第一八二話 港なお話
かつて日本で一番の人口を誇ったその市は、文化だけでなく交通や産業の要所でもあった。沿岸部には工場が立ち並び、空港まで電車で30分で行ける。新幹線の停車駅もあり、さらには港の客専用ターミナルは大型のクルーズ船までもが停泊できるようになっていて、あらゆる交通機関が揃っていると言ってもいい場所だった。そこに住むことが一種のステータスですらあり、「日本で一番ナンバーを取得したい自治体」とまで言われていたものだ。
それゆえに、日本で感染者が発生した際には真っ先に地獄と化した。駅は各地から逃げてきた人、あるいは逃げようとする人たちでごった返し、当然その中には感染者に襲われ負傷した者もいた。道路は渋滞し、鉄道も各地で寸断され、300万人以上の市民は地獄と化した市内を逃げ惑った。
中には港で船から海へ脱出しようという者もいたが、東京湾は海上自衛隊によって封鎖され、許可なく出航した船は手漕ぎボートからクルーザーまで悉く撃沈された。海へ出るのが許されたのは事前に検疫を済ませた者たちのみで、彼らは洋上の避難所として用意された客船へ乗ることを許された幸運な者たちだった。
「酷いもんだった。港を埋め尽くすような数のボートや漁船が浮かんでた。船が足りないからって海水浴で使うような、空気で膨らませるボートまで持ち出してる連中もいた」
荒れ果てた街を走る車の中、佐藤が呟く。自衛隊員である佐藤も感染者が発生した際、首都圏内で要人護送や救助の任務に当たっていたのだという。
「俺たちはヘリで都心部と立山沖の護衛艦を往復して要人を輸送していた。その時、ヘリの上から海を見たんだ。酷かった」
当初は市民の安全を優先し、洋上への脱出を許可していた政府だが、脱出した市民を収容した客船で感染爆発が発生し、船内が丸ごと地獄と化して千人単位での感染者が出てからは方針が変わった。船で海へ出た住民たちは、やがてどこかの島に辿り着くだろう。あるいは東京湾を出て、本州のどこか別の場所に上陸するかもしれない。
そうなってしまえば、彼らがたどり着いた先でも感染が広がることになる。たとえ今は安全な場所であっても、検疫を受けていない市民がたどり着いてしまえば、そこは枯れ葉をたくさん放り込んだゴミ箱も同然となってしまうのだ。火種が一つあれば、あっという間に燃え上がる。
「港の沖合に護衛艦が停泊して、主砲や機関砲で次々船を沈めていった。豪華なクルーザーも船外機が付いただけのボートも、たとえ小さな子供が乗っている船であっても」
自衛隊内では検疫を受けていない市民の無差別殺害について異論が当然出たようだが、命令に反して洋上で市民を救助・収容した護衛艦が、「艦内で非常事態発生」の言葉を最後に通信が途絶してからは、あっという間に空気が変わった。市民は粗末なボートよりも大きくて武装している護衛艦の方が安全だと投錨中の艦船に近づいて収容を求めたが、自衛隊員からすれば感染者が自分たちの艦に乗り込もうとしているも同然の行為だった。
船の中は逃げ場がない。外部から感染した人間が乗り込んでこない限りは安全だが、一人でも感染者が入り込んだ途端に逃げ場のない地獄へと変わってしまう。狭い船ではあっという間に感染が拡大してしまう。
最終的に、自衛隊員らも「自分たちの身を守るため」という理由で、海に出た船舶への攻撃を積極的に行うようになった。クルーザーを対艦ミサイルで沈め、主砲で漁船を木っ端みじんに吹き飛ばし、ボートを機関銃でハチの巣にした。自衛用の小銃を手にした乗員が甲板に出て、助けを求めて船で近づいてきた漂流する市民を銃撃すらしたという。
「海が真っ赤に染まってたよ。あの光景を見るのは、二度と御免だ」
街道沿いに車を走らせていると、突然現れたくすんだ銀色の壁が道路を塞いでいた。佐藤が指示するまでもなく、亜樹がブレーキを踏んでゆっくりと車を停車させる。
なぜこんなところに壁が? 自衛隊か警察がバリケードとして作ったのか? 少年は最初そう思ったが、壁をよく見るとその正体がわかった。
街道から数十メートル離れた場所にある高架から、電車が脱線して道路を横断するように地面に叩きつけられていた。スピードの出し過ぎか、線路上に感染者が多数いたのか、はたまた感染者から逃げようとした人々が車を高架にでも進入させてしまったのか。
感染者が発生した当日も、日本全国で電車は動き続けていた。海外で暴動が発生しているらしいが、日本は関係ない。それよりも目の前の仕事だ。ただでさえ世界経済が落ち込んでいて先行きが不安なのだから、仕事を頑張らないと。そう思った人々は普段と同じように仕事に向かっていたし、政府もそれを止められなかった。
そしてちょうど帰宅時間となった時に、感染者が全国で一斉に発生した。あの電車もきっとその巻き添えを食ってしまったのだろう。高架から地面に叩きつけられた電車は蛇のようにうねりながら、道路を完全に塞いでしまっている。先頭車両は見えないが、恐らくどこかの建物に突っ込んでしまっているのだろう。
「車は使えない。ここからは徒歩だ」
佐藤の言葉で亜樹がエンジンを切り、少年たちは銃を手に車から降りる。10両はあろうかという電車は完全に道路を塞いでしまっていて、車でこれ以上進むのは無理だった。迂回するのも一つの手だろうが、目的地は近く、歩いても十分行ける距離だと佐藤は判断したのだろう。いずれにせよ今回の目的は前進基地となる安全な場所を確保することなので、目的地にたどり着ければそれでいい。
この先にある警察署が、今回の遠征目的である前進基地の候補地だった。市街地から遠く離れず、かといって近すぎず、それでいて沿岸部の工場地帯にも近い場所。警察署ということで拳銃や銃弾が手に入る可能性もあるが、望みは薄いだろう。
その警察署に向かうためには、目の前に転がる電車の中を通っていくしかなさそうだった。佐藤が上下にひっくり返ってしまった車両のうち、一両の扉から車内を覗き込む。そして「来い」と手招きをしたので、少年と亜樹は佐藤の後について行った。
佐藤が扉に手を掛けて開こうとしたが、当然開かない。非常時には車内から素早く脱出できるようにドアコックを操作すれば簡単に扉が開くと聞いたことがあるが、車内に転がっているのは死体だけだ。中から開けてもらうことはできない。
すると佐藤は車両の連結部に移動すると、そこにあった赤いハンドルのようなものを操作する。そして扉に戻って再度引いてみると、今度はあっさりと開いた。少年は知らなかったが、緊急時には車外から乗員や駅員が操作できるように、非常用のドアコックが外にも設置されている。ドアのガラスを割って侵入すれば手っ取り早いのだろうが、余計な音は立てたくなかった。
佐藤がカービン銃を構えつつ、開いた扉から車内に身を滑り込ませる。やや傾いた状態でひっくり返っていた電車に入ると、頭上からはつり革ではなく座席がぶら下がっている。そして床―――正確には天井だが―――にはいくつもの鞄や携帯電話と一緒に、干からびた死体がそこかしこに転がっていた。
亜樹が無言で顔をしかめていた。死体の状況はどれも酷い有様だ。
乗客たちの死因は、脱線時の衝撃によるものだろう。野良犬や猫に齧られたと思しき死体はあるが、感染者に食い荒らされたものは見つからない。死体はどれもあちこち折れたりねじ曲がっていたり、激しい衝撃に晒されたことが伝わってくる。この分だと、電車のスピードが出ている時に脱線したに違いない。
それでも線路から道路に放り出されたためか、車両自体にそこまで大きな損傷はない。だが中の人間は別だ。電車にはシートベルトはないし、エアバッグだってない。座席から放り出されてしまえば、後はなすすべもなく車内を転げまわるだけだ。
死体はどれもスーツや学生服を身に着けている。学校は休校になっていたはずだが、当時の政府に出来たのはあくまでも「要請」であって、要請に従わなかったところで特段罰則もなく、通常通り授業を行う学校もあった。また授業は休みであっても、部活動などで学校に向かう生徒も多かった。
なるべく死体を踏みたくはなかったが、ひっくり返った車内は文字通り足の踏み場も無かった。鞄の下から突き出ていた誰かの腕を踏んでしまい、太い木の枝を折ったような乾いた音が車内に響く。佐藤は慣れているのか、それとも感覚がマヒしてしまっているのか、普通に死体を踏んで進んでいた。
「足元、転ぶから気をつけろよ」
少年は背後の亜樹にそう声をかけて、再び足を踏み出す。亜樹は既に泣きそうな顔をしていたが、少年が通った後を進んでいく。
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