが死んでしまう。
「皆飢えて頭が働かなくなってた。むしろ今まで我慢していた理性のタガが外れたんだと思う。俺たち大人はそれはやっちゃいけないことだと思って暗黙の了解で我慢してた。でも子供にはそれが関係なかったんだろうな」
そして男たちはその死体を食べることに決めた。咬まれた傷は大したことなかったし、何より発症していない。それに火を通せば大抵のものは食べられるから大丈夫だろう。判断力の鈍った頭ではそこまでしか考えられなかった。
男たちは死体をバラバラに解体し、ショッピングモールの中にあったガスコンロを使って煮込んだ。やせ細ってはいたが、大人の男一人分の肉は生存者全員が口に出来るほどあった。
「…食べたの?」
「食べたよ、皆。腹が減ってたんだ。でも、こうなることがわかってたら食わなかったさ」
誰もが久々に摂る栄養に笑顔を取り戻した。わずかに残っていた人肉食への嫌悪感など吹っ飛んで、皆配られた肉入りスープを飲み干し、皿に付着した一滴まで舐めとる勢いだった。無論、人間の肉を食うなんてとんでもないと拒否する者もいたが。
「これで元気を取り戻して、また明日から物資調達に出かけよう。そう思ってた。俺たちに明日なんかなかったけどな」
元気になったモールの人々は、それからまた生き延びるために行動した。ある時卸売業者の倉庫から食料を山ほど見つけて、しばらくは食事に困らないほどになった。
だがいくら食べても、なぜか男たちの飢えは満たされなかった。そして、事件は起きた。
ある日突然、ショッピングモール内で複数名が感染者と化して徘徊しているのが発見された。感染者と化した避難民は何人かの仲間を襲って食い殺し、その後殺害された。
外部から感染者の侵入はなかった。感染者になった連中は物資調達などで外に出る機会もない。そして感染者と化したのは全員があの死体の肉を口にした者であり、襲われて殺されたのは死体を食べることを拒否した者たちだった。
彼らの身に何が起きたのかはわかった。熱による消毒が不十分だったのか、そもそも発症していないからといって体内のウイルス量が少ないという思い込みが間違っていたのか。いずれにせよ、感染した原因が咬まれた男の死体を食べたことであるのは間違いなかった。そしてショッピングモールの中で生き残っている者は、皆その死体を食べている。
その日から、徐々に感染者と化す者が増えていった。朝起きた時に、あるいはトイレに行った時に。寝ている間に。時限爆弾が爆発するかのように、感染者と化していく生存者たち。
発症し、理性を失った感染者と化した者はその場で殺された。次に誰が感染者と化すか皆疑心暗鬼になり、それまでの結束を失って人々はショッピングモールのあちこちにばらばらに立てこもるようになった。
男自身も身体の異変をはっきりと自覚できるようになっていた。肉が喰いたい。それも人間の肉を。
その上怪我をしても痛くならない。ある日うっかり手を切ってしまったが、まったく痛みを感じなかった。自分が怪我をしていて、それが痛いということもわかっている。だが痛覚が機能していない。
男は自分たちが感染者になりつつあることを悟った。今回は人肉食という形で体内に取り込んだウイルスの量が僅かだったためか、感染者に咬まれた時のように数分から数時間で発症するということはなかった。ショッピングモールの生存者たちは、数週間を掛けて次々と感染者になっていった。
「待って、じゃああんたはなんでこうして話すことが出来てるの? 感染者になってるんならとっくに理性も知性も何もかも吹っ飛んで、涎垂らして襲ってきてるはずでしょ?」
「そうなんだ、なぜか俺は『完全に』感染者にはならなかった…子供たちも同じだ。他の大人たちは皆感染者になっちまったが、俺だけは今もこうして理性を辛うじて保っている」
何らかの免疫があったのか、あるいは個人差があるのか。子供が完全に感染者へと変異しなかったことから、年齢も関係があるのだろう。
だがそのことを喜ぶ気にはなれなかった。自分たちも変異しつつあるということで、同類と思われたのか感染者から襲われる機会はぐんと減った。おかげで物資調達は捗るようになったが、人間の肉を食いたいという欲求は抑えられない。
「子供たちも変わった…恐怖心がなくなって、代わりに残忍なことも平気で出来るようになった」
唯一残った大人として、男は子供たちの面倒を見ていた。だがある日物資調達に出た子供の一人が、外で生存者を見つけてショッピングモールに連れてきた。「僕たちの暮らしている場所は安心だから来なよ」と言って。
その生存者は子供たちが感染者になりつつある連中だとは気づけなかったらしい。安心しきっていたその生存者は、ショッピングモールに着くなり子供たちに襲われた。全身を貪られ、手足を引き千切られ、バラバラに解体された。
口の周りに鮮血と肉片をこびり付かせながら満足気に笑う子供たちの姿は、人間とも感染者とも異なって見えた。それと同時に男は彼らが食い散らかしている生存者の死体を目にして、今まで抑えていた欲望を爆発させた。
「俺も殺された奴の死体を食った。美味かったよ。今まで食ったどんな料理よりもな」
人間の肉を食べたことで、ようやくずっと満たされていなかった飢えが解消された。男も子供たちも、夢中になって死体を食べた。
「じゃあ私を連れ去ったのも…」
「食うためだ。いくら保存食を食べても、腹が膨れるだけで飢えは満たされない。だが人間を食えばその飢えが満たされる。俺たちはそのことに気づいた」
それから、男たちは市内に出ては生存者を襲った。もっとも、男にも良心は残っていた。本当に人を食っていいのか。何か他に飢えを抑えられる手段があるのではないか。だがその理性は、常に飢えに負け続けた。人を食わなければ自分たちが満たされない飢えで苦しみ続ける、それは子供たちにとっては耐え難いことだった。
人は殺したくないが、食わなければ自分たちが苦しむ。そんなジレンマの中、男と子供たちはあるルールを定めた。
それは「一週間に殺すのは一人まで」というルールだった。一口だけでも人間の肉を食えば飢えは満たされる。人が一人いれば、一週間を凌ぐのはそこまで難しくない。万が一他にも殺してしまった時は、干し肉にしてその分次の殺しを先延ばしにする。
当然子供たちからは「もっと食べたい」という不満の声が上がったが、「後先考えずに殺して食べていけばあっという間に市内から人がいなくなる」と男が説得し、ひとまずこのルールは受け入れられた。市内で隠れていた生存者や、街を探索しに外からやって来た人々を、子供たちは襲ってショッピングモールに攫ってきた。
他の生存者たちも相手が子供とあってか、油断する者が多かったという。だが感染者になりつつあることで、子供たちは体力も筋力も普通とは異なっていた。子供たちは手製の武器を手に生存者たちを襲い、そして食った。
「銃も手に入れたが、俺が使わせなかった。あいつらに銃を渡してしまえば、それこそ手が付けられなくなる」
「で、これが今までの犠牲者たちの成れの果て、と。悪趣味ね」
亜樹は白骨死体で作られた祭壇に目をやった。これまで彼らが食ってきた人間は、10人や20人ではすまないだろう。
「忘れないようにするためだよ、俺たちが人を殺して食ったことを。自分たちの罪を自覚するために作ったんだ、この服もそうさ」
男としては、まさに神にも縋りたい気持ちなのだろう。感染してもなお理性と良心が残っていて、それでも人を食いたいという欲求を抑えられないのは、それこそ地獄だろうなと亜樹は思った。いっそのこと記憶も理性も良心も失い、完全に感染者になってしまった方がまだよかったのかもしれない。
「でも、もう終わりだ」
「終わり? 何が終わるの?」
「あくまでも俺たちは『完全に』感染者になっていなかっただけで、症状自体の進行は続いている。いずれは俺たちも完全な感染者となる」
ある日男が物資の調達に出ていると、偶然生存者と遭遇した。生きている人間の姿を目の当たりにした途端男は意識を失い、気づいた時には自分は血塗れで、口の周りには血と肉片がこびりつき、地面には食い散らかされた生存者の死体だけが残されていた。
子供たちも「一週間に一人」ルールを無視して、生存者の集団を積極的に探し回り、見つけては嬉々として皆殺しにし、食うようになった。注意したら反省はする、だがしばらくしたらまた同じことを繰り返す。
理性と意識を失い、人を襲う。これはもはや感染者だ。男と子供たちの天秤は今まで感染者と人間の間で吊り合っていた。だが今や、感染者の方へと天秤は傾きつつある。
今はまだ理性と意識があるが、それがいつ完全に消え失せて、ひたすら人を殺して食うことだけを求める感染者と化すかわからない。今日か、明日か、一週間後か、一か月後か。
「もう我慢できないんだ。肉を食いたい、人の肉を腹いっぱいに。そのことしか考えられない」
男が顔を上げる。その瞳は感染者と同じく、真っ赤に充血しきっていた。
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