第一七九話 赤信号 みんなで渡れば怖くないお話
少年が呼び寄せた感染者の大半は、今も誰もいない雑居ビルの中でとっくに脱出した少年を探している。だが遠くから銃声を聞いた感染者が今頃やって来たのか、少年は通りで十数体の感染者と出くわした。呻き声を上げながら通りを彷徨う感染者を前に元来た道を引き返そうかとも思ったが、それでは大幅なタイムロスとなる。少年を回収すべく運動公園に残った佐藤たちは、いつまでも待っていてくれるわけではないのだ。
少年は通りの左右を見回し、一台のトラックが車道の脇で乗り捨てられているのを見つけた。大きなタイヤを履いたトラックは最低地上高が高く、車の下に隠れられそうなほどの空間がある。しかも引っ越しか何かの途中だったのか、銀むくのコンテナのトラックが二台も連なっている。
少年はトラックの近くまで近づくと、さっき屋上で拾っておいたコンクリートの破片をポケットから出した。握り拳より一回り小さい程度のコンクリート片を、まだガラスが割れていない近くのコンビニの窓へと投擲する。数秒後、少年を挟んで感染者たちがいる場所とは反対側から、窓ガラスが割れる派手な音が聞こえてきた。
途端に感染者たちの血走った目が、ガラスが割れる音が聞こえてきた方へと一斉に向く。感染者たちが唸り声を上げてそちらへ突進を始めた瞬間に、少年はトラックの下へと潜り込んだ。そのままのそのそとトラックの下を這っている間に、少年の近くにいた感染者たちは次々とガラスが割れた方へと走っていく。トラックの車体の下から、走る感染者たちの足だけが見えた。
これが人間相手であれば、トラックの下なんて隠れ場所はとっくに見つかっていただろう。だが連中は感染者、疑いを持って探すなんて真似は出来ない。
そのまま少年はトラックの下を這い、再び太陽の下へと戻ってきた。近くにいた感染者たちは全て音がした方へと行ってしまったらしく、少年は再び運動公園に向かって走り出す。あと10分もすれば、辿り着けるはずだ。
いったい僕は何をやっているんだろう。荒れ果てた街を進む中、唐突に思った。
わざわざ自分から危険な真似をして、誰かを助けることになるなんて。半年前だったらそんなことは到底考えていなかったに違いない。あの頃は何が何でも生き延びることを優先し、危険はすべて排除するようにしていた。自分から進んで感染者の囮になるなんて真似、絶対にしなかった。
それが今や、見ず知らずの人たちを助けるために、こうして感染者だらけの街を一人進んでいる。人間は変わるもんだな、と思わず笑った。変わりすぎたような気もしたが。
消音器付きの拳銃を構え、数メートル先の路地からふらふらと姿を見せた感染者に向けて発砲。胸に二発、倒れたところを頭に一発。動かなくなった感染者の死体の横を通り過ぎ、少年は素早く銃口を左右に向けて後続を警戒する。だが、次の感染者は現れない。
今じゃこうやって、殺しの技術すら身についている。確かに僕は変わった、と改めて少年は思った。
指定された合流地点の運動公園へ向かうにつれ、徐々に街並みが変わっていく。運動公園は住宅地の近くにあり、少年はあちこちが焼け落ちた民家の群れの中を進んでいく。比較的裕福な人々が暮らしていたのか、住宅の敷地はどこも広く、駐車場に停まっているのも高級車ばかりだ。
その民家の一つの駐車場に、一台のセダンが停まっていた。何の気なしにその横を通り過ぎようとした少年は、フロントガラスの向こうに見えた光景に思わず足を止める。
運転席と助手席に、仲良く白骨死体が座っていた。車は綺麗で、事故に遭ったり感染者に襲われて死んだようには見えない。門が閉まったままなので、どこかに逃げようとして車に乗り込んだ途端、二人とも病気か何かで死んだということでもなさそうだ。
その時道路の向こうから数体の感染者がこちらに歩いてくるのが見えたので、少年はとっさに門を乗り越え、そのセダンの陰に身を隠した。感染者たちが呻き声を上げながら、ついさっきまで少年がいた場所を通り過ぎていく。
感染者たちが自分に気づくことなく去ったのを確認し、少年は立ち上がった。そして前進を再開しようとしたが、思わず車の中を見てしまったことで、その足が再び止まる。
セダンの後部座席に、子供くらいの死体が二つ、並んで座っている。そして車の窓ガラスの淵にはガムテープが貼られ、エアコンの吹き出し口も布の塊で塞がれていた。窓から車内を覗き込むと、後部座席の床に七輪が置かれているのが見える。
一家心中。その言葉が頭に浮かんだ。
あの七輪の中身は練炭で、窓がガムテープで目張りされているのは車内の換気を出来なくするためだろう。いわゆる練炭自殺だ。一酸化炭素中毒による自殺はそれほど苦痛が無いと聞く。少年は練炭自殺などしたことが無いので、それが本当かどうかは知らないが。
この家族は感染者と戦うことも、どこか安全な場所を探して逃げることも選ばなかった。代わりに全員が人間であるうちに、この世からおさらばすることを選んだのだ。
これまで自殺してきた人たちは数多く見てきた。感染者に噛まれてしまい、自分も理性を失ってしまう前にせめて大切な人たちだけは襲いたくないと自ら死を選んだ人たち。あるいは感染者にいつ襲われるかわからないという恐怖と孤独に耐え切れず、死という安らぎを得ようとした人たち。
集団で自殺した人たちだっていた。森の中を歩いていたら、突然木々にいくつも死体がぶら下がっていたこともある。感染者から逃げきれないと生きることを諦めて、自然に集まった人たちが一斉に首を吊ったのだ。
だが親が自分の子供までも巻き込んだ一家心中なんてのは見たことが無い。車があるのであれば、逃げればよかったのに。それとも彼らは、そんな考えにすら至らないほど疲れ切ってしまっていたのだろうか?
車のチャイルドシートと服装から見たところ、死んでいる子供はまだ小学生にもなっていないだろう。物心ついていない子供を、親の勝手な考えで死に追いやってしまってもいいのか? 何が何でも子供を守るのが、親の役目ではないのか?
その反面、彼らの気持ちもわかるような気がした。世界中が絶望的なニュースで溢れ、やがて電気やガス、水道、通信といった社会インフラも死んでいく。外は危険な感染者がうろついていて、にもかかわらず警察や自衛隊は救助に来ない。
感染者に襲われれば、全身を食われる苦痛の中で死んでいかなければならない。自分ひとりがその苦痛を味わうならば、まだ耐えられるだろう。だが大事な家族がそんな目に遭うかもしれないと考えたら?
少年に子供はいない。恋人は一度だってできたことはない。だから少年が目の前の車の中で骨になっている両親のことを、どうこう言える立場にはなかった。子供を自分たちの自殺に巻き込むなんてという憤りと、子供を苦痛の中で死なせたくはないよなと同情する気持ちが両立していた。
大切な人たちを守るために、戦うのではなく死を選んだ親たち。その判断は正しかったのだろうか?
少年は今まで何度も死にたいと思うことがあった。だが結局死への恐怖に負け、多くの人たちを犠牲にしながらここまで生きながらえてきた。少なくともそれよりかは、ずっとマシな判断だろう。自分たち以外の誰も手に掛けることはなかったのだから。
いつの日か、彼らの気持ちが分かる日が来るのだろうか。自分が親になり、子を持つことがあれば、目の前で骨になっている彼らの決断を理解できるのかもしれない。
運動公園では、一台だけ残ったミニバンが少年の到着を待っていた。救助した子供たちは既に他の車両に乗せて、先に埋め立て地へと向かっている。だが佐藤は自ら囮を買って出た少年を回収するために、誰もいない運動公園で彼の到着を待っていた。
「まだ来ない…やっぱりあいつに何かあったんじゃ」
運転席でハンドルを握る少女、亜樹が何度も腕時計を眺めてはそう呟く。少年の回収役として、自ら残るといったのは彼女の方からだった。少年とは色々とゴタゴタがあったが、それでも長い付き合いだ。放っておけないのかもしれない。
「落ち着け、まだ1時間も経ってない。90分までは待つって約束だ、それより早くここを出発するつもりはないから安心しろ」
「でも、無線で応答がないんですよ? あのビルから脱出できなかったり、もしかしたらどこかに追い詰められてるのかも」
「無線が通じないのは距離があるからだ。あいつが持ってる携帯用だと、通話できるのはせいぜい500メートルかそこらだ。出なくて当然だ」
「じゃあ、90分経ってもあいつがやってこなかったら?」
その可能性は当然佐藤も考えていた。むしろ、来ない可能性の方が高いだろうとすら思っている。
少年は救助した子供たちを無事に脱出させるため、敢えて自らを囮とした。少年の狙い通り、感染者たちがやかましく銃を撃ち放つ彼に向かって殺到していったことで、佐藤たちと救助した大学生や子供たちは、感染者に見つかることなく安全に百貨店から出ることが出来た。
百貨店を離れる際、佐藤は雑居ビルの屋上に仁王立ちになってライフルを発砲する少年と、彼のいるビルに向かって走っていき、階段を駆け上る感染者たちの姿を目撃していた。普通の人間だったら、間違いなく脱出できないだろう。彼にはいろいろな技術を教えてきたが、それを駆使しても感染者が溢れるビルから無事に脱出できたかどうか怪しい。
だが佐藤は心のどこかで、少年は無事だろうと確信していた。彼の生への執着は凄まじい。それこそ、かつては何としても生き延びようとして大勢の人を死に追いやってしまっていたほどに。
その少年が、自殺志願のような役割を引き受けるはずがない。彼は最初から、生きることを諦めてはいないだろう。佐藤はそう考えていた。
そしてその考えは当たる。数分後、点けっぱなしにしていた無線機から、ノイズと共に少年の声が流れた。
『あー、こちらデッドマン。運動公園に到着しました。ゴースト、そちらの位置を教えてください』
「ほらな?」
少年の声が聞こえた途端、亜樹の顔が明るくなった。何をどうしたのかは知らないが、どうやら彼はやり遂げたらしい。声を聴く限り、負傷しているということもなさそうだ。
「こちらゴースト、お疲れさまだな。こちらは今テニスコート脇の林の中にいる。そちらは?」
『運動公園に入ってすぐの、野球場の控室です』
「感染者はいるか?」
『いえ、でももしかしたら近くにいるかも』
「わかった。どのみちここから出るには野球場の近くを通る。今から迎えに行くから待ってろ」
『了解。それと…』
「心配するな、救助対象は全員無事だ。先に帰ってる」
佐藤がそう言うと、無線機の向こうからでも少年が安堵の溜息を吐いたのが分かった。
あとは、この運動公園を出て先に帰った連中の後を追うだけだ。佐藤は運転席に座る亜樹の肩を叩き、亜樹が車を発進させる。シートを取っ払ってフラットになった床に座り込み、佐藤は武器のチェックをしつつ、少年が無事帰って来たことに自らも安堵していた。
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